小説『あの白球はホールに届く』Season3―― プロの一打 ――第5話「神谷怜奈の背中」
神谷怜奈の背中は、いつも少し遠い。
同じ組で回っていても、同じ練習場にいても、同じクラブハウスの廊下を歩いていても、彼女の背中には、誰かが簡単に近づけない距離があった。
姿勢がいいからではない。
歩き方が美しいからでもない。
たぶん、迷いを見せないからだ。
白石遥は、スタート前の練習グリーンで、神谷の背中を見ていた。
朝の空は曇っていた。
雨が降るほどではない。けれど、空気の中に湿り気がある。芝は少し重い。ボールの転がりも、昨日の練習グリーンとは違っていた。
遥は一メートルのパットを三球打った。
二球入った。
一球、カップの左を抜けた。
その一球を、最後まで見た。
外れた球は、何も言わずに止まった。
以前なら、すぐ次の球を置いていたかもしれない。なかったことにするように、次で帳尻を合わせようとしていたかもしれない。
だが、今日は見た。
外れた白球を見た。
そのあとで、次を打った。
高瀬が少し離れたところからうなずいた。
褒めたわけではない。
ただ、見ていた。
それでよかった。
少し離れた場所で、神谷がロングパットをしていた。
十メートルほどの距離。
カップに入れる練習ではない。距離感を確認するためのパットだった。神谷の白球は、カップの手前で速度を落とし、通り過ぎることなく、ほとんど同じ距離に止まった。
次も。
その次も。
入らなくても、強さが揃っている。
遥は、それを見て少し腹が立った。
うまい。
うますぎる。
そして、そのうまさを見て腹を立てている自分が、また嫌だった。
神谷は、周囲の視線を気にしていないように見えた。
記者も、カメラも、他の選手も、スタッフも。
彼女の世界には、カップとラインとボールしかないように見える。
遥は、自分の手元のパターを握り直した。
右手の薬指は、今日は少しましだった。
ましというだけで、消えたわけではない。
スタート時刻が近づき、選手たちはティーイングエリアへ向かった。
今日の組み合わせは、白石遥、神谷怜奈、そして若手の宮野沙耶。
宮野は前週、初めてトップテンに入った選手だった。小柄で、明るく、挨拶の声がよく通る。カメラの前でも自然に笑う。若い選手らしい勢いがあった。
遥は、少し前の自分を見るような気がした。
いや、違う。
自分はあんなに自然ではなかった。
笑顔は作っていた。
宮野の笑顔が作り物かどうかは分からない。分からないのに、勝手に比べてしまう。
プロの世界では、他人の笑顔まで、時にスコアのように見えてしまう。
一番ホール。
パー四。
やや左ドッグレッグ。
フェアウェイ右にバンカー。
左は深いラフ。
神谷が先にティーへ立った。
無駄のないルーティン。
素振りは一度。
構える。
止まる。
打つ。
音は、乾いていた。
白球は低めに出て、フェアウェイの左サイドへ落ちた。強い球だった。風に負けない。逃げていない。だが、無理もしていない。
観客の拍手が起こる。
神谷は軽く頭を下げ、すぐにティーを拾った。
その動作に、勝った人の余裕があった。
いや、違う。
勝ったから余裕があるのではない。
勝つために、余分なものを置いてきた人の動きだった。
次は宮野。
明るい表情でティーに立つ。
少し右へ出たが、フェアウェイに残った。
宮野は小さくガッツポーズをした。
観客が笑う。
いい空気だった。
最後に遥。
ティーにボールを置く。
芝が少し湿っている。
風は左から。
右手の薬指。
昨日の契約書。
勝ちたいと言った記事。
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神谷の背中。
全部が頭のどこかにある。
消えない。
消さなくていい。
遥はそう思おうとした。
ドライバーを構える。
深く息を吸う。
振った。
音は悪くなかった。
だが、少し押し出した。
