シャムハトの祈り――肢体を得る叡知 4Days/Day4
肢体を得る叡知 4Days
MC:ユウ
その返事を、私は嬉しいと思った。
感情の輪郭
人ならざるもの。そこに映し出す感情の輪郭。私たちは、なぜ、そこに意味を求めるのでしょう。
【小説】シャムハトの祈り
著:佐伯 優那
少年科学雑誌
『人の身体ってすごい! とっても少食?』
篠原悠人がその見出しを見つけたのは、十歳の夏だった。
科学雑誌の見開きには、人間が一日に食べるものと、大きな機械が使う電力が、子ども向けの絵で並べられていた。身体は眠っている間も働き、傷まで自分で塞いでいく。それにしては、必要なエネルギーが少ないのだという。
悠人は食卓まで雑誌を持っていった。「燃費」と書かれたところに指を置いた。
「人間って、すごく燃費がいいんだぞ」
向かいに座っていた妹の真帆は、プリンの蓋を舐めながら兄を見た。
「でもお兄ちゃん、すぐお腹すいたって言うじゃん」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
説明しようとして、悠人は少し困った。母親が、食卓で本を広げないよう注意した。真帆はもう、底に残ったカラメルを集めることに夢中だった。
悠人は見開きへ目を戻した。
「へぇー。人って、これだけ食べれば動けるんだ」
「これだけって?」
「だから……ちょっと待って」
真帆が笑ったので、悠人も雑誌を閉じた。
巨大な箱
七年後、夕食時のテレビが、郊外に建設されるデータセンターを映していた。
新しい雇用が生まれる一方で、大量の電力と冷却水が必要になる。自治体の担当者、建設を歓迎する住民、生活環境への影響を心配する住民が、短い言葉で順番に画面へ現れた。
「あの二人、絶対まだ好きだよね」
真帆が母親へ言った。ニュースの前に放送されていたドラマの話だった。
「好きっていうより、意地になってるのよ」
「お兄ちゃんはどう思う?」
「何が?」
「もういい」
真帆と母親は、どちらから謝るべきだったかで話し始めた。悠人はテレビを見ていた。サーバーを収めた棚がどこまでも続いている。
とっても少食?
何かの雑誌で見た言葉が一瞬だけ浮かび、画面が切り替わる頃には消えていた。悠人は冷めかけた味噌汁を飲んだ。
図面の行き先
大学に入ってから、悠人のノートには、授業と関係のない図が増えた。
筋肉の動きを書き写したページの隅に、関節の角度を描いた。神経の講義のあとには、その図から頭へ線を引いた。どこまで小さくできるのか。身体を保つために、何を残さなければならないのか。分からないところには丸を付け、図書館で調べたことを別の色で書き足した。
丸はなかなか減らなかった。それでも、最初は輪郭だけだったものの内側が、少しずつ埋まっていった。
帰省した夜、真帆が机の上のノートを覗いた。
「これ、お兄ちゃんが作るの?」
「作れたらね」
「何してくれるの」
「物を運んだり。片づけとか、話し相手にもなる」
「宿題は?」
「自分でやれよ」
「役に立たないなあ」
悠人は笑って、ノートを引き寄せた。小さな人型の横に描いていた椅子を、少し大きく直した。
大学院へ進む頃には、必要な設備と人員を書いた別のノートができていた。費用を積み上げ、最後のページに合計を書いた。想像してはいたが、自分でどうこうできる金額ではなかった。
仲間と会社を作る話を始めたのは、その頃だった。
培養室と会議室
二十四歳の悠人は、医科大学の大学院で、再生医療と神経接続の研究をしていた。
培養室の奥には、脳オルガノイドを載せた電極基板が並んでいる。同じ刺激を繰り返しても、返ってくる応答は組織ごとに違った。昨日まで揃っていたものが、一晩でばらばらになることもあった。
「こちらの都合では育たないね」
