#シロクマ文芸部 熱帯夜の向こう側~短編小説~
小牧幸助さんのお題で書きはじめる企画「熱帯夜」に参加です。
締切は7/29(水)23:59だそうです。よろしくお願いします。
※この物語はフィクションです。
熱帯夜。
窓を開けても、風は入ってこなかった。
カーテンだけが、窓辺で力なく揺れている。
彼女はベッドの上で、スマートフォンを眺めていた。
時刻は、午前1時37分。
明日こそは、始めよう。
そう思って、何度目の夜だろう。
新しいことを始めようと思った。
本を買った。
動画を見た。
必要なものを調べた。
詳しい人の話を聞いた。
ノートに計画を書いた。
やることをリストにした。
そして、また調べた。
「もう少し準備してから」
いつも、そう思っていた。
もう少し知識がついてから。
もう少し自信がついてから。
もう少し時間に余裕ができてから。
もう少し、ちゃんとできるようになってから。
そうしているうちに、何年も経っていた。
彼女は、窓の外を見た。
真っ暗な庭。
遠くで、どこかの家の室外機が低く唸っている。
蝉の声も、もう聞こえない。
風はなかった。
彼女は、窓辺に立った。
暑い。
肌にまとわりつくような空気。
開け放した窓から入ってくるはずの風は、どこにもなかった。
彼女は、しばらくその場に立っていた。
そして、ふと思った。
私は、ずっと風を待っていたのかもしれない。
何かを始めるための風。
背中を押してくれる風。
「今だよ」と教えてくれる風。
自信という風。
勇気という風。
準備が整ったという風。
けれど。
風が吹くのを待っていたら、
いつまで経っても、
ここから動けない。
そう思った瞬間。
彼女は、少しだけ笑った。
こんなに暑い夜に。
こんなに風のない夜に。
私は、何を待っているのだろう。
完璧なタイミング?
失敗しない保証?
誰かからの許可?
そんなものは、きっと来ない。
来ないから、始められないのではない。
始めないから、いつまでも来ないのだ。
彼女は、スマートフォンを置いた。
そして、部屋の明かりを消した。
窓は、開いたままだった。
風は、まだ吹いていない。
彼女は、裸足のまま玄関へ向かった。
ドアを開ける。
熱い空気が、身体を包んだ。
思っていたよりも、ずっと暑かった。
思っていたよりも、ずっと何も変わらなかった。
それでも。
彼女は、一歩、外へ出た。
庭に足を置いた。
たった一歩だった。
何かが劇的に変わったわけではない。
空から光が降ってきたわけでもない。
突然、自信が湧いてきたわけでもない。
ただ、暑かった。
そして、少し怖かった。
それでも彼女は、もう一歩進んだ。
そのときだった。
遠くの木の葉が、かすかに揺れた。
風が、ほんの少しだけ吹いた。
彼女は立ち止まった。
そして、空を見上げた。
風は、彼女が待っていたから吹いたのではなかった。
彼女が一歩、歩き出したから、
風の存在に気づけたのかもしれなかった。
彼女は、また一歩進んだ。
今度は、風が頬に触れた。
ほんのわずかな風だった。
けれど、確かにそこにあった。
彼女は思った。
もしかしたら、人生も同じなのかもしれない。
風が吹くまで待つのではなく。
一歩、外へ出てみる。
一度、やってみる。
誰かに見せてみる。
小さく始めてみる。
そうしたら、あとから風が吹くこともある。
準備ができたから始めるのではなく。
始めたから、準備ができていくこともある。
彼女は、夜の庭に立っていた。
まだ、熱帯夜だった。
暑い。
汗も出る。
明日になれば、きっとまた迷う。
やっぱりやめようかな、と考えるかもしれない。
それでも。
今夜、彼女は一歩、外へ出た。
それだけでよかった。
窓は、まだ開いている。
風は、いつでも吹いているわけではない。
だから、風が吹くのを待たなくてもいい。
窓を開ける。
一歩、外へ出る。
その先で、
初めて気づく風もある。
熱帯夜の向こう側に、
何があるのかはわからない。
けれど。
彼女はもう、
何もせずに風を待つ人ではなかった。
彼女は、歩き始めていた。
~ 終 ~
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