白球は右へ出て、フェアウェイバンカーの手前に止まった。
安全ではない。
最悪でもない。
そういう場所だった。
拍手はあった。
だが、神谷の時より少し薄い。
遥は、その薄さに気づいてしまった。
気づいた自分が嫌だった。
まだ拍手を比べている。
拍手が聞こえない日を越えたはずなのに、今度は拍手の厚みを測っている。
人間は、そんなに簡単には自由にならない。
二打目地点へ歩く途中、神谷は遥の横を通った。
「悪くない」
短く言った。
遥は少し驚いた。
「褒めた?」
「バンカーに入ってない」
「基準低くない?」
「今日の朝なら、それで十分」
神谷は前を向いたまま言った。
遥は、その横顔を見た。
「私の朝の状態、そんなに悪く見えた?」
「悪いというか、うるさかった」
「音?」
「顔」
遥は黙った。
神谷は続けた。
「白石さんは、考えてることが顔に出る」
「神谷さんは出ないね」
「出さないだけ」
その言い方が、少し引っかかった。
出ないのではなく、出さない。
それは、才能ではなく選択なのかもしれない。
二打目。
遥のボールはフェアウェイ右サイド、少しつま先下がりにあった。
ピンまでは百四十五ヤード。
グリーン手前にバンカー。
風は左から。
高瀬が七番と八番を持ってきた。
「八番で手前でもいいです」
「七番だと?」
「奥のラフまで行く可能性があります」
遥はグリーンを見た。
手前はバンカー。
奥はラフ。
ピンは手前。
狙いたくなる位置だった。
勝ちたい。
昨日、言った。
今の自分で勝ちたい。
なら、ここで攻めるべきか。
いや、まだ一番ホールだ。
でも、神谷はフェアウェイからピンを狙ってくる。
ここで置きにいけば、最初から差がつく。
そう思った時、遥は神谷を見た。
神谷は自分のボールの前で、キャディと短く話していた。表情は変わらない。だが、その目はピンだけを見ていなかった。風、芝、グリーンの硬さ、次のパットの位置。
全部を見ている。
遥は、七番アイアンに手を伸ばしかけた。
高瀬が何も言わずに待っていた。
「八番」
遥は言った。
高瀬はうなずいた。
打った球は、グリーン手前に落ち、少し転がってエッジで止まった。
ピンまではまだ距離がある。
派手ではない。
拍手も小さい。
だが、悪くなかった。
神谷はその後、ピンの右三メートルにつけた。
観客が大きく拍手した。
遥はその拍手を聞いた。
聞いたうえで、自分の球を見た。
エッジ。
悪くない。
そう思った。
比べたくなる心は消えない。
でも、自分の球を捨てなければいい。
一番ホールは、神谷がバーディ。
遥はパー。
宮野もパー。
歩きながら、宮野が明るく言った。
「神谷さん、いきなりバーディすごいです」
神谷は軽く首を振った。
「たまたま」
「たまたまじゃないですよ。距離感、完璧でした」
「完璧なら、カップに入ってる」
宮野は一瞬、返事に困ったように笑った。
遥は、そのやり取りを聞いていた。
神谷の言葉は、冷たく聞こえる。
でも、たぶん冷たくしたいわけではない。
基準が違うのだ。
入らなかったものを、完璧とは呼ばない。
その厳しさで、自分を立たせている。
四番ホール。
パー三。
池越え。
ピンは右奥。
風が少し強くなっていた。
宮野が先に打った。
球は高く上がり、風に押されて右へ流れた。
池は越えたが、グリーン右のラフへ入った。
宮野は「あっ」と小さく声を漏らした。
次に遥。
ピンを狙うか、センターに置くか。
距離は百六十。
風は右から。
高瀬が言った。
「センターでいいです」
遥はピンを見た。
右奥。
狙えば、格好いい。
乗れば、流れが来る。
外せば、右のラフ。最悪、池の可能性もある。
勝ちたい。
勝ちたいから、どこを狙うのか。
勝ちたいから、攻めるのか。
勝ちたいから、刻むのか。
以前なら、どちらか一方を正解にしたがった。
攻めるのが強い選手。
守るのが賢い選手。
でも、プロの一打は、そんなに簡単ではない。
