日常 20260603 / 好きな男
羊子には好きな男がいる。
四十半ば過ぎの羊子からして年は十ほど上か。上司の年などよく知らずとも珍しくはない。
それに、年の差があろうがなかろうがふたりには関係ない、お互いが良ければそれで満足だった。
だが、男は既婚者である。
それに加えて立場もある。
だというのに、男はそのスリルすら楽しんで挑むような目つきを向けてくる。
先程も廊下で擦れ違いざまに何かごと囁かれたが、羊子は聞き取れなかった。職場で絡み合うように交わる視線を決して同僚たちに知られてはならないと思い、意識して顔を背けているのが悪かったか。
男が笑う。
羊子は少しばかり戸惑いを感じたが、結局曖昧な微笑みを残して足早に逃げた。
男の視線を背中に痛い程感じながら…
いやー、私はですね、この上司が大好き。
はじめまして、よーこです。
羊の子と書いて、ようこ、なんてね。
職種や関係性の詳細を記すと身元が特定されてしまうので、書きたいのはやまやまなのだがその点ご容赦を。
彼は実在ですが、ゆえにあまり詳しくは書けません。あしからず。
冗談ばっかり言ってるけど仕事はバリバリ。
サポートもさり気なく「誰のお陰で」なーんてこっから先全然言わない。
私はその上司のことを密かに“チェシャ猫”と呼んでいる。ま、主には心の中で。
チェシャ猫、ご存知ですか?
不思議の国のアリスに出てくる、あのどピンクしましまの猫。ニーって笑う、あの猫。
私を見付けるとあんな顔で笑うんです、おもちゃ見付けたみたいに。今は直属ではないのであまりご一緒することはないが、同じ敷地内ならば顔を合わせる機会もまあ、あるわけだ。
チェシャ猫は私を見付けると、せっせとちょっかいを出してくる。小学生のノリです、あれは。からかわれてばかりは悔しいので私も負けませんけど、お構いなしに冗談ばっかり仕掛けてくる。
交わるって、まあ、視線が。
で、囁かれた…曖昧な微笑みを…は、彼、早口で何を言っているのか分からない時があって、聞き直すのも癪だしどうせしょーもねえ事だろうよ面倒くせえな、と笑ってごまかして逃げただけです。
まわりに知られては…は、そりゃ言えませんよ、立場的には下っ端の私とそこそこ上のチェシャ猫がニヤけて冗談ばっかり言ってるなんてまわりに示しがつかない。
念の為、もちろん男女関係ではないです。残念でした。何かあった方が面白かったか。
だが、私が彼のことを大好きなのは面白いからだけではない。
人として尊敬出来るから、大好きなのだ。
ある時、親しくしている方から彼の個人情報を得た。
「あの人、音楽やりよっちゃったんよ」
(あの人、音楽をされていたのよ、的な広島弁)
…ほお、音楽。
チェシャ猫が。
面白いな、それ。
ネットで調べたらあっさり情報ゲット。
拍子抜け。隠す気ねえな。
なんなら、今もやってんじゃん!
というか、配信!?
上司がー?
…観るよね、そりゃ。観るよ。
観た。
くそー、キラキラじゃねえかこのオヤジ。
もう、それはそれは楽しそうに。
好きなものに囲まれて好きな音楽を流して、会社では見ない笑顔だが紛れもなく愛しの上司。
その時、こういう人って良いなーと思った。
会社しかない会社人間だって素晴らしい。仕事一筋。
でも、もうそんな時代ではないですもんね。
たかだか会社に人生を捧げる必要はない。
稼ぎは必要だけど、恩も義理も昔ほどにはないし向こうもこっちもドライな感じ。
人生はまあまあ長い。会社と心中するのは賢明ではない。
特に今の時代においては、先行き不透明で情勢不安定、政治は嘘を塗り固めるのに忙しくて国民のことなど置き去り。
自助が叫ばれて久しい。
安心安全が不安の号令のようになったこの国で、ワレの始末はワレでしろ、と。
自助努力か。
ワレが言うなや、と国には思うがね。
でもそんな苛立ちも、この上司の配信を眺めていたらどうでも良くなった。
この人は自分の機嫌を自分でちゃんととっている。好きなことを目いっぱい。
多分、楽ではないと思う。
仕事はキツいし、楽しいことばかりではもちろんない。責任のある立場で、なんなら何百人を束ねていかねばならない。
それでも大好きな音楽を諦めていない。
息抜きというにはあまりにも本気で、仕事も音楽も丸ごと抱き締めるように楽しんでいる。
そんなおっさんて、素敵じゃないですか?
私は好きだな。
いい男だと思う、チェシャ猫。
そんな人が上司で私は幸せである。
この人のためなら頑張りたい、そう思える。
私は彼が推しだな。
私を見付けたら、また何か言って笑わせてやろうとニーってしながら忍び寄るチェシャ猫。また来たな、と思いながらもどういなしてやろうかとわくわくする。
出会えて良かったと思う。
この広い地球上で、この時代に。
死ぬまで続けて欲しい。
音楽を、ずっと止めないでいて欲しい。
信じられるものの少なくなってしまったこの世界で、心から信じられるものがあなただから。
でも、覚えてろよ。
次は私がチェシャ猫を笑わせるからな!
笑
この紫陽花、この間の写真のつぼみがもうこんなに。
こんなに鮮やかな青でした。
私は青が好きなので、どうしても青い花を見掛けると撮りたくなってしまいます。
紫陽花の色がはっきりと判る写真が撮れたら記事を1本書きたいなー、と思っていたのでちょうど良かった。
きれいでしょう?
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