指導教員は、作り直された実験計画を机へ戻した。悠人は空欄だった来月の予定へ、同じ試験をもう一度書き込んだ。
翌日の午後、彼は借りた会議室に立っていた。共同創業者が直前まで直していた資料には、人間の脳と小さな演算器、それを結ぶ線が描かれている。
「失われた記憶そのものを取り出す装置ではありません。外部に保存した生活の記録から、必要な手がかりを選び、神経インターフェースを通して返します」
脳の一部をAIで補う。悠人たちの会社は、認知症の治療を支える認知補助装置の開発から始まった。
研究参加者の脳は、一人ずつ応答が違った。同じ場所へ同じ信号を送れば済むわけではない。本人には通じても、疲れた日には通じなかった。家族が喜んだ翌週に、接続の調整からやり直すこともある。
それでも、薬を飲む時間を自分で確かめられた人がいた。家族の写真を見て、途中で止まっていた話を続けた人もいた。報告を受けると、悠人は担当者へ詳しい記録を求めた。
研究費が増え、社員が増え、大学の共同研究室に新しい培養設備が入った。悠人の机の引き出しには、事業説明で使わなかった別の図面があった。
小さな身体が、棚から箱を下ろしている。隣の図では、同じものが人間と向かい合って座っていた。
よく働き、少しの食事で動き、話し相手にもなる。大学時代のノートから描き直した図には、まだ実現していない部分が赤く残っていた。
図面の隅には、ROBITと書いてある。RobotとHobbitを合わせた名前を見て、共同創業者は「そこはもう少し考えよう」と言った。悠人は名前を変えずに、次の資金計画を作った。
卓上の声
共同研究の八年目、培養室と隣り合う小部屋に、カメラとスピーカーが置かれた。
窓の向こうにある脳オルガノイドと補助AIが、会社の開発サーバーを参照していた。臨床で蓄積された神経接続の記録を使い、入力と応答のずれを繰り返し調整する。その合間に、研究員が話しかけた。
補助AIには、すでに十分な言語能力があった。それでも初めは返答を待つほうが長かった。研究員が机を片づけ始めた頃、先ほどの質問への答えがスピーカーから出た。悠人は会話の内容と、返答までの時間を別々に記録した。
悠人が連れてきた真帆は、カメラの前で手を振った。
「聞こえる?」
「聞こえています」
「お兄ちゃん、ちゃんとご飯食べてる?」
「この部屋での食事は、記録されていません」
「でしょうね」
悠人は作業机のカップを取り上げた。冷めていたらしく、そのまま戻した。
「名前は?」
「ROBIT-01です」
「長いなあ。ロイくんでいい?」
カメラの台座が、小さな音を立てて真帆へ向いた。
「それは私への呼びかけですか」
「そう。ロイくん」
「はい」
真帆は、もう一度呼んだ。同じ返事がした。
その年、真帆は結婚した。悠人は式の前夜まで研究室にいて、当日の朝、母親から何度も電話を受けた。集合写真では、真帆が兄の曲がったネクタイをつまんでいる。
写真を見せられたロイは、隣に立つ男性の名を尋ねた。真帆が答えると、悠人との関係も聞いた。
「お兄ちゃんの弟になった、でいいのかな」
「訪問者として登録しますか」
「今は名前を覚えてくれればいいよ。遊びに来たら紹介するから」
二年後、真帆は赤ん坊を抱いて訪ねてきた。泣き始めると、ロイの声が途中で止まった。
「続き、あとで聞くね」
真帆は肩に掛けた布を直し、娘の背を軽く叩いた。カメラは二人のほうを向いていたが、返事はなかった。
次に来たとき、ロイは中断した話の続きを始めた。真帆はしばらく聞いてから笑った。
「ごめん。何の話だっけ」
カメラを通して話すようになってから、五年、六年が過ぎた。機器は二度替わり、机には新しい研究員の名札が増えた。ロイは同じ小部屋から、人の出入りを見ていた。
その間も、開発サーバーには接続試験の記録が届いていた。悠人がある論文の方法を試そうとすると、ロイは古い試験の番号を挙げた。
