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小説『あの白球はホールに届く』Season3―― プロの一打 ――第2話「練習場の泥」

 練習場の朝は、思ったより汚れている。

 遠くから見れば、芝は青い。

 ネットは高く張られ、打席はきれいに並び、白球は箱の中に整然と積まれている。プロたちが黙々とクラブを振る姿は、どこか神聖なもののように見えるかもしれない。

 けれど、近づけば違う。

 マットの隅には削れた人工芝の粉が溜まっている。昨日の雨を吸った土は、まだ少しぬかるんでいる。シューズの裏には、芝と砂と泥が混じって貼りつく。ボールの白さも、箱から出した瞬間だけだ。数球打てば、薄い傷や土の跡がつく。

 白石遥は、打席の後ろに置いたタオルでグリップを拭いた。

 右手の薬指には、まだ小さな違和感があった。

 痛みと呼べば、大げさになる。

 だが、何もないとは言えない。

 クラブを握るたびに、そこだけが少し遅れて目を覚ます。身体の中で、小さな針が一本、横向きに入っているような感覚だった。

 遥はその指を軽く曲げた。

 曲がる。

 伸びる。

 腫れてはいない。

 だから、打てる。

 打てるなら、言い訳にはならない。

 そう思った瞬間、自分がすでに言い訳を探していたことに気づいた。

「最低」

 声は、ほとんど息に近かった。

 朝の練習場には、すでに何人かの選手が入っていた。

 ドライバーの高い音。

 アイアンの乾いた音。

 ウェッジで芝を削る低い音。

 その中に、神谷怜奈の音が混じっていた。

 見なくても分かった。

 音に迷いがない。

 もちろん、本当に迷いがないわけではないのだろう。神谷にだって調子の悪い日はある。身体の痛みもある。眠れない夜もある。契約の重さも、順位の圧も、きっとある。

 それでも神谷の音は、いつも先に進んでいるように聞こえた。

 遥の音は、昨日からずっと足踏みをしている。

 一球目。

 七番アイアン。

 軽く振ったつもりが、少し厚く入った。

 ボールは低く出て、右へ流れた。

 遥はすぐに次のボールを置いた。

 二球目。

 今度は薄い。

 打った瞬間、手に嫌な感触が残った。ボールは高く上がったが、力のない球だった。

 三球目。

 引っかけた。

 四球目。

 ダフった。

 マットの下に湿った土があるわけでもないのに、遥の手には泥を叩いたような重さが残った。

 後ろで誰かが笑った。

 遥は振り向かなかった。

 自分のミスを笑われたわけではない。別の選手同士が何かを話して笑っただけだ。そんなことは分かっている。

 分かっているのに、胸が反応した。

 見られている。

 比べられている。

 落ちていると思われている。

 全部、勝手な想像だった。

 それでも、プロはその勝手な想像を抱えたまま打たなければならない。

 遥はクラブを握り直した。

 薬指が少しだけ疼いた。

「気にするな」

 自分に言った。

 気にするなと言った時点で、もう気にしている。

 五球目。

 振り急いだ。

 打球は左へ出た。

 遥はクラブヘッドを見下ろした。

 フェースには、薄く白い跡が残っていた。芯より少し外れている。目で見れば、たった数ミリのズレだった。

 けれど、ゴルフではその数ミリが人生の顔を変える。

 賞金順位。

 出場権。

 契約。

 記事の見出し。

 観客の声。

 自分の名前の価値。

 たった数ミリのズレが、それらを少しずつ別の方向へ押し流していく。

 遥はボールを置く手を止めた。

 練習場の奥、アプローチエリアで若い選手が笑っていた。二十歳そこそこに見える。軽い足取りでボールを拾い、次々とウェッジを打っている。

 球は柔らかく上がり、旗の近くに落ちた。

 うまい。

 遥は素直にそう思った。

 素直に思ったあとで、すぐに嫌な感情が来た。

 若いから。

 まだ怖いものを知らないから。

 身体が軽いから。

 そう思いかけて、遥は唇を噛んだ。

 違う。

 あの子は練習している。

 ただ、それだけだ。

 遥より若いから楽なのではない。遥より怖がっていないように見えるから軽いのではない。もしかしたら、あの子にはあの子の崖がある。

 それでも、羨ましかった。

 羨ましいという感情は、扱いにくい。

 怒りよりもみっともない。

 悲しみよりも見せづらい。

 負けたと認める前に、心の中で他人の光を少し曇らせようとする。

 遥は、その自分が嫌だった。

