『名探偵・静かな』VOL.1 銀山温泉編 ①/全4話

第1話:雪道の大転倒と謎の灯り
尾花沢・銀山温泉の宵。
凍りついた石畳に下駄の音が控えめに響き、軒先にずらりと吊るされた干し柿の朱色が、灯り始めたガス灯にほんのりと照らされている。
「今日は早いな」
老舗旅館『銀波(ぎんなみ)』の帳場で帳簿を閉じながら、淳平が何気なく窓の外を見た。
通りでは、点灯係の老人が長い点火棒を肩に担ぎ、次のガス灯へと歩いていくところだった。
「夜半から吹雪くって話ださげ、親方が早めに回ってるんだと」
仲居の一人がそう答え、抱えていた湯籠を持ち直す。
「いつもより半刻くらい早いべか」
「んだな。暗ぐなってから吹雪の中歩がせるよりは、その方がいいべ」
「んだば酒屋さんも、いつもより早めに来て良がったな。届け物置いてったら、すぐ帰ってったっけ」
淳平が帳簿の脇に置かれた酒樽の伝票へちらりと目をやりながら、そう付け加えた。
そんな短いやり取りも、ほどなく帳場へ駆け込んできた客の声にかき消された。
――事件は起きていた。
「湯上がりに部屋へ戻りましたら、鏡台の上に置いていたはずの簪(かんざし)が、影も形もございませんでしたの」
細く、しかし芯のある声でそう告げたのは、この宿に長年通う常連客・桔梗夫人だった。
上品な訪問着の袖口をそっと押さえ、困り果てたように眉尻を下げる。
「亡くなった母から譲り受けた、銀細工の品でございましたのに。長年こちらに伺っておりますが、こんなことは初めてでございますわ」
責める言葉は一つもない。
それなのに、彼女が発する静けさそのものが、宿の信用にじわりじわりと染みを広げていく。
居合わせた宿泊客たちが目配せを交わし、視線が若女将・深雪へと集まった。
「も、申し訳ございませんっす。ただいま帳場の者みんなで、館内くまなく探しておりますさげ……」
三年前、体を壊した父に代わって帳場に立つようになってから、深雪はこの手の頭の下げ方だけは妙に上達した。
だが今日ばかりは、帯の結び目を握る指先から血の気が引いていく。
傍らに控えていた幼馴染の淳平が、彼女を庇うように半歩前へ出た。
「桔梗様、お部屋の窓の建てつけも、もう一度確かめてまいります」
桔梗夫人は帳場の柱や梁をゆっくりと見上げ、小さく息をついた。
「こういう古いお宿は、維持していくだけでも大変でしょうねぇ。雪国ですもの、修繕ひとつ取っても都会とは勝手が違いますでしょうし」
「まあ……古い建物ださげ、手ぇ掛かることは掛かります」
深雪が曖昧に笑うと、夫人はすぐに柔らかな笑みを返した。
「でも、それだけ大切に守られてきたということですものね」
それ以上は何も言わなかった。
けれど淳平だけが、なぜか一瞬、帳場の奥に積まれた修繕見積書へ視線を走らせた。
その時である。
ズザザザザッ!!
通りの坂道を、何かが猛烈な速さで滑り落ちてきた。
仕立ての良いトレンチコートを羽織った大人の男である。
凍った下り坂に足を取られ、両腕を大きく振り回しながら軒先の干し柿の吊るし紐へ真正面から突っ込むと、朱色の実の束をすべて首から提げたまま、格子戸に背中からめり込んで、ようやく止まった。
しばしの沈黙。
男は干し柿を首飾りのようにぶら下げたまま悠然と立ち上がり、乱れた襟を整えると、人差し指をすっと唇に当てた。
「静かに、静かに……。皆さん、取り乱すのはそこまでです」
(干し柿つけたまま何言ってるんだべ!)
帳場に居合わせた全員の心の声が、綺麗に重なった。
「な、なんだべこの人……」
深雪が思わず後ずさる。
男は首から干し柿をむしり取ってポイと放ると、トレンチコートの裾を翻し、不敵に微笑んだ。
「すべてわかりました。私の名前は、名探偵『静かな』。この一件、私が預かりましょう」
言うが早いか、彼は懐から不釣り合いに巨大なルーペを取り出し、深雪の顔のすぐ前へ突き出した。
「ほう……。雪灼けひとつない、白磁のような肌だ。まるで新雪に足跡をつけるのが躊躇われるほどの美しさですね。ご安心なさい、その曇った表情は、私が晴らしてみせましょう」
(事件と関係ねべ!)
全員の心の声が再び重なる。
「あんた、女将さんに何してくれるんだず……!」
割って入った淳平の顎先に、ルーペがぴたりと向けられた。
「ほう、君か。……随分と手の皮が厚い。雪かきで鍛えた腕、それとも――重い証拠品を運び慣れた腕かな?」
「言いがかりも大概にしろ!」
だが『静かな』の耳には届いていない。
ルーペが淳平の手から離れ、ふいに桔梗夫人の足元へ下がった。
訪問着の裾。
そこに、雪解けの水滴と一緒に、ごく小さな黒い粒が二つほど付いている。
『静かな』はほんの一瞬だけ目を細めた。
「……ほう」
「何か?」
桔梗夫人が尋ねる。
次の瞬間、『静かな』は満面の笑みで顔を上げた。
「いえ。実に上等なお仕立てだと思いまして!」
(そこ見るとこ裾だべ!)
再び帳場の心が一つになった。
『静かな』は何事もなかったように帳場の中央へ進み出ると、集まった一同をぐるりと見渡し、朗々と言い放った。
「よろしいですか皆さん。これは単なる置き引きなどではない。狙われたのは銀細工――この裏には、国際銀器密輸組織の影が潜んでいるとみて間違いありません!」
「こ、国際……?」
あまりの大仰さに、居合わせた誰もが束の間言葉を失い、我に返ってからそっと目を逸らした。
とんでもない変人が来てしまった、という空気が帳場に満ちる。
桔梗夫人だけが、扇子で口元を隠しながら困ったように目を細めた。
「まあ、探偵さんもご苦労なことですこと。……そういえば、湯上がりに部屋へ戻る前、ほんの少しだけ裏庭を歩いておりましたのよ」
「裏庭を?」
「ええ。まだいつものガス灯が灯る前の時刻でしたから、あたりは暗くて。雪明かりこそございましたけれど、人の顔まではとても。誰かとすれ違っていたとしても、きっと気づかなかったでしょうねぇ」
同情を誘うような、静かな声だった。
「確かに、いつもならまだ灯り入ってねえ時間だな」
淳平が呟き、深雪も小さく頷いた。
――だが、その言葉に一同が納得した、その直後だった。
誰もが彼女の話に気を取られた隙に、『静かな』の視線だけが、すっと軒先のガス灯へ流れた。
雪明かりの中、その瞳に一瞬、鋭利な光が宿る。
「……いつもの、灯りが入る前……か」
誰の耳にも届かぬほどの呟きだった。
その横顔は、冷ややかなまでに『本物の探偵』のそれだった。
だが次の瞬間には、いつもの締まりのない笑顔で拳を突き上げている。
「ところで女将さん、夕餉はまだ間に合いますか? 私、芋煮は断然、牛肉派です!」
(知らねべ!)

銀山の宵が、静かに――いや、まったく静かではないまま、更けていく。
(第1話・了)

