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静寂の墜落 (Silent Fall) *A Veil of Tempest Side Story* 8

8

 嘆きの山脈(ウィーピング・マウンテンズ)は、登る者を拒むのではない。登る者の「心」を削り、内側から崩壊させる場所だ。
 標高が上がるにつれ、雨は霙(みぞれ)へと変わり、やがては重い、粘りつくような雪へと変化していった。だが、その雪も白くはない。スモッグと魔力の残滓を含んだ、煤けた灰色だ。
 ライラは、断崖に穿たれた細い獣道を一歩ずつ進んでいた。
 視界は数メートル先も見えない。絶え間なく鳴り響く雷鳴は、もはや音ではなく、内臓を直接揺さぶる震動と化していた。稲光が走るたび、眼下の雲海が不気味な暗紫色に染まり、底知れない深淵が口を開けているのが見える。
 普通なら、ここで引き返す。あるいは、寒さと恐怖に耐えかねて足を踏み外す。
 だが、ライラは恐怖を感じなかった。
 彼女の「共鳴」は、周囲の嵐と奇妙な調和(シンクロ)を始めていた。
 落雷の予兆である空気の帯電。雪崩を誘発する魔力の揺らぎ。それらすべてが、彼女の意識の中では事前に「警告」として弾けていた。彼女は、死が訪れる数秒前に、その場所から「ずれる」ことができた。
 一歩、また一歩。
 彼女の靴は、泥濘んだ雪の上を滑るのではなく、雪の隙間を縫うように進んでいた。
「……そこまでよ、放浪者(ストレイ・シープ)」
 不意に、雷鳴を切り裂いて、澄んだ、しかし力強い声が響いた。
 ライラが顔を上げると、岩陰から十数人の人影が現れた。
 彼らは、黒いローブの上に風化した鎧を纏い、手には稲妻を模したようなギザギザの槍を携えていた。嘆きの嵐教団(モーニング・テンペスト・カルト)の信徒たち。
 彼らの眼は、一様に虚ろだった。だが、その瞳の奥には、狂信的な情熱が灯っている。
「ここは聖域。嘆きの母の涙が降り注ぐ場所」
 一人の大柄な男――ゲイル・ランナーが前に出た。
「組織(ヴェイル)の犬か、それともただの自殺志願者か。どちらにせよ、これ以上先へは通さない」
 男が槍を掲げると、先端からパチパチと青白い火花が散った。
 ライラは足を止めず、真っ直ぐに男を見据えた。
「……どいて。私は『母』に用があるの」
「不敬な! 汚れた足で聖域を汚すな!」
 男が咆哮し、槍を突き出した。
 瞬時に、数条の稲妻がライラを襲った。
 逃げ場のない、死の閃光。
 だが。

 稲妻は、ライラの体の数センチ手前で「屈折」した。
 まるで、彼女の周囲に不可視のプリズムが存在するかのように、雷光は彼女を避けて背後の岩壁を砕いた。
 男の顔が驚愕に歪む。
「……なっ!? 避雷の術式か? いや、魔力の反応がない……」
「言ったはずよ。どいてって」
 ライラは無造作に一歩踏み出した。
 信徒たちが次々に武器を振るう。風の刃、冷気の弾、そして重厚な鉄の槍。
 だが、そのすべてがライラに「触れる」ことができなかった。
 彼女は避けているのではなかった。
 彼女が歩く場所から、世界の物理法則が一時的に「退去」していた。彼女の通過する空間は、一瞬だけ『空っぽ』になり、あらゆる攻撃は行き場を失って虚空を薙いだ。
 それは戦いではなかった。
 ただの、不可抗力的な行進だった。
「……化け物め!」
 男が再び槍を構えようとした、その時。
 山全体を震わせるような、巨大な、そしてどこか「悲しげな」鐘の音が響き渡った。
 信徒たちが、一斉に動きを止めた。彼らは武器を捨て、その場に跪き、祈りの姿勢をとった。
「……止めなさい、我が子供たちよ。そのお方は、私と同じ『穴』を抱えた同胞です」
 声は、風そのものが喋っているかのように、周囲のすべてから聞こえてきた。
 ライラは足を止めた。
 霧が、急激に薄れていく。
 目の前には、崖からせり出した巨大な祭壇があった。その向こうには、荒れ狂う嵐の岩壁海岸(ストーム・クラッグ・コースト)が広がり、黒い海が白い飛沫を上げて岩を削っている。
 祭壇の中央。
 降り注ぐ雨の中、傘も刺さずに一人の女性が立っていた。
 レディ・セラフィナ。
 彼女のブロンズ色の肌は雨に濡れて輝き、その瞳からは絶え間なく涙が零れ落ちていた。
 だが、その涙は地面に落ちる前に青い火花へと変わり、大気をビリビリと震わせていた。