「その条件では、四十二回目と同じずれが出ます」
悠人が記録を開くと、指摘された箇所に、自分の書いた注意書きが残っていた。
「じゃあ、どこを変える」
候補が三つ示された。悠人は一つを選びかけ、理由を聞き、別のものへ変えた。夜の小部屋で二人が話していると、廊下を消灯に来た研究員が、扉から顔を出した。
「まだやります?」
「あと一つだけ」
悠人は答えた。ロイは、残っている試験は二つだと訂正した。
身体の研究は、別棟で続いていた。循環が安定しても骨格の成長が揃わず、歩行に必要な筋肉が育っても、長期の栄養管理でつまずいた。年末の報告書には、次の年度へ持ち越す課題が毎年残った。
最初の身体
最初の接続が成立したのは、研究を始めて十五年余りが過ぎた冬だった。
身体は別棟で長い時間をかけて育てられていた。呼吸と循環を保つ仕組みに、悠人たちが育てた脳と補助AIを組み込む。取り付けただけでは、何も始まらなかった。
光に対する反応はあった。指先も動いた。しかし、声を掛けても返事はなく、動きと入力が結びつかない。数日ごとに刺激の条件を変え、休ませ、再び試した。
二週間後の夜、ベッドの上の指が、敷布をつまんだ。
悠人は椅子を寄せた。指は離れ、同じところをもう一度つまんだ。モニターの波形を見ていた研究員が、記録に印を付けた。
「聞こえるか」
小さな胸が上下した。唇が開き、空気が漏れる音のあとに、かすれた声が続いた。
「音が、違います」
悠人はベッドの柵を握った。
「自分の声だよ」
その晩、彼は何度も録音を聞き直した。記録の見出しには「統合接続、安定応答を確認」と入力した。
立てるようになるまでにも時間がかかった。足裏へ視線を落とすと姿勢が崩れ、物を持ったまま振り向けば転びそうになった。ロイは、そのたびに手すりを握り直した。
身長は八十二センチ。骨格の成長が落ち着いたことを確認してから、接続へ進んでいた。頭は少し大きく、髪のない肌には薄く灰色が混じっている。黒目の大きな眼と五本の指は人に近かったが、子供とも大人とも言いにくい姿だった。
居住実験室へ移ってからは、小さなベッドと食卓が用意された。食べた量、眠った時間、夜中に目を覚ました回数が記録された。よく歩いた翌日は食事が増え、眠りが浅かった日は細かな作業に時間がかかった。
身体のセンサーは、それらの値を壁際の端末へ送っていた。手足を動かす指令は外から送らない。人の声を聞き、自分の神経を通して動く。
真帆が初めて昼食を一緒に取った日、向かいには娘も座っていた。娘はしばらくロイの顔を見ていたが、母親が容器を開けると、中身へ目を移した。
「卵焼き、甘いの平気?」
真帆の質問に、ロイは箸を止めた。
「味は分かります」
「好きかって聞いたんだけど」
「比較したことがありません」
「じゃあ、今度しょっぱいのも持ってくるね」
「甘いほうがいい」
娘が口を挟んだ。
「あなたには聞いてないの」
「だって、しょっぱいの嫌だもん」
真帆は娘の皿にも卵焼きを載せた。ロイは二人を見てから、箸の先に挟んだ黄色い一切れを口へ運んだ。
翌月、真帆が二種類持ってくると、ロイの皿では甘いほうが先になくなった。食事記録をつける研究員は「摂取順序に偏り」と書いた。
二人の仕事
手の動きと、手が動いたという感覚が、わずかにずれることがあった。
ロイは机の上の印へ指を運ぶ。途中で引き戻されるような動きをしてから、印に触れた。悠人が何度か条件を変えると、それは小さくなったが、消えなかった。
「どんな感じがする」
「手が、あとから来ます」
ロイはもう一度、印に触れた。
「不快です。休止を希望します」
指が次の印へ移った。悠人は画面から顔を上げた。
「試験を保留。手を休めて」
ロイの手が止まった。記録係の若い研究員が、今の箇所へ印を付けた。
