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小説『あの白球はホールに届く』Season3―― プロの一打 ――第3話「勝ちたいと言えない」

 勝ちたい。

 その四文字は、白石遥の喉の奥で、いつも少しだけ形を変える。

 頑張ります。

 自分らしくプレーします。

 一打ずつ集中します。

 応援してくださる方にいいプレーを見せたいです。

 口に出す言葉はいくつもあった。

 どれも嘘ではない。

 けれど、どれも少しだけ、本当の言葉から逃げていた。

 勝ちたい。

 ただ、それだけのはずだった。

 プロなのだから、勝ちたいと思うのは当たり前だ。勝つために練習し、勝つために試合へ出て、勝つためにクラブを握る。賞金順位も、シード権も、契約も、すべて勝負の上に乗っている。

 それなのに遥は、その言葉をまっすぐ口に出すことができなくなっていた。

 午前九時。

 大会会場のクラブハウス横に設けられた小さな取材スペースで、遥は椅子に座っていた。

 背後には大会ロゴの入ったボードがある。

 その前に、記者が三人。

 広報スタッフが一人。

 カメラが二台。

 以前に比べれば、ずいぶん静かな取材だった。

 派手な照明もない。スポンサーの意向が前面に出た笑顔の撮影でもない。質問も穏やかだった。

 それなのに、遥の背中には薄い汗が滲んでいた。

「前戦から練習内容を変えたと聞いています。手応えはいかがですか」

 記者の一人が尋ねた。

 遥はマイクの位置を少し直した。

「そうですね。まだ調整中ですけど、少しずつ、自分の打つべき球は見えてきていると思います」

 自分の打つべき球。

 言いながら、どこかで誰かが作った言葉みたいだと思った。

 記者はうなずき、次の質問へ進んだ。

「賞金順位も気になる位置だと思います。今週の目標は」

 遥は一瞬だけ黙った。

 勝ちたい。

 喉の奥まで来た。

 だが、そこから先へ出なかった。

「まずは予選をしっかり通過して、週末にいい位置でプレーできるようにしたいです」

 安全な答えだった。

 間違ってはいない。

 けれど、自分の言葉ではなかった。

 記者はメモを取った。

 広報スタッフは安心したように小さくうなずいた。

 遥は、そのうなずきを見てしまった。

 その瞬間、胸の中に小さな棘が刺さった。

 ああ、今の答えは扱いやすかったのだ。

 見出しにしやすい。

 角が立たない。

 スポンサーにも悪くない。

 ファンにも受け入れられる。

 プロらしい。

 そう思った途端、遥は自分の声が少し遠くなった。

「白石選手にとって、今の自分らしいプレーとは何でしょうか」

 別の記者が尋ねた。

 遥は答えようとして、少し迷った。

 自分らしいプレー。

 その言葉は便利すぎる。

 誰も傷つけない。

 誰も困らせない。

 そして、何も決めない。

「逃げないことだと思います」

 思わず、そう言っていた。

 記者が顔を上げた。

 広報スタッフの目が、わずかに動いた。

 遥自身も少し驚いた。

 逃げないこと。

 それは用意していた言葉ではなかった。

「逃げない、というのは」

 記者が続きを促す。

 遥はマイクを見た。

 小さな黒い穴のように見えた。

 言葉を吸い込む穴。

 そこに入れた言葉は、もう自分のものではなくなる。

 切り取られる。

 並べ替えられる。

 見出しになる。

 誰かの応援になる。

 誰かの批判になる。

 誰かの都合のいい物語になる。

 それを知っているから、遥は怖かった。

 勝ちたいと言えば、勝利宣言になる。

 負ければ、届かなかった言葉として残る。

 強気と書かれるかもしれない。

 復活へ意欲と書かれるかもしれない。

 自分の感情が、他人の文脈に乗せられて流れていく。

 それが怖かった。