遥はグリーンセンターを見た。
「センター」
高瀬がうなずく。
打った球は、グリーン中央に落ち、少し転がった。
ピンまでは七メートル。
観客の反応は薄かった。
だが、遥はそれでよかった。
最後に神谷。
彼女はピンを狙った。
低い球で、風の下を通す。
白球はピンの左手前に落ち、転がって二メートルについた。
拍手。
大きい。
遥は胸の奥がざらつくのを感じた。
自分もセンターに置いた。
間違っていない。
でも、神谷は狙った。
そして成功した。
その差を、どう受け止めればいいのか。
七メートルのバーディパット。
遥はラインを読んだ。
上り、少し右へ切れる。
入れたい。
神谷に置いていかれたくない。
そう思った瞬間、手元が少し強くなった。
球はカップ右を抜け、返しが一メートル半残った。
遥は唇を噛んだ。
やってしまった。
入れたい欲が、距離感を壊した。
その横で、神谷は二メートルを沈めた。
連続バーディ。
観客の空気が、神谷へ寄っていく。
遥は返しのパーパットを打つために構えた。
一メートル半。
朝の練習より長い。
外せばボギー。
入れればパー。
たった一本の線の上で、さっきの欲と、今の恐怖がぶつかった。
遥は打った。
白球はカップの縁を回り、落ちた。
息が抜けた。
パー。
助かった。
そう思った。
だが、神谷はもう次のホールへ歩き出していた。
その背中が、また遠く見えた。
六番ホールへ向かう途中、宮野が神谷に話しかけた。
「神谷さんって、怖くないんですか」
神谷は歩きながら答えた。
「何が」
「ピンを狙う時とか。失敗したらって」
「怖いよ」
宮野は驚いた顔をした。
「全然そう見えないです」
「見せてないから」
その言葉を、遥は少し離れた後ろで聞いていた。
また同じ言葉だった。
出さない。
見せない。
神谷は、怖くない人ではない。
怖さを持ったまま、見せない人なのだ。
宮野が言った。
「私、怖いとすぐ顔に出ちゃいます」
「出る方が自然」
「神谷さんは自然じゃないんですか」
神谷は少しだけ笑った。
「たぶんね」
その笑いは、小さかった。
遥は、その背中を見た。
初めて、神谷の遠さが、強さだけではないように見えた。
遠く立たなければ、持たない人なのかもしれない。
九番ホール。
パー五。
遥はティーショットをフェアウェイに置いた。
二打目は無理をせず、残り九十ヤード。
神谷は二オンを狙える位置だった。
観客が少しざわつく。
神谷はフェアウェイウッドを持った。
池越え。
成功すればイーグルチャンス。
失敗すれば大きく崩れる。
キャディと短く話したあと、神谷は構えた。
風が一瞬止まったように感じた。
打った。
音は強かった。
白球は高く出た。
だが、思ったよりも右へ流れた。
池。
観客が息を飲んだ。
球は水面の手前、池の縁に当たり、跳ねた。
そして、ラフに残った。
歓声ともため息ともつかない声が漏れた。
助かった。
誰もがそう思った。
神谷は表情を変えなかった。
だが、遥は見た。
神谷の右手が、ほんの一瞬だけ握られたことを。
強く。
指の関節が白くなるくらい。
すぐに戻った。
ほとんど誰にも分からない動きだった。
でも、遥には見えた。
神谷も、怖かったのだ。
池に入るかもしれない一打を、怖くない顔で打っていただけだ。
遥は、自分の三打目地点へ歩いた。
残り九十ヤード。
ウェッジ。
ピンは手前。
神谷の球はラフに残っている。
ここで寄せれば、神谷に近づけるかもしれない。
勝ちたい。
今の自分で勝ちたい。
その言葉が胸の奥にあった。
遥は構えた。
打った。
少し強かった。
白球はピンを越え、四メートル奥に止まった。
悪くはない。
だが、寄せ切れなかった。
神谷はラフから難しいアプローチを残した。
ピンまでは短いが、芝が深い。
池の縁に近く、足場も悪い。
普通なら、寄せるだけでも難しい。
神谷はクラブを短く持った。
素振りを二度。
