#シロクマ文芸部 行き先のない夏~短編小説~
小牧幸助さんのお題で書きはじめる企画「夏休み」に参加です。
締切は8/12(水)23:59だそうです。よろしくお願いします。
※この物語はフィクションです。
「夏休み、どこ行く?」
そう聞かれて、私は答えられなかった。
電話の向こうで、友人が笑っている。
「どこでもいいじゃん。温泉とか、海とか」
「うん」
「海外もいいよね。今ならまだ間に合うし」
「そうね」
相槌だけは、いくらでも打てた。
電話を切ったあと、私は台所の椅子に座った。
冷蔵庫の中で、何かが小さく唸っている。
窓の外では、蝉が鳴いていた。
夏だった。
それなのに私は、
どこへ行きたいのか、
何をしたいのか、
まるで思いつかなかった。
昔は、そんなことなかった気がする。
子どもの頃なら、
海。
プール。
花火。
お祭り。
行きたい場所はいくらでもあった。
「夏休み、どこ行く?」
そう聞かれたら、すぐに答えられた。
けれど今は、
「どこでもいい」
という言葉が、口癖になっていた。
どこでもいい。
何でもいい。
みんながいいなら、それでいい。
いつから、私はこんなふうになったのだろう。
その日の午後、私は冷蔵庫から麦茶を出した。
グラスに氷を入れる。
カラン、と音がした。
その音を聞いていると、急に外へ出たくなった。
帽子をかぶり、鍵を持って家を出る。
目的地はなかった。
駅へ向かう道を歩いていると、バス停に人が一人立っていた。
白い帽子をかぶった女の人だった。
年齢はよくわからない。
若いようにも見えるし、
ずっと昔からそこにいるようにも見えた。
私は少し離れたところに立った。
バスはなかなか来なかった。
蝉が鳴いている。
女の人が、突然こちらを向いた。
「どこへ行くの?」
私は驚いた。
「……わかりません」
女の人は、そう、と言った。
それから空を見上げた。
「それなら、ちょうどいいわ」
「何がですか?」
「行き先が決まってないほうが、見つかるものもあるから」
私は意味がわからなかった。
聞き返そうとしたとき、
バスが来た。
私は反射的に一歩下がった。
バスの扉が開く。
女の人が乗り込む。
そして振り返り、
「乗らないの?」
と聞いた。
私は首を横に振った。
「今日は……いいです」
女の人は笑った。
「そう」
扉が閉まる。
バスが走り出す。
その後ろ姿を見送っていると、
不思議なことに気づいた。
バスの行き先表示が、
空白だった。
何も書かれていなかった。
私はしばらく、その場に立っていた。
やがて蝉の声が大きくなり、いつもの夏に戻った。
私は歩き出した。
駅とは反対の道へ。
なんとなく、そちらへ行ってみたくなった。
細い道を抜けると、小さな川があった。
こんなところに川があるなんて、知らなかった。
川沿いに古いベンチが置かれている。
私は座った。
水が光っている。
風が吹くたび、水面の光が細かく揺れる。
しばらく眺めていると、水の中に小さな女の子が見えた。
麦わら帽子。
白いワンピース。
水の底から、こちらを見上げている。
私は立ち上がった。
けれど、次の瞬間には消えていた。
代わりに、川面を一枚の葉が流れていく。
私はまたベンチに座った。
そして、なぜだか急に、
小学生の頃の夏を思い出した。
母に買ってもらった赤いサンダル。
冷たいラムネ。
夕方の公園。
友達と別れるときの、
「また明日ね」
という約束。
あの頃の私は、
明日が楽しみだった。
何が起こるかなんて知らなかったけれど、
知らないことが怖くなかった。
むしろ、知らないから楽しみだった。
いつから私は、
「正解」を先に知ろうとするようになったのだろう。
失敗しないように。
迷惑をかけないように。
間違えないように。
そうやって選んでいるうちに、
自分が何を選びたいのか、
わからなくなっていた。
川の向こうから、風が吹いてきた。
その風の中に、誰かの声が混じった気がした。
「行きたいところは?」
私は思わず答えた。
「……わからない」
「じゃあ、好きなものは?」
少し考えた。
「……わからない」
「じゃあ、今日食べたいものは?」
私は笑ってしまった。
「それなら、わかるかも」
家の近くにある、小さなかき氷屋を思い出した。
子どもの頃、一度だけ食べたことがある。
イチゴ味だった。
舌が真っ赤になって、
母に笑われた。
私は立ち上がった。
川沿いの道を戻る。
かき氷屋は、まだあった。
古い暖簾が風に揺れている。
「いらっしゃい」
店のおばあさんが言った。
私はメニューを見た。
イチゴ。
レモン。
メロン。
少し迷って、
「イチゴをください」
と言った。
おばあさんが笑った。
「昔もイチゴだったね」
私は顔を上げた。
「……え?」
けれど、おばあさんは何も言わず、
かき氷を作っていた。
しゃり、しゃり、しゃり。
氷を削る音が、
夏の午後に溶けていく。
出てきたかき氷は、
昔と同じように真っ赤だった。
一口食べる。
冷たい。
頭の奥が、きゅっと痛くなる。
私は笑った。
理由はわからない。
ただ、おいしかった。
それだけだった。
帰り道、私は少し遠回りをした。
花屋の前で立ち止まった。
黄色い花が並んでいる。
「きれい」
声に出してから、
自分で少し驚いた。
「きれい」
そんなことを、
いつから言わなくなっていたんだろう。
その夜。
私は友人にメッセージを送った。
《今年の夏は、旅行には行かないことにした》
少し考えてから、もう一行。
《でも、行きたいところが一つ見つかった》
送信する。
しばらくして、
《どこ?》
と返ってきた。
私は画面を見ながら考えた。
海でもない。
温泉でもない。
海外でもない。
地図に載っている場所ではなかった。
だから、
《まだわからない》
と送った。
そのあと、少しだけ笑った。
それでいい気がした。
窓を開ける。
夜の庭から、風が入ってくる。
昼間より、蝉の声は少ない。
遠くで一匹だけ鳴いている。
私はベッドに横になった。
目を閉じる。
すると、あの川の中にいた女の子が、
また浮かんできた。
今度は、こちらを見て笑っていた。
「夏休み、どこ行く?」
女の子が聞く。
私は答えた。
「まだ決めてない」
「そっか」
「でも」
私は少し考えてから言った。
「行きたいところを、これから探してみる」
女の子は、うれしそうに笑った。
そして、夏の光の中へ、
ゆっくり消えていった。
目を開ける。
部屋は暗かった。
夢だったのだと思う。
たぶん。
枕元の時計を見る。
午前0時を少し過ぎている。
明日は何をしよう。
そう考えて、私は初めて、少しだけ楽しみになった。
まだ何も決まっていない。
どこへ行くのかも、
何をするのかも。
それでも、明日がある。
窓の外で、風鈴が一度だけ鳴った。
チリン。
夏は、まだ終わっていなかった。
~ 終 ~
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