「……ライラ・ヴァンス」
 セラフィナは、愛しき娘を迎える母親のような微笑みを浮かべた。
「ようやく、辿り着きましたね。あなたの『共鳴』が、ここまでずっと私の心臓を叩いていました」
 ライラは、セラフィナと数メートルの距離まで近づいた。
 彼女の周囲では、物理的な雨が降っていない。正確には、雨が彼女に触れるのを「拒否」しているようだった。
「……あなたが、セラフィナ?」
「いかにも。……そして、あなたが、エリアスが遺した『最後の解答』」
 セラフィナが手を差し出した。
 その手のひらの上では、小さな雷が渦巻いていた。
「彼はここに立ち、私に語りました。この世界はあまりにも多くの音に溢れ、悲しみに満ちている。だから、すべてを消し去る『静寂』が必要なのだと」
「彼は、世界を壊したいなんて思っていなかったわ!」
「ええ、そうでしょうね。彼は破壊ではなく、救済を求めていた。……ですが、私には分かります。彼が求めた救済とは、すべての存在が等しく無に還ること。……この領域を覆う醜い霧も、偽りの秩序も、無意味な自由も。すべてを洗い流す、清らかな嵐です」
 セラフィナは一歩、ライラに近づいた。
 彼女が放つ魔力の圧力(プレッシャー)は、エララやアヤメのそれを遥かに凌駕していた。それは個人の力ではなく、この世界の「怒り」そのものを背負っているかのようだった。
「ライラ。貴女は、自分が何者か分かっていますか? 貴女の中にあるその『穴』は、単なる能力ではありません。それは、世界が『静寂』を求めて口を開けた、最初の傷口なのです」
「……傷口?」
「貴女は、嵐を器として受け入れられる唯一の存在。……エララは貴女を管理しようとし、アヤメは貴女を戦わせようとする。ですが、私は貴女を『解放』してあげたいのです」
 セラフィナの涙が、ライラの頬に一滴落ちた。
 冷たくて、鋭い、電気の痛み。
「私と一緒に、この世界の泣き声を止めましょう。貴女が器となり、私が嵐を歌えば、世界はついに、永遠の静寂を手に入れることができるのです」

 ライラは、セラフィナの瞳の奥を見た。
 そこにあるのは、底知れない狂気ではなく、耐え難いほどの「孤独」だった。
 セラフィナは、家族を失ったその日から、世界中のすべての悲しみを自分のものとして受け入れてしまったのだ。そして、その重みに耐えきれず、世界ごと心中しようとしている。
「……エリアスは、あなたを哀れんでいたわ」
 ライラは静かに言った。
「彼は言っていた。『セラフィナは、嵐そのものになってしまった。彼女を救えるのは、嵐よりも深い静寂だけだ』って」
 セラフィナの表情が、一瞬だけ凍りついた。
「……救う? 誰が私を? 誰が……」
 彼女の周囲の電位が、一気に跳ね上がった。空が激しく鳴動し、巨大な雷柱が海面に突き刺さる。
「救いなど、どこにもありません! あるのは、この終わりのない慟哭だけ! ……ライラ、貴女も分かっているはずよ。その『穴』が、どれほど冷たく、どれほど寂しいかを!」
「……ええ。分かっているわ。だからこそ、私はあなたの器にはならない」
 ライラは、エリアスの短銃を引き抜いた。
「私は、この穴を何かで埋めるつもりはないわ。……この空っぽな私のままで、真実を見届ける。それがエリアスとの約束よ」
 セラフィナの悲鳴が、嵐に吸い込まれた。
「……強情な子。……ならば、その『穴』が溢れるまで、私の涙を注いであげましょう!」
 猛烈な突風が吹き荒れ、視界が真っ白な雷光に塗りつぶされた。
 ライラ・ヴァンス。
 彼女は今、世界の終末を望む聖女と対峙していた。
 退路はない。
 あるのは、狂ったように荒れ狂う北の海と、彼女の胸の内に広がる、静かなる虚無だけだった。

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