 嫌だったが、消えなかった。

 そこへ、背後から声がした。

「白石さん」

 振り向くと、キャディの高瀬が立っていた。

 高瀬は四十代半ばの男性で、表情を大きく変えない。褒める時も淡々としているし、悪い時も必要以上に深刻な顔をしない。だから、遥はときどき腹が立つ。

 今日も腹が立った。

 何も言われていないのに。

「見てた?」

「はい」

「悪い?」

「悪いです」

 即答だった。

 遥は少し笑った。

 笑えたことにも腹が立った。

「もう少し気を遣ってくれてもいいんじゃない」

「気を遣うなら、今は嘘を言わない方がいいです」

 高瀬は打席の横に立ち、遥の足元を見た。

「右足が早いです」

「分かってる」

「分かっているのと、直せているのは別です」

「それも分かってる」

「じゃあ、やりましょう」

 遥はクラブを持ったまま、打席から一歩下がった。

「ねえ、高瀬さん」

「はい」

「私、そんなにひどい?」

 高瀬は少しだけ間を置いた。

 その間が、遥には答えに思えた。

「ひどいというより、急いでいます」

「急いでる?」

「戻ろうとしている」

 遥は眉を寄せた。

「戻るのは悪いこと?」

「どこへ戻るかによります」

 高瀬はボールを一つ拾い、手の中で転がした。

「前の白石さんへ戻るなら、たぶん戻らない方がいいです」

 遥は黙った。

 前の自分。

 笑顔を作り、拍手に応え、求められる形に合わせようとしていた自分。

 でも、前の自分は弱かっただけではない。

 前の自分も、必死だった。

 契約を取るために笑った。

 応援に応えるために笑った。

 自分の居場所を守るために笑った。

 あの笑顔を、全部間違いにしたくはなかった。

「前の私、そんなにダメだった?」

 言った瞬間、遥は少し後悔した。

 責めるような声になった。

 高瀬は首を横に振った。

「ダメだったとは言っていません」

「じゃあ何」

「使い切ったんだと思います」

 遥は、その言葉をすぐには受け取れなかった。

「使い切った?」

「はい。あのやり方で行けるところまで行った。だから今、別のやり方を覚える時期なんだと思います」

 遥は打席の前に置かれたボールを見た。

 きれいな白だった。

 まだ打たれていない球は、いつも無責任に白い。

「別のやり方って、何」

「泥の中で打つことです」

「泥?」

「調子が悪い。指が気になる。順位が気になる。契約も気になる。神谷選手の音も気になる。若い選手も気になる。そういうものが全部あるまま、打つことです」

 遥は目を細めた。

「それ、嫌な言い方」

「でも、今日の練習には合っています」

 高瀬は、旗の方を見た。

「きれいに打とうとしなくていいです。まず、泥をつけたまま運んでください」

「白球に?」

「自分にです」

 遥は返事をしなかった。

 高瀬の言葉は、うまいことを言っているようで、少し腹立たしかった。

 だが、残った。

 泥をつけたまま運ぶ。

 遥はもう一度、打席に立った。

 高瀬は後ろへ下がった。

「七番で、低く」

「どこへ」

「百三十」

「届かないかも」

「届かせる練習ではありません。運ぶ練習です」

 遥は鼻で息を吐いた。

「また嫌なこと言う」

「仕事なので」

 遥は構えた。

 足元を確認する。

 右足が早い。

 たしかに、早い。

 打ち急いでいる。

 戻りたがっている。

 早くいい音を出したい。早く安心したい。早く、自分は大丈夫だと思いたい。

 その焦りが、スイングの最初にもう出ている。

 遥はクラブを上げた。

 ゆっくり。

 大きくしない。

 力まない。

 そう思うと、力む。

 だから、思うのをやめた。

 打った。

 低い球だった。

 少し右へ出たが、さっきよりもましだった。

 百三十には届いていない。

 百二十五くらい。

 高瀬が言った。

「悪くないです」

「嘘」

「嘘ではありません。悪くないだけで、良くもありません」

「ほんと嫌な人」

「もう一球」

 遥は次のボールを置いた。

 今度は少し左。

 次は手前。

 次は強い。

 次は弱い。

 揃わない。

 きれいではない。

 けれど、遥は一球ごとに足元を見るようになった。

 指の違和感がある。

 順位の数字がある。

 神谷の音がある。

 若い選手への嫉妬がある。

 契約の不安がある。

 それらを消してから打つのではない。

 それらがあるまま、打つ。

 十球。

 二十球。