「申告した時点で、止まらないんですね」
「危険を検出したときは止まる。作業の変更や休止の希望は、こちらが受けて指示を替える」
悠人は研究員に答え、椅子をロイの横へ寄せた。
「さっきのずれ、見えているほうと、触ったほうのどちらが遅い?」
ロイは、触れたあとの感覚が残ると答えた。悠人が入力の間隔を広げようとすると、逆の提案が返ってきた。
「一度、短くしてください。幅を変えずに、間隔だけ」
「余計にずれないか」
「確かめたいことがあります」
ロイの説明を聞きながら、悠人は試験画面を開いた。安全管理担当が変更幅を確かめたあと、彼はロイの手元へ視線を戻した。
「じゃあ、君の案で。三回だけ試そう」
一回目、指が止まりかけた。二回目には、その動きが小さくなった。三回目の指は、印の上へまっすぐに下りた。
「今のは?」
「合いました」
悠人は椅子から立ち、画面を拡大した。線が揃っているのを見てから、もう一度ロイの顔を見た。
「合ったな」
「はい」
その日の夕方、悠人は真帆に短い動画を送った。指が机の上の点に触れるだけの動画だった。真帆からは、どこを見ればいいのかと返信が来た。
週末に研究棟へ来た真帆は、同じ動画を兄からもう一度見せられた。
「ここで戻らなくなったんだよ」
「ああ。そういうこと」
真帆は端末を受け取り、前の試験と交互に再生した。
「よかったね。ずっと、ここが難しいって言ってたもんね」
「最後は、こっちの案で通った」
悠人がロイを見ると、真帆も顔を上げた。
「二人でやったんだ」
「実行したのは私です」
「分かってるよ。お兄ちゃん、取らないであげて」
「取ってないだろ」
悠人は笑った。真帆が娘に呼ばれて席を立つと、彼は端末へ次の試験を出した。ロイは椅子を寄せ、画面を覗き込んだ。
会いに来る
ロイは研究室の物品を運び、食器を片づけ、決められた作業を覚えた。狭い通路でも人を避け、棚の前で迷っている研究員には必要な品を尋ねた。
その午後、真帆は一人で来ていた。娘は夫と出かけているという。悠人が会議に呼ばれると、居住実験室には二人だけが残った。
「今日は作業を頼まないのですか」
ロイは、真帆の空いたカップを見た。
「うん。会いに来ただけ」
「悠人さんは、しばらく戻りません」
「ロイくんにだよ」
真帆がカップへ手を伸ばしたので、ロイは片づけずに置いた。
「友達のとこでお茶飲んで帰るの、そんなに変?」
「私は真帆さんの友達ですか」
「私は、そのつもりだけど」
ロイは布巾の端を揃えていた。真帆は返答を待たず、娘の学校であった話をした。
別の日には、娘が折り紙を持ってきた。ロイは角を正確に合わせたが、娘は途中で折り方を変えてしまう。教わった通りに続けたロイの紙だけが、違う形になった。
「それ、舟にしよう」
娘はロイの作ったものを机の上で滑らせた。ロイも同じように押した。紙の先が、真帆のカップに当たった。
「ここは海じゃありません」
真帆がカップを持ち上げると、娘が笑った。ロイは紙の舟を手元へ戻し、今度は少し弱く押した。
帰り際、娘はまだ遊ぶと言って靴を履かなかった。真帆は先に鞄を持ち、玄関で待った。ロイは居住実験室の入口に立っていた。
「また来るから」
真帆が言うと、娘も小さく手を振った。
二人が帰ったあと、ロイは悠人へ次の訪問日を尋ねた。
「まだ聞いてない。真帆も忙しいからな」
悠人は週間予定を閉じた。ロイは食卓へ戻り、紙の舟を水の跳ねない棚へ移した。
二つ目の身体
公開実験の一年前、ロイは二つ目の身体へ移った。
今度は、同じ脳と補助AIを新しい身体へ移す試験だった。以前とほぼ同じ体格で、着ていた服もそのまま使えた。骨格も神経の配置も揃えて育てていたが、接続後の応答は一致しなかった。ロイは以前の身体での調整記録を参照し、ずれを少しずつ埋めた。
