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小説『あの白球はホールに届く』Season3―― プロの一打 ――第4話「契約更新」

 契約書の紙は、いつも白い。

 そこに書かれている文字は黒く、整っていて、冷静で、誰かを傷つけるつもりなど最初からないような顔をしている。

 白石遥は、ホテルの会議室に用意された席に座り、目の前の書類を見ていた。

 午後三時。

 試合前日の練習を終えたあとだった。

 身体にはまだ練習場の疲れが残っている。右手の薬指は、朝より少し重い。痛みと言うほどではない。だが、何度もクラブを握ったあと特有の鈍さがある。

 それでも、遥はその手で書類をめくった。

 スポンサー契約更新案。

 表紙には、そう書かれていた。

 相手企業の担当者は二人。

 一人は前回から引き続き担当している広報部の野崎だった。四十代前半。落ち着いた口調で、いつも丁寧に言葉を選ぶ。もう一人は新しく同席した女性担当者で、名刺にはブランド戦略部、佐伯奈緒とあった。

 遥の隣にはマネージャーの久保が座っていた。

 久保は書類を読んでいる時、表情をほとんど変えない。だが、ページをめくる指の動きで、何かを気にしていることは分かった。

 野崎が口を開いた。

「まず、前回の契約内容については、こちらとしても反省があります」

 反省。

 その言葉を聞いた瞬間、遥は少しだけ背中を硬くした。

 丁寧な言葉だった。

 だが、丁寧な言葉ほど、どこまで本気か分からないことがある。

「白石選手に過度な負担がかかっていた部分がありました。特に、ウェア露出や撮影協力、イベント時の表現については、今後、選手側の意向をより尊重する形に変更したいと考えています」

 遥は野崎の顔を見た。

 野崎は目をそらさなかった。

 嘘をついているようには見えなかった。

 だから余計に、難しかった。

 相手が悪人なら、こちらも分かりやすく怒れる。

 しかし、目の前にいるのは、仕事をしている人だった。

 企業の中で、自分の役割を果たし、上司に説明し、予算を取り、数字を求められ、選手とブランドの間に立っている人だった。

 遥だけが苦しいわけではない。

 それが分かるから、簡単に拒めない。

 佐伯が資料を一枚前に出した。

「今回の提案では、ウェアについては複数パターンから選手ご本人が選べる形にしています。撮影についても、事前確認と使用範囲の明記を徹底します」

 遥は資料を見た。

 たしかに、以前とは違っていた。

 着用義務。

 撮影協力。

 SNS投稿。

 イベント出演。

 言葉は残っている。

 だが、その横に、相談、事前合意、選手確認、体調考慮という文字が並んでいた。

 以前なら、なかった言葉だった。

 久保が静かに言った。

「条件面も、前回より上がっています」

 野崎がうなずいた。

「はい。年間契約料については、前回比で一割増を提案しています。加えて、成績連動ボーナスも見直しています」

 一割増。

 遥は、その数字を聞いて、心が少し動いたことを自覚した。

 お金。

 その言葉は、競技の話をするときには、いつも少し後ろに隠される。

 夢。

 努力。

 挑戦。

 応援。

 感動。

 そういう言葉の後ろに、遠征費、宿泊費、コーチ代、トレーナー代、用具代、移動費、食費、マネジメント費が積み上がっている。

 プロは、勝つために打つ。

 だが、勝つ場所へ行くには金がいる。

 金がなければ、練習も、ケアも、移動も、積み重ねられない。

 遥は書類の数字を見つめた。

 この契約は、欲しい。

 そう思った。

 思った瞬間、自分が少し負けたような気がした。

 何に負けたのかは、分からなかった。

 佐伯が続けた。

「ただ、一点だけ、今後の広報展開についてご相談があります」

 来た。

 遥はそう思った。

 資料の次のページには、キャンペーン案が載っていた。

 見出し。

 勝ちたい白石遥。

 今の自分で勝つ。

 遥は、その文字を見た瞬間、呼吸が浅くなった。

 昨日、自分が言った言葉だった。

 今の自分で、勝ちたいんです。

 あの言葉が、もう企画書の中に入っていた。

 白い紙の上で、整ったフォントになっていた。

 佐伯は悪気のない声で言った。

「昨日の記事を拝見しました。とても印象的でした。今の白石選手の言葉として、非常に強いメッセージだと思います。そこで、次のキャンペーンでは、無理に笑顔を作るのではなく、“勝ちたい”という本音を前面に出した展開にできないかと」

