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三人の女性の座右の銘|否定の否定

一人目の女性は、私の母です。
※三人シリーズの予定です。




母は心身ともに強く
したたかな人間です。




今は、老い先短かな弱者ですが、
私は、母という人があまり好きではありません。




ただし、私は母の一番の理解者かも
しれません。



私が成長するに連れて、
母は自分の生い立ちから始まった



ライフストーリーを語るようになりました。



母は、二・三才の頃、
子どもがいなかった母方の叔母夫婦の



養子となります。



けれども、
その約7年後に叔母の実子が誕生した春、
生みの親の家に戻されます。



母はその理由を、聞かされていませんでした。



当時、母は小学4年生。





子どもは、十歳頃より
論理的な思考が急速に発達します。

そして、自分や自分と他人との関係を
客観視できるようになるため

家族や学校などの小集団の中で

自分はいなくていい存在だと思えば
自死する場合もあり得ると言われています。




母は自分の(養子となった)家から離れ
従妹の(生みの親の)家で暮らし始めます。




「どうしてお母ちゃん(養母で叔母)は
こんなことをするのかな?」



毎日、不思議でたまらず、
早く家に帰ることだけを考えていました。



母は夏休みに入るや否や
養母の家に帰りました。



父親(養父)は
いつもの優しいお父ちゃんだったそうです。



夏休みが終わり、母は
実母の家へ戻されることになります。



列車の窓から、見送りにきた
養父母に「戻りたくい」と懇願しましたが、



「お母ちゃんは最後まで
目を合わせてくれなかった。」
これを言葉にした母の横顔、遠い眼差し。



母は、その日を境に
お母ちゃんの家には一切帰らなかったそうです。



この経験は
十歳の子どもにとって




どれほど、悲しく、傷ついたことか、
母となっていた自分は、



子として、母として、その理不尽さは
想像に難くありませんでした。



この母の経験は、



二人目の母親にも、捨てられたことを
意味したのではないかと思いました。





しかし、その頃の時代背景を考えれば
祖母や大叔母を一方的に責める気にはなれませんでした。


国が戦争に流れ
国民の生活苦が表面化していった時代。



そのような社会を生きていた
実母や養母には、


子どもが受けたぞんざいな扱いの意味を
理解できる教育を受けることもなく



そもそも、生活の余裕という基盤も
脆弱だったのではないかと思われます。


また、母がその時に受けた
精神的なダメージをケアする職種や
社会的システムも未整備な世の中でした。






「誰にも、何も、話したくなかった。」



母は成長するにつれて、
その経験を周囲に理解されることなく



ケアする機会も得られないまま成長しました。
その怒りの記憶は、



脳の冷凍庫の中で、
フリーズしたたままのように見えました。



そして、そのことは
彼女の生涯の対人関係のつくり方に



潜在的で、決定的な影響を
与えたのかもしれません、



母が、誰かとこころから
打ち解けて話す姿を見たことがありませんでした。



母は頑なで
誰にも気を許さず
誰も認めようとしない



狭い視野の中で
突っ張った生き方を貫いているかのようです。



そんな母の座右の銘は「負けるが勝ち」



本心を否定し、
負けたフリをして相手の緊張を解き



油断させ(対象もそれまでの心を否定)
虎視眈々と自分に有利な方向へと舵を切るのです。



母親のやり方は、欺瞞的ーー
かもしれません。



多分、大人になってからも
人との出会いに恵まれず
(人間との繋がりも相互作用ですから)



誰も信じられない世間の中で
必死に自分を守り、生き延びるために 



身につけた
彼女なりの処世術だったのだと思います。



人生は、何をもって成功とするかは
人それぞれかもしれません。



けれど、母は九十三歳の今まで大病もせず
毎日、お洒落をして



部屋の掃除や飾りつけを怠らず
大人の塗り絵などを楽しんでいます。



多分、老衰の大往生を迎えるでしょう。



そういう意味では
母は、人生の勝者なのかもしれません。







※自分の言葉を読み返してみると、
自分自身もまた親への恨みや怒りがあることに気づかされます。🍃


















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