橋の上の静寂
帰宅途中の川沿いに、小さな歩行者専用の橋が架かっている。
欄干はくすんだ鉄色で、足元の木板はところどころ軋む。その橋のほぼ中央に、背の高い中年の男性が毎夕立っていることに気づいたのは、三月の風がまだ頬を刺す頃だった。
彼はコートのポケットに両手を入れ、スマートフォンも取り出さず、ただ川面をじっと眺めている。行き交う人波の中で動かない影は、時節外れの標識のように静かで、私はいつも視線を奪われた。
彼が何をしているのか、推測だけが膨らむ。誰かを待っているのか、忘れ物を思い出そうとしているのか。それでも私は話しかけず、毎日すれ違うだけだった。
四月には桜の花びらが水面に散り、五月には川縁の柳が淡く芽吹いた。
六月に入る頃、気づけば私自身も橋の真ん中で歩みを止めるようになっていた。朝は満員電車、昼は会議と締切、夜は溜息と無言の帰路──押し寄せる時間の奔流のなかで、この橋だけが流れからわずかに外れ、静かな中洲のように私を留め置いた。
灰色の雲が重く垂れ込めたある火曜、先に橋へ着いていた彼がふいに振り返り、低い声で話しかけてきた。
「この川、昔はもっと音が大きかった気がするんです」
私は少し考え、「たしかに静かですね。でも今の音も悪くないです」と応えた。川面を渡る風の音と、時折聞こえる遠い車の走行音。それらが混ざり合って、耳に届くのはかすかな揺らぎだけだ。
彼は頬を緩めて言った。「ちょうどいい静けさ、というやつかもしれません」
その会話で言葉は尽き、私たちは再び並んで川を眺めた。ふと視界の隅を白鷺が横切り、風に逆らうように水面すれすれを飛んでいった。彼はいつもより長く佇み、やがてコートの襟を正すと小さく「では」と言って歩き出した。
私はその背中を目で追いかけ、橋の向こう側に吸い込まれていくまで見届けた。
不思議なことに、胸の奥に絡んでいた重みが少しほどけていた。何一つ解決していない。明日も満員電車は混み合い、会議の資料は山積みのままだろう。それでも、どこかで誰かと同じ時間にただ立ち止まり、同じ川の音を聴いていた――その事実が、今日という一日の硬さをわずかにやわらかくしてくれたのだった。