 遥は資料を見たまま動かなかった。

 無理に笑顔を作るのではなく。

 勝ちたいという本音。

 言葉だけを聞けば、以前よりずっとましだった。

 遥の意向に寄り添っているようにも見える。

 たぶん、実際にそうなのだろう。

 佐伯は、遥を商品として乱暴に扱おうとしているわけではない。むしろ、前回の反省から、今の遥を尊重しようとしている。

 だが、それでも、何かが違った。

 自分がようやく喉から出した言葉が、もう別の手に渡っている。

 勝ちたい。

 その言葉は、自分の中ではまだ怖く、重く、泥のついたものだった。

 しかし企画書の中では、もう使いやすい光になっている。

 遥は、指先で資料の角に触れた。

 紙は滑らかだった。

 泥はついていない。

「白石選手」

 野崎が慎重に声をかけた。

「もちろん、無理にとは考えていません。あくまで、ご本人の意向を確認したうえで」

 遥は顔を上げた。

「これ、いつ作ったんですか」

 佐伯が少しだけ間を置いた。

「昨日の記事を確認してから、簡単な方向性だけ先に」

「早いですね」

「広報は、タイミングも重要なので」

 正しい答えだった。

 だから、遥は少し黙った。

 広報には広報の速度がある。

 記事が出る。

 反応を見る。

 流れを掴む。

 話題が冷める前に、次を打つ。

 その仕事の速さを、遥は責められない。

 でも、自分の心は、その速度についていけなかった。

「私の言葉って」

 遥は、ゆっくり言った。

「すぐに素材になるんですね」

 会議室の空気が止まった。

 久保が遥の横顔を見た。

 野崎は唇を閉じた。

 佐伯の表情に、少しだけ戸惑いが浮かんだ。

「申し訳ありません。そういう意図では」

「分かっています」

 遥はすぐに言った。

「悪く使おうとしているわけじゃないのも、分かっています。前より配慮してくださっているのも分かります」

 そこで一度、言葉を切った。

 分かる。

 分かるから、苦しい。

 何も分からない人たちに囲まれている方が、まだ怒りやすかった。

「でも、私が昨日やっと言えたことを、今日もう見出しにされると」

 遥は資料を見た。

「少し、怖いです」

 佐伯は、何か言おうとしてやめた。

 野崎が静かに頭を下げた。

「その感覚を、こちらが十分に想像できていませんでした」

 遥は首を横に振った。

「謝ってほしいわけじゃないんです」

「はい」

「私も、この契約は欲しいです」

 その言葉を口にするのも、少し勇気がいった。

 欲しい。

 お金がいる。

 支えがいる。

 プロとして活動するためには、企業の力が必要だ。

 それを、きれいごとで隠したくなかった。

「欲しいです。でも、言葉まで全部渡すのは怖い」

 久保が、そこで初めて口を開いた。

「白石の発言をそのままキャンペーンコピーに使う場合は、本人確認を必須にしていただきたいです。記事や会見からの引用も、事前確認なしでは不可。SNS用の短文も、本人が拒否できる形にしてください」

 佐伯はすぐにメモを取った。

「承知しました。引用の範囲について、条項を追加します」

 野崎も続けた。

「キャンペーン自体も、コピーを変えましょう。“勝ちたい白石遥”ではなく、もう少し競技に寄せた表現に」

 遥は首を横に振った。

「勝ちたい、は消さなくていいです」

 三人が遥を見た。

 遥自身も、少し驚いた。

 けれど、その言葉は自然に出た。

「勝ちたいと言ったのは、私です。そこから逃げたいわけじゃありません」

 遥は資料の文字を見た。

 勝ちたい白石遥。

 見出しにされると、少し軽い。

 でも、勝ちたいという気持ちまで軽いわけではない。

「ただ、それをきれいな物語にしないでほしいんです」

 佐伯が静かに尋ねた。

「きれいな物語、というのは」

「復活とか、覚醒とか、新しい白石遥とか」

 遥は少し苦く笑った。

「そういう言葉にされると、違う気がします。私はまだ、そんなにきれいじゃないです。調子も悪いし、指も気になるし、練習場では嫉妬もするし、順位も怖い。契約料を見て、欲しいとも思う」