「今まで、いろんなものを気にしすぎていたので」

 遥は言葉を選んだ。

「結果も、評価も、見られ方も。もちろん、全部大事なんですけど。でも、そこから逃げるのではなくて、それがあるまま打てるようになりたいと思っています」

 記者は、少し興味を持った顔でメモを取った。

「では、今週は勝利も意識している?」

 来た。

 遥はそう思った。

 たった一歩。

 ここで言えばいい。

 はい、勝ちたいです。

 それだけだ。

 難しいことではない。

 だが、言えなかった。

「もちろん、上を目指してプレーします」

 また、逃げた。

 自分でも分かった。

 記者はうなずいた。

 取材はそれで終わった。

 椅子から立ち上がった時、遥の膝には力が入っていなかった。

 広報スタッフが近づいてきた。

「ありがとうございます。すごく良かったです。落ち着いていて、前向きで」

 遥は笑いかけた。

 前向き。

 落ち着いている。

 その言葉に、少し吐き気がした。

 クラブハウスの廊下を歩いていると、神谷怜奈が壁にもたれてスマートフォンを見ていた。

 遥を見ると、顔を上げた。

「取材?」

「うん」

「何て言ったの」

「一打ずつ集中します、って」

「また便利なこと言ってる」

 遥は足を止めた。

「聞いてたの?」

「聞こえた」

「感じ悪い」

「あなたほどじゃない」

 神谷はスマートフォンをしまった。

 今日の神谷は黒いポロシャツに白いキャップだった。シンプルなのに、妙に強く見える。

「勝ちたいって言えばいいのに」

 神谷が言った。

 遥はすぐに返した。

「言う必要ある?」

「あるでしょ」

「言わなくても、勝ちたいに決まってる」

「じゃあ、言えばいい」

「簡単に言わないで」

 声が少し強くなった。

 廊下の向こうでスタッフがこちらを見た。遥は口を閉じた。

 神谷は、その様子を見ていた。

「まだ怖いんだ」

 遥は答えなかった。

「言ったら、また使われる気がする?」

 遥は、神谷を見た。

 その言葉は、思ったより深く入ってきた。

「使われる、って」

「勝ちたい白石遥。復活を狙う白石遥。笑顔を封印した白石遥。拍手を越えた白石遥。見出しはいくらでも作れる」

 神谷の声には、からかいがなかった。

 ただ事実を並べているようだった。

「だから言えないんでしょ」

 遥は目をそらした。

「悪い?」

「悪くない」

 神谷はすぐに言った。

「でも、不自由そう」

 不自由。

 その言葉は、静かに刺さった。

 笑顔を作らなくなった。

 拍手に支配されないと決めた。

 衣装にも、契約にも、前より言葉を持てるようになった。

 それなのに、遥はまだ不自由だった。

 今度は、勝ちたいと言えない不自由。

「神谷さんは、言えるの?」

「言える」

「怖くない?」

「怖い」

 即答だった。

 遥は少し驚いた。

 神谷は続けた。

「でも、言わない方がもっと怖い」

「どうして」

「自分に嘘をつく癖がつくから」

 廊下の窓から、練習グリーンが見えた。

 選手たちが黙々とパットをしている。

 小さな白球が、短い芝の上を転がっている。

 入る球。

 外れる球。

 強い球。

 弱い球。

 そのどれもが、打った人のものだった。

「勝ちたいって言ったら、負けた時に恥ずかしい」

 遥は小さく言った。

 神谷はうなずいた。

「恥ずかしいよ」

「それでも言うの」

「うん」

「なんで」

「プロだから」

 また、その言葉だった。

 プロだから。

 遥は少し苛立った。

「神谷さん、そればっかり」

「便利だから」

「ずるい」

「そうね」

 神谷は窓の外を見た。

「でも、プロって、たぶんずるい言葉だよ。お金ももらう。期待もされる。批判もされる。勝ちたいって言えば利用される。言わなければ逃げたみたいに見える。どっちも綺麗じゃない」