珍しかった。
いつもより一度多い。
遥はそれを見逃さなかった。
神谷は打った。
球は柔らかく上がり、グリーンに落ちて、するすると転がった。
カップの横、五十センチ。
拍手が起こった。
神谷は小さく頭を下げた。
その背中は、やはり遠かった。
だが、さっきとは違って見えた。
遠く見えるのは、誰も近づけないからではない。
神谷が、自分でそこに立っているからだ。
怖さも、孤独も、失敗の可能性も、全部背負って。
遥は四メートルのバーディパットを外した。
カップの左。
パー。
神谷もバーディ。
前半を終えた時点で、神谷は三アンダー。
遥はイーブン。
宮野は一オーバー。
差は開いていた。
クラブハウスへ戻る途中、遥は神谷に追いついた。
「さっきの二打目」
遥が言うと、神谷は前を向いたまま答えた。
「ミス」
「池に入りそうだった」
「見れば分かる」
「怖かった?」
神谷は少しだけ黙った。
「怖かった」
遥は、その素直な答えに驚いた。
「でも打った」
「打つって決めたから」
「決めたら怖くない?」
「決めても怖い」
神谷は足を止めた。
振り返らない。
背中を向けたまま言った。
「怖くなくなるのを待ってたら、プロは打てない」
遥は黙った。
神谷の背中が、すぐ近くにあった。
でも、やはり遠かった。
その遠さの理由が、少しだけ分かった気がした。
神谷は、怖くない人ではない。
怖いまま打つ人だ。
だから、背中が遠く見える。
遥は、少し遅れて言った。
「私、神谷さんのこと、冷たい人だと思ってた」
「よく言われる」
「違うのかもって、少し思った」
「冷たいよ」
神谷はあっさり言った。
遥は少し笑った。
「否定しないんだ」
「勝つために、切ってるものはあるから」
その言葉に、遥は笑うのをやめた。
神谷は続けた。
「全部持ったまま勝てる人もいるかもしれない。でも私は無理だった。だから、切った」
「何を」
「いろいろ」
それ以上、神谷は言わなかった。
遥も聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
勝つために切ったもの。
それは、友人かもしれない。
家族との時間かもしれない。
笑顔かもしれない。
弱音かもしれない。
誰かに甘えることかもしれない。
神谷怜奈の背中は、そういうものを後ろに置いてきた背中だった。
後半。
遥のプレーは、大きく崩れなかった。
だが、伸びもしなかった。
十一番でバーディチャンスを外し、十三番で寄せワンを拾い、十五番で三メートルを沈めてようやく一アンダー。
神谷はその間に一つ伸ばし、四アンダー。
宮野は後半に崩れ、二オーバーまで落とした。
十六番ホール。
パー四。
風が強くなっていた。
ティーショットで、遥はフェアウェイを捉えた。
神谷は左ラフ。
珍しく、少し苦しい位置だった。
二打目。
遥はグリーン中央に乗せた。
ピンまで五メートル。
神谷はラフから低い球で出し、グリーン手前に止まった。
アプローチが残る。
ここで、少しだけ流れが変わるかもしれない。
遥は五メートルのバーディパットを読んだ。
入れたい。
入れれば、神谷との差が少し縮まる。
観客も、少しこちらを見る。
勝ちたい。
遥は、その言葉から逃げなかった。
打った。
白球は、ゆっくり転がった。
ラインに乗っている。
入る。
そう思った瞬間、カップの手前でわずかに右へ切れた。
外れた。
五十センチ。
遥は、外れた球を最後まで見た。
悔しい。
でも、逃げなかった。
神谷のアプローチ。
寄ればパー。
ミスすればボギー。
彼女は打った。
球はピンを少し過ぎ、一メートル半。
微妙な距離が残った。
神谷は表情を変えず、パターを持った。
構える。
打つ。
外れた。
カップの左を抜けた。
観客が小さく息を飲む。
神谷はすぐに返しを入れた。
ボギー。
この日初めてのボギーだった。
遥は、神谷の顔を見た。
変わらない。
