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理系だが文系のセンスが欲しい

-境界で生きてきたらしい-


自己紹介さらり

理系オタクと数字オンチ。
理系や文系の面々を外から、あるいは自虐的に軽く揶揄する時に無意識に使う言葉だ。まだ死語ではなさそうだが、別にオタクもオンチも悪くはない。

私は理系の端くれだ、noteやる程度なので天才ではない。ギフテッドたちが引き込まれていく高度な数学を駆使した物理学には残念ながら唆られなかった。まず、これまで先延ばしにしてきた自己紹介をサラッとやってみたい。

バイオを専攻し、黎明期直後の分子生物学の中で遺伝子の仕組みや動きに魅せられた、懐かしくも苦渋の学生時代。研究職として薬理学に踏み込み、ヒトの身体や脳の出来過ぎた仕組みに驚かされた毎日。社会や会社の矛盾を斜に構えた納得顔で、登らざるを得なかった管理職としての長くも殺伐とした年月。鮮やかなサーフィンとはいかないが、自分なりに波乗りしてきた沖縄でのベンチャー経営の日々。そして、自由気ままな思索を奏でてみたい昨今。あくまで表向き、こんな風に生きてきたらしい。

生命現象の中で遊びまわる実験科学がベースなのだが、シュレディンガーの『生命とは何か』やジャック・モノーの『偶然と必然』、あるいはドーキンスの『利己的な遺伝子』といった私なりに言えば「哲学らしき思想めいたモヤモヤ」が原点だったような気がする。実験を愉しみつつも、文系的な思索の渦にもハマってみたい。所詮、大学受験のための切り分けから始まる文理。その境界からスレッズのあるポストを起点に戯れてみる。

宿題「意識、自我、私」

私って?自我って?意識って何?
文系の学生さんの課題かな、このポストにどう答えるか。今時の小中学生向けの回答なら「意識とはゲームのスクリーン、自我とはコントローラー 、私とはプレイヤー」かなと、例えてみる。
理系と文系の分岐が入る気の利いた高校生だとどう答えるか。あくまで私の勝手な想像なのだが、高3理系は「意識はクオリア、自我は制御アルゴリズム、私は統合モデルだ」だとか、同じく文系は「意識は意図性、自我はペルソナ、私はナラティブだ」とか小賢しく言い始めるのではなかろうか。さらに大学や大学院という専門領域へ足を踏み入れると、視点の乖離はピークに達し、もはや会話すら成立せず「理系オタクとか数字オンチ」という斧でばっさりと片づけてしまうのが賢明な策となる。

理系(バイオ)のばあい

バイオ(分子生物学や生化学)の専門的視点を通すと、小中学生の素朴モデルは複雑系(受容体応答、シグナル伝達カスケード、遺伝子発現ネットワーク)へと置き換わる。まず、生体分子の動的平衡の中に意識を捉えようと試みるものの、あるのは無数のニューロンと分子群が起こす化学反応――流動するシステムに過ぎない。私という独立した実体などどこにも存在しないという現実に突き当たる。そして、こう結論づける。自我とは、生体システムがホメオスタシスと環境応答を維持するために、細胞ネットワークの上に立ち上げた過剰適応の産物に過ぎないのではないかと。一周回って無我の境地に辿り着いてしまうというコメディー。

文系のばあい

文系的視点では、高次な言葉による自縄自縛に陥るのかもしれない。彼らが紡ぐ文章の構築美や言葉選びの精度には、羨望すべき完成された美しさを感じてしまう。一方で、読者を置き去りにしがちな某大学・文系教授の手にかかると「社会システム論やルーマン、あるいはラカン的な文脈を少しでも踏まえていれば、単なるシステムが維持されるための便宜的なインターフェースに過ぎないと一発で分かるはず」「意識とは過剰な情報を処理するために立ち上げられた便宜的な表示画面に過ぎない。自我は社会的コミュニケーションの中で後付けされる自己弁明のシステムであり、私とはその流動的な構造の隙間に一瞬浮かび上がる錯覚である。言葉で武装するほど実体から遠ざかる」などとなる。分かったような分からないような、言葉の迷宮で私を迷子に追いやる、ラビリンスのファンタジー。

文理の非対称性

不変の法則や再現性を追う理系と、文脈や多様性を重んじる文系。両者にはどうにも不可逆な片道切符が交差している。
高校時代、「数学が苦手だから」と文系へ流れた友人を覚えている。数学や物理という積み上げ型の言語は一度降りると再参入が難しい。いわゆる文転(理系から文系への転換)は容易でも理転はほぼ不可能なのだ。
この非対称性は大人になっても続く。理系が歴史や哲学の本をめくり、言葉の質感に歩み寄るのは案外たやすい。しかし文系が分子生物学の動的平衡や数理モデルの核心へダイブするには、あまりに壁が高い。理系から文系への比較的容易な越境は、理系人間の贅沢な特権なのかもしれない。
……と、ここで調子に乗るのが理系の浅はかなところで、この手の特権には大概ろくでもない罠が仕掛けられている。

理系が陥るトラップ

文系知を分かった気になり、双方を俯瞰していると錯覚し、気づけば会話が噛み合わず孤立する。所詮、付け焼刃の知識で文系の深遠さに及ぶはずもなく、自己満足的に精密度を上げすぎた結果、自爆に至る。
理系は生体分子の流れの中で自らを見失い(コメディ)、文系は言葉の迷宮で迷子を誘発し(ファンタジー)、その間で理系オタクが越境して勝手に自爆する。文理の境界でそんな徒労を眺めながら、結局のところ「理系オタクとか数字オンチ」という斧でバッサリ切り落とす雑さが、程よい処方箋なのだということに気付かされる。

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