 遥は黙って聞いていた。

「でも、自分まで自分の欲を嫌ったら、誰が打つの」

 その言葉に、遥は返せなかった。

 神谷は廊下を歩き出した。

 すれ違いざま、短く言った。

「勝ちたい顔、私は嫌いじゃないけど」

 そのまま、行ってしまった。

 遥は廊下に残された。

 窓の向こうで、一つのパットがカップに吸い込まれた。

 小さな音は聞こえなかった。

 けれど、入ったことは分かった。

 午後、遥は練習グリーンにいた。

 カップの周りに、十個のボールを円のように置いた。一メートル。昨日、二度外した距離だ。

 一球目。

 入った。

 二球目。

 入った。

 三球目。

 左に外れた。

 遥は舌打ちをしそうになった。

 やめた。

 舌打ちを飲み込むのも、また格好をつけている気がした。

「くそ」

 小さく言った。

 近くにいた若い選手が、少し驚いた顔でこちらを見た。

 遥は目を合わせなかった。

 四球目。

 入った。

 五球目。

 右に抜けた。

 六球目。

 強すぎた。

 七球目。

 入った。

 揃わない。

 たった一メートルなのに、心の状態がそのまま出る。

 怖い。

 腹立たしい。

 面白い。

 全部が同時にあった。

 高瀬が少し離れた場所から見ていた。

「今日は声が出ますね」

 遥はカップから球を拾いながら言った。

「悪い?」

「悪くないです」

「くそって言った」

「聞こえました」

「プロらしくない?」

「かなりプロらしいです」

 遥は顔を上げた。

「嫌味?」

「いいえ」

 高瀬は練習グリーンに近づいた。

「勝ちたい人の音がします」

 遥は球を手の中で転がした。

「音?」

「はい。入れたい、外したくない、でも怖い。その音です」

「そんな音ある?」

「あります」

 高瀬はカップの縁を指差した。

「今日は入れる練習じゃなくて、外した後の顔の練習をしましょう」

 遥は眉をひそめた。

「顔?」

「外した後に、逃げない顔です」

 遥は笑った。

「また変なこと言う」

「大事です。外した後の顔には、その人が出ます」

 遥は、さっき外した球を思い出した。

 目をそらした。

 足で芝をならした。

 すぐに次の球を置いた。

 あれは、逃げだったのかもしれない。

「外した後、見ればいいの?」

「はい」

「何を」

「自分が外した球です」

 遥は黙った。

 たったそれだけのことが、意外と難しい。

 入った球を見るのは楽だ。

 外れた球を見るのは、少しつらい。

 外れた瞬間に、もう次へ逃げたくなる。

 なかったことにしたくなる。

 プロは、それをなかったことにできない。

 遥はボールを置いた。

 一メートル。

 打った。

 外れた。

 左。

 遥は、逃げずにその球を見た。

 白球はカップの縁をかすめ、少し先で止まった。

 何も言わない。

 ただ、そこにある。

 外れた白球は、責めてこなかった。

 それが、少しだけ意外だった。

「もう一球」

 高瀬が言った。

 遥は次のボールを置いた。

 勝ちたい。

 今なら、そう思えた。

 だが、まだ声には出せなかった。

 夕方、クラブハウスを出る前に、再び記者に声をかけられた。

 朝とは別の、若い女性記者だった。

「白石選手、少しだけいいですか」

 遥は足を止めた。

「はい」

「今日の練習、長くやっていましたね。状態はどうですか」

 遥は、いつもの答えを探そうとした。

 調整中です。

 少しずつ良くなっています。

 一打ずつ集中します。

 いくらでも出てくる。

 でも、その言葉はどれも、今日は少し薄く感じた。

「悪いです」

 遥は言った。

 女性記者が目を開いた。

「悪い、ですか」

「はい。正直、まだ良くないです」

 広報スタッフが遠くからこちらを見た。

 遥は気づいたが、続けた。

「でも、悪いまま逃げずにやっています」

 記者は少し間を置いてから、メモを取った。

「今週の目標は」

 また、その質問だった。

 遥は喉の奥に、あの四文字を感じた。

 勝ちたい。

 出せ。

 そう思った。

 けれど、声はまだ出なかった。

 怖かった。

 使われること。

 負けた時に残ること。

 強気だと書かれること。

 期待されること。

 裏切ること。

 全部、怖かった。

 遥は少しだけ視線を落とした。

 足元には、昨日落とさなかった泥が、まだシューズの端に残っていた。

 それを見て、息を吸った。

「勝ちたいです」

 声は大きくなかった。

 だが、言った。

 言ってしまった。

 記者のペンが止まった。

 広報スタッフも動かなかった。

 遥は、胸の奥が一瞬だけ空いたような感覚になった。

 解放ではない。

 爽快でもない。

 むしろ、怖さが増した。

 言葉にしたことで、もう逃げられなくなった。

 勝ちたい。

 その言葉は、外へ出た。

 誰かに拾われる。

 使われるかもしれない。

 見出しになるかもしれない。

 負ければ笑われるかもしれない。

 それでも、もう戻らない。

 女性記者が静かに尋ねた。

「それは、復活したいという意味ですか」

 遥は首を横に振った。

「違います」

「では」

 遥は少し考えた。

 そして言った。

「今の自分で、勝ちたいんです」

 記者は、それを丁寧にメモした。

 遥はそれ以上、言葉を足さなかった。

 足せば、またきれいになってしまう気がした。

 夜、ホテルの部屋に戻った遥は、ベッドに座ってスマートフォンを見た。

 ニュースサイトには、もう短い記事が出ていた。

 白石遥「今の自分で勝ちたい」
 状態不安も逃げずに調整

 見出しになっていた。

 やはり、と思った。

 少し怖かった。

 けれど、不思議と嫌ではなかった。

 記事の中には、昼の言葉が短くまとめられていた。

 勝ちたいです。

 今の自分で、勝ちたいんです。

 自分の言葉が、画面の中にあった。

 少しだけ他人のものになっていた。

 でも、完全には奪われていなかった。

 遥はスマートフォンを伏せた。

 部屋の灯りを消す前に、右手の薬指を軽く曲げた。

 まだ違和感はある。

 明日も消えないだろう。

 賞金順位も消えない。

 契約の話も消えない。

 神谷の言葉も消えない。

 勝ちたいと言ったことも、もう消えない。

 遥はベッドに横になった。

 天井を見ながら、小さく呟いた。

「勝ちたい」

 今度は、誰にも聞こえない声だった。

 それでも、朝より少しだけ、自分の声に近かった。

 白球は、まだホールには届いていない。

 けれど遥は、ようやくカップの方を見た。

 入るかどうかではない。

 そこへ向かいたいと、自分で言った。

 それだけで、今日の一打は少し重くなった。


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