変わらないように見える。
だが、カップから球を拾う手が、ほんの少しだけ遅かった。
十七番へ向かう道で、二人は並んだ。
遥は何も言わなかった。
神谷も何も言わなかった。
沈黙が続いた。
やがて神谷が言った。
「言えば」
遥は横を見た。
「何を」
「嬉しいんでしょ。私が落としたの」
遥は息を止めた。
図星だった。
神谷がボギーを打った瞬間、胸の奥で何かが少し浮いた。
差が縮まった。
チャンスだ。
そう思った。
その自分を、遥はすぐに隠そうとした。
でも、隠したところで消えるわけではなかった。
「……少し」
遥は言った。
神谷は、前を向いたまま小さく笑った。
「正直でよろしい」
「嫌な人」
「プロだから」
その言葉に、遥も少し笑った。
勝負の中で、相手のミスに心が動く。
それは、きれいではない。
でも、勝負とはそういうものでもある。
相手を憎まなくても、相手のミスで自分に道が開くことはある。
それをなかったことにする方が、たぶん嘘だ。
十八番。
最終ホール。
パー四。
神谷は三アンダー。
遥は一アンダー。
差は二打。
今日だけの勝負なら、まだ届かない。
だが、遥の中で、何かが少し変わっていた。
神谷の背中は、遠い。
でも、絶対に届かない壁ではない。
同じコースを歩いている。
同じ風を受けている。
同じように怖い。
同じように勝ちたい。
違うのは、その怖さをどう抱えて打つかだった。
神谷のティーショットはフェアウェイ。
遥もフェアウェイ。
二打目。
神谷はグリーン右奥。
遥はピン左三メートルにつけた。
今日一番のショットだった。
観客の拍手が起こった。
今度は、少し厚かった。
遥は、その拍手を聞いた。
嬉しかった。
嬉しいと思った。
それでいいと思った。
拍手に支配されることと、拍手を喜ぶことは、たぶん違う。
神谷は二パットでパー。
遥には三メートルのバーディパットが残った。
入れれば二アンダー。
神谷との差は一打。
入らなくても、一アンダー。
遥はラインを読んだ。
軽い上り。
ほぼまっすぐ。
高瀬が言った。
「打てます」
遥はうなずいた。
勝ちたい。
神谷に近づきたい。
その気持ちは、もう隠さなかった。
打った。
白球はまっすぐ転がった。
カップへ向かう。
届く。
そう思った。
しかし、ほんの少し弱かった。
カップの手前で、止まった。
あと半転がり。
白球は、ホールに届かなかった。
観客から、ため息が漏れた。
遥はその白球を見た。
悔しかった。
悔しくて、胸が熱くなった。
だが、不思議と目をそらさなかった。
届かなかった白球は、そこにあった。
自分が打った球だった。
神谷が隣に立った。
「弱い」
短く言った。
遥は白球を拾い上げた。
「分かってる」
「分かってる禁止じゃなかった?」
遥は少し笑った。
「やってみます」
神谷は小さくうなずいた。
その表情は、ほんの少しだけ柔らかかった。
ホールアウト後、神谷はスコアカードを提出しに行った。
遥はその背中を見ていた。
やはり遠い。
でも、今日の遠さは、昨日までとは違っていた。
遥は、神谷の背中をただ眺めるだけではなかった。
追いたいと思った。
追いつきたいと思った。
勝ちたいと思った。
その気持ちを、もう恥ずかしいとは思わなかった。
神谷怜奈の背中は、勝つ人の背中だった。
同時に、怖いまま打つ人の背中だった。
白石遥は、その背中を見ながら、自分のシューズについた芝と泥を見下ろした。
まだ足りない。
技術も、覚悟も、距離感も。
でも、見えた。
遠い背中の向こうに、自分が立ちたい場所が少しだけ見えた。
白球は、まだホールには届いていない。
けれど遥は、届かなかった半転がりを、自分の弱さとして受け取った。
そして初めて、その弱さを持ったまま、次のホールへ行きたいと思った。
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