#シロクマ文芸部 夏休み、人生を休むことにした。~短編小説~
小牧幸助さんのお題で書きはじめる企画「夏休み」に参加です。
締切は8/12(水)23:59だそうです。よろしくお願いします。
※この物語はフィクションです。
夏休み、人生を休むことにした。
夏休みの朝は、いつも少しだけ時間が違っていた。
目覚まし時計が鳴らない。
カーテンの隙間から差し込む光が、いつもより白い。
遠くで、蝉が一匹だけ鳴いている。
ミーン。
そのあと、しばらくの沈黙。
私は布団の中で目を開けたまま、その声を聞いていた。
会社を辞めてから、三週間が過ぎていた。
「今日は何曜日だったかしら」
声に出してみたけれど、答えてくれる人はいなかった。
枕元のスマートフォンにも、急いで確認するような通知はない。
窓の外には、夏があった。
それだけだった。
私は起き上がり、麦茶を一杯飲んだ。
冷蔵庫の扉を閉めると、静けさが戻ってくる。
静かすぎる。
会社にいた頃は、朝から音に追われていた。
目覚まし。
電車。
アナウンス。
コピー機。
電話。
誰かの話し声。
パソコンの起動音。
一日が始まる前から、もう一日が始まっていた。
それがなくなった。
なくなってみると、私は何をすればいいのかわからなかった。
掃除をする。
洗濯をする。
庭の鉢植えに水をやる。
昼になる。
ごはんを食べる。
午後になる。
また、静かになる。
「暇」という言葉は、少し違う気がした。
暇なのではない。
時間が、こちらを見ている。
そんな感じだった。
ある日の午後、私は家を出た。
特に行き先は決めていなかった。
ただ、家の中にいると、時計の針ばかりが気になった。
坂道を下り、古い神社の前を通った。
子どもの頃、ここでよく遊んだ。
石段の数を数えながら登ったことを思い出す。
一、二、三。
途中でわからなくなった。
昔は、何段あったのか知っていたはずなのに。
境内には誰もいなかった。
蝉の声だけが、木の上から降ってくる。
私は石のベンチに腰を下ろした。
そのときだった。
風が吹いた。
ほんの一瞬。
木々が大きく揺れて、
その向こうに、女の子が立っているのが見えた。
白いワンピース。
肩までの黒い髪。
裸足だった。
女の子は、こちらを見ていた。
私は立ち上がった。
「ねえ」
声をかけようとした。
けれど、女の子は先に口を開いた。
「夏休み、終わった?」
不思議な質問だった。
私は少し考えてから答えた。
「まだよ」
女の子は笑った。
「そう」
それだけ言って、木の向こうへ歩いていった。
私は後を追った。
けれど、そこには誰もいなかった。
ただ、蝉の抜け殻がひとつ。
木の幹に、しっかりと張りついていた。
私はしばらく、その抜け殻を眺めていた。
なぜだか、昔のことを思い出した。
小学生の頃。
夏休みになると、朝から晩まで外で遊んでいた。
宿題は後回し。
夕方になれば、母に呼ばれて家に帰った。
麦茶を飲んで、汗で濡れた服のまま畳に寝転んだ。
あの頃の私は、一日が終わることを惜しんでいた。
夜になると、
「明日も夏休みだ」
と思って眠った。
いつからだろう。
明日のことばかり考えて眠るようになったのは。
私は立ち上がった。
帰り道、商店街の角にある古い喫茶店に入った。
窓際の席に座る。
アイスコーヒーを頼んだ。
氷が、からん、と鳴った。
店の奥では、古い扇風機が首を振っている。
その音を聞いているうちに、眠くなった。
ほんの少しだけ、目を閉じた。
すると、
「まだ起きなくていいよ」
誰かが言った。
私は目を開けた。
店には誰もいなかった。
店主も、少し離れたカウンターにいる。
「……誰?」
聞いてみたけれど、返事はない。
窓の外を眺める。
道路の向こうを、自転車に乗った男の子が通り過ぎていった。
その背中を見ていると、なぜか懐かしい気持ちになった。
私は、もう一度目を閉じた。
そして、そのまま眠った。
夢の中で、私は海辺にいた。
ずっと昔の海だった。
砂浜には誰もいない。
波打ち際に、赤いビー玉がひとつ落ちている。
拾おうとすると、波が来て、さらっていく。
また次の波が来る。
けれど、ビー玉は戻ってこない。
私は海を見ていた。
すると、隣にあの女の子が立っていた。
「探してるの?」
私は聞いた。
「何を?」
女の子は答えなかった。
ただ海を指さした。
「もういいんじゃない?」
そう言った。
何が「もういい」のか、私にはわからなかった。
けれど、不思議と納得した。
目が覚めると、夕方だった。
窓の外が薄い金色になっている。
私はしばらく、ぼんやりしていた。
夢だったのだろう。
もちろん、そうだ。
けれど、ポケットに何か入っていることに気づいた。
手を入れる。
小さな赤いビー玉だった。
私は息を止めた。
しばらく、それを手のひらに乗せて眺めた。
店主がこちらを見る。
「それ、どうしたんです?」
私は答えられなかった。
代わりに笑った。
「……昔から持っていたのかもしれません」
店を出ると、空が赤く染まっていた。
蝉の声は、朝よりも少なくなっていた。
私は家までゆっくり歩いた。
急ぐ理由は、もうなかった。
家に着いてから、夕飯を作った。
湯船につかった。
本を少し読んだ。
そして、眠る前にカレンダーを眺めた。
8月31日。
明日から9月だった。
昔なら、少し寂しかっただろう。
夏休みが終わる。
宿題を終わらせなくてはいけない。
新しい時間が始まる。
けれど、その夜は違った。
私はカレンダーを一枚めくった。
9月1日。
白い紙が現れた。
何も書かれていない。
予定もない。
約束もない。
私はその白い余白をしばらく見つめていた。
そして、鉛筆を一本持ってきた。
予定を書く代わりに、
小さく、
「散歩」
と書いた。
それから少し考えて、
その下に、
「何もしない」
と書いた。
窓の外で、風鈴が鳴った。
チリン。
私は窓を開けた。
夜の空気が、部屋の中に流れ込んでくる。
どこか遠くで、まだ一匹だけ蝉が鳴いていた。
ミーン。
私は目を閉じた。
夏休みは、終わった。
たぶん。
でも、
あの夏から、
私の時間は少しだけ、
私のものになった。
そう思った瞬間、
庭の暗がりで、
白いワンピースが揺れたように見えた。
私は目を凝らした。
けれど、そこには誰もいなかった。
ただ、
夏の夜の風だけが、
静かに庭を通り抜けていった。
~ 終 ~
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