 言っているうちに、頬が少し熱くなった。

 会議室で、スポンサー担当者の前で、そんなことを言う選手が正しいのか分からなかった。

 だが、止まらなかった。

「それでも勝ちたい、ということなら、使ってもらっていいです」

 野崎は、しばらく黙っていた。

 そして、深くうなずいた。

「分かりました」

 佐伯も、資料に何かを書き込んだ。

「コピー案、作り直します」

 遥は、小さく息を吐いた。

 勝ったわけではない。

 交渉が終わったわけでもない。

 ただ、自分の言葉が少しだけ、自分の手元に戻ってきた気がした。

 その時、久保が書類の別のページをめくった。

「もう一点。イベント出演回数についてですが」

 現実は、すぐ次のページへ進む。

 遥は苦笑しそうになった。

 そうだった。

 契約は、気持ちだけでは終わらない。

 年間イベント出演。

 撮影日数。

 SNS投稿回数。

 試合期間中の拘束制限。

 体調不良時の免責。

 肖像使用期間。

 違約条項。

 話し合いは続いた。

 遥は、途中で何度も疲れた。

 契約書の文字は、ラフのバンカーよりも細かい。フェアウェイの風よりも読みにくい。パットラインよりも、ずっと人間の都合が入り組んでいる。

 それでも、読まなければならなかった。

 プロだから。

 クラブを握るだけでは、プロは続かない。

 サインする手も、プロの一部だった。

 会議が終わったのは、午後五時を過ぎていた。

 正式な契約は後日。

 条項を修正し、再確認することになった。

 部屋を出る前、佐伯が遥に声をかけた。

「白石選手」

「はい」

「さっきの話、少しだけ分かった気がします」

 遥は立ち止まった。

 佐伯は資料を胸に抱えたまま言った。

「私たちも、言葉を扱う仕事なので。強い言葉を見つけると、どうしても使いたくなるんです。でも、その言葉が出てくるまでの時間までは、見えていなかったかもしれません」

 遥は佐伯を見た。

 その目に、営業用の笑顔はなかった。

「こちらも、気をつけます」

 遥は少しだけ頭を下げた。

「お願いします」

 会議室を出ると、廊下の窓から夕方のコースが見えた。

 フェアウェイは静かだった。

 人のいないコースは、いつも少し嘘みたいに美しい。

 芝も、池も、バンカーも、遠くの林も、すべてが整って見える。

 だが、その上で誰かが打てば、すぐに跡が残る。

 ディボット。

 足跡。

 砂の乱れ。

 ボールマーク。

 プレーするということは、景色を少し汚すことでもある。

 遥は窓の外を見ながら、ふと思った。

 契約も同じかもしれない。

 きれいな関係など、最初からない。

 選手は支援が欲しい。

 企業は物語が欲しい。

 お互いに欲しいものがある。

 その欲しさを隠して、美しい言葉だけで結ぶから、あとで苦しくなる。

 だったら、泥を見せたまま結ぶしかない。

 私にはお金が必要です。

 でも、言葉を全部は渡せません。

 御社には広報が必要です。

 でも、私を物語にしすぎないでください。

 それは、きれいな契約ではない。

 だが、少しだけ誠実な契約かもしれなかった。

 その夜、遥はホテルの部屋で修正前の契約案をもう一度読んだ。

 久保から送られてきたメモには、確認すべき項目が並んでいた。

 引用使用範囲。

 肖像権。

 ウェア選択権。

 体調不良時対応。

 撮影前確認。

 SNS投稿義務の緩和。

 契約料。

 ボーナス条件。

 解除条項。

 遥は一つずつ見た。

 眠くなった。

 頭が痛くなった。

 でも、途中で閉じなかった。

 試合前に読むには重すぎる書類だった。

 けれど、これも自分のラウンドなのだと思った。

 十八ホールではない。

 スコアカードにも載らない。

 観客もいない。

 拍手もない。

 それでも、ここで雑に打てば、あとで必ず曲がる。

 遥はペンを持ち、気になる箇所に丸をつけた。

 その時、スマートフォンが震えた。

 神谷怜奈からだった。

 珍しい。

 メッセージは短かった。

 契約で揉めた?

 遥は少し笑った。

 どこから聞いたのか知らない。

 返信する。

 揉めてない。たぶん。
 少し泥が出ただけ。

 すぐに返事が来た。

 それは揉めたって言うの。

 遥は画面を見ながら、声を出さずに笑った。

 少し考えて、返した。

 契約って難しいね。

 神谷からの返事は、今度は少し間が空いた。

 難しいよ。
 でも、読まない選手から順に、誰かの物語になる。

 遥は、その文をしばらく見ていた。

 誰かの物語になる。

 それが、ずっと怖かった。

 笑顔の物語。

 復活の物語。

 勝ちたい選手の物語。

 拍手を越えた物語。

 どれも、少しずつ自分に似ている。

 でも、自分そのものではない。

 遥は返信した。

 私は、私の物語に戻したい。

 送ってから、少し恥ずかしくなった。

 神谷から、短い返事が来た。

 じゃあ、明日スコアで書けば。

 遥はスマートフォンを伏せた。

 厳しい。

 でも、正しい。

 言葉を守るには、言葉だけでは足りない。

 契約書に線を引くことも必要だ。

 でも、最後には、打たなければならない。

 遥は右手の薬指を軽く伸ばした。

 少し張っている。

 明日の朝も、きっと残っている。

 それでも、打つ。

 テーブルの上には、契約書がある。

 ベッドの横には、キャディバッグがある。

 窓の外には、夜の街の明かりがある。

 遥は、その三つを順番に見た。

 お金。

 言葉。

 白球。

 どれか一つだけ選べれば、楽だった。

 だが、プロは選べない。

 全部を抱えて、ティーグラウンドに立つ。

 遥はペンを置いた。

 契約書の紙は、やはり白かった。

 だが、もう真っ白には見えなかった。

 そこには、まだ乾いていない泥のようなものが、薄く滲んでいる気がした。

 白球は、まだホールには届いていない。

 けれど遥は、自分の言葉を、少しだけ自分の手の中に戻した。

 明日は、その手でクラブを握る。


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