 三十球。

 白球は、少しずつ汚れていった。

 遥のシューズの裏にも、練習場の端に残っていた湿った土がついていた。気づかないうちに、打席の後ろを歩き回っていたらしい。

 泥が、白いソールに残っている。

 遥はそれを見て、なぜか少し落ち着いた。

 きれいなままの靴で、プロはやれない。

 そう思った。

 昼過ぎ、神谷怜奈が練習を終えて引き上げていった。

 遥の横を通る時、神谷は立ち止まった。

「まだやるの」

「やる」

「指、痛いんじゃない?」

 遥は一瞬、右手を隠しそうになった。

 隠さなかった。

「痛いほどじゃない」

「そういう時が一番危ない」

「分かってる」

「分かってるって言う人、だいたい分かってない」

 遥は神谷を見た。

「今日はよく話すね」

「あなたが分かりやすく崩れてるから」

「嫌な性格」

「プロだから」

 神谷は少しだけ笑った。

 その笑顔は、テレビで見るものよりずっと小さかった。

「白石さん」

「何」

「勝ちたいなら、泥を嫌がらない方がいい」

 遥は返事をしなかった。

 神谷は続けた。

「泥がつくのは、そこに立ってるからでしょ」

 そう言って、神谷は歩いていった。

 遥はしばらく、その背中を見ていた。

 やはり腹が立つ。

 でも、少しだけ救われた。

 自分だけが汚れているわけではないのかもしれない。

 神谷のシューズのかかとにも、泥がついていた。

 夕方、練習場に残っている選手は少なくなっていた。

 空は薄く曇り、風は朝より穏やかになっていた。打席の照明がつき始めるには、まだ少し早い。世界がいちばん中途半端な明るさになる時間だった。

 遥は最後に、ドライバーを持った。

 高瀬が言った。

「無理に振らなくていいです」

「分かってる」

「分かってる禁止にしましょうか」

 遥は笑った。

 今日初めて、少し普通に笑った。

「じゃあ、何て言えばいいの」

「やってみます、でいいです」

 遥はティーにボールを置いた。

 ドライバーは、まだ怖かった。

 飛ばしたい。

 曲げたくない。

 置きにいきたくない。

 でも、振り切るのも怖い。

 全部が同時にあった。

 遥は構えた。

 右手の薬指。

 賞金順位。

 契約。

 神谷。

 若い選手。

 朝のミス。

 一メートルの外れたパット。

 全部、消えない。

 消えないまま、そこにある。

 遥は深く息を吸った。

 そして、振った。

 音は完璧ではなかった。

 芯を少し外した。

 ボールはやや低く出て、フェアウェイの右側へ落ちる球筋だった。

 試合なら、少し嫌な場所に残るかもしれない。

 けれど、大きくは曲がらなかった。

 遥は、その白球が落ちるまで見ていた。

 高瀬が言った。

「今日の中では、一番プロっぽい球でした」

 遥はクラブを下ろした。

「褒めてる?」

「はい」

「全然うれしくない」

「でも、悪くない顔です」

 遥は返事をしなかった。

 練習場の地面を見た。

 シューズの底には、泥がついている。

 ボールにも、クラブにも、手にも、どこかに練習場の跡が残っている。

 きれいではない。

 美しくもない。

 でも、逃げなかった。

 遥はタオルでクラブを拭いた。

 フェースの汚れを落としながら、ふと思った。

 プロの一打は、きれいな場所から生まれるわけではない。

 笑顔の奥からでもない。

 拍手の中からでもない。

 たぶん、こういう場所から始まる。

 誰にも見せたくない焦り。

 認めたくない嫉妬。

 消せない不安。

 痛いと言うほどではない痛み。

 そして、白い靴の底についた、少しの泥。

 遥はバッグを肩にかけた。

 帰り際、練習場の端にある水道で、シューズの泥を落とそうとして、やめた。

 明日もどうせ、つく。

 そう思った。

 ホテルへ戻る車の中で、遥はスマートフォンを取り出した。

 賞金順位のページを開きかけて、指を止めた。

 見てもいい。

 見なくてもいい。

 順位は消えない。

 数字も消えない。

 けれど、今日の練習場の泥も消えない。

 遥はスマートフォンを伏せた。

 窓の外で、夕方の道路がゆっくり流れていた。

 白球は、まだホールには届いていない。

 だが、遥のシューズには、今日の泥が残っていた。

 それはたぶん、届かない場所へ向かうための、最初の重さだった。



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