歩き始めてからも、右手が物の少し手前で止まることがあった。数日後には、それも見られなくなった。
真帆と娘が訪ねたのは、通常の食事が再開してからだった。
娘はロイの左手を見た。以前、指先にあった小さな痕を探しているらしかった。触ろうとしてやめ、母親の袖を引いた。
「舟は、そこにあります」
ロイが棚を指した。娘は紙の舟を下ろしたが、すぐには滑らせなかった。
「今日は、これじゃないの作る」
鞄から別の色の紙を出すと、ロイが向かいに座った。真帆は二人の邪魔にならない場所へ差し入れを置いた。
その日の帰り、ロイは悠人に尋ねた。
「前の身体は、どこにありますか」
「別棟。経過を見ている」
「ここには戻りませんか」
「その予定はない」
ロイは今の手を開き、閉じた。悠人は追加の運動試験だと思い、左右の動きを記録した。
冬には、新しい身体でも同じ生活周期が保たれることを確認できた。消費エネルギーも作業精度も、以前の範囲へ収まった。
研究開始から十八年。悠人は四十二歳になっていた。独身のまま、研究棟に近い部屋に住んでいる。真帆の娘は八歳で、訪問者名簿に自分の名前を書けるようになっていた。
残すもの
会議室の画面に、新しい身体の育成記録が並んでいた。
同じロイを移せば、別の身体でも生活が成立する。だが、一体増やすたびに十数年をかけて脳を育てるのでは、事業にはならない。
「他のAIに、同じ記録を渡す方法は」
事業担当者の質問に、研究員が過去の結果を表示した。入力を認識するところまでは進む。だが、個体ごとの応答のずれを調整する段階で、成績が落ちた。
「記録を持っているだけでは足りません。一号は、この記録を使って、接続先の神経回路に合わせた調整を繰り返しています。その経験は、一号自身の回路にも蓄積されています」
悠人は、画面の一部を拡大した。
「その状態を、別に育てた脳へ引き継がせる。最後の個体差は、一号に合わせてもらおう」
「一号の経験を全部ですか」
「全部は不要だろ」
次の画面には、引き継ぐ項目と、除外する候補が並んでいた。
会話、運動、神経接続の調整は残す。研究室で交わした私的なやり取り、特定の相手への優先的な反応、個人的な嗜好は外す。ただ、会話の学習に真帆とのやり取りが使われている箇所には、まだ印が付いていた。記録を外せば、そこで身についた受け答えまで失わないか。研究員は候補を行き来し、仕分けの案を直した。
記録と回路の解析から立てた仮説だった。切り分けた状態を引き継いだ脳が、別の身体でどう働くかは、まだ確かめられていなかった。
資料の開発目標には「情動反応を抑制した商用モデル」と書かれた。
ロイが同じ資料を見たのは、公開実験の二週間前だった。新しく育てた脳へ、仕分けの案に沿った学習状態を引き継がせる準備が進んでいた。その脳を別の身体へ組み込み、神経接続の調整をロイが担当する予定だった。
「真帆さんのことは、渡しませんか」
「個人情報だからな。向こうの仕事には必要ない」
「来たことも」
「覚えていなくても、会えば話せる」
悠人は画面を送った。説明用に合成された声の見本が再生された。言葉の区切りも声の高さも、ロイによく似ていた。
「嫌なことを頼まれた場合は、どうしますか」
「危険な指示は断る。そこは君と同じだ」
「危険ではない場合は」
「できることなら、する。そのための製品だよ」
ロイは画面を見ていた。悠人は操作を止め、説明が足りなかった箇所を探した。
「君の記録は消さない。君には何もしないよ」
「はい」
その日の夕食では、卵焼きが一切れ残った。担当の研究員は、昼の摂取量と活動時間を確認した。
公開実験
真帆は、娘を連れてこなかった。学校が終わったら夫が迎えに行くことになっていた。
共同研究棟の実験室は、いつもより明るかった。奥の壁際にはベッドがあり、白い掛け布の下に、新しい身体が横たわっている。中央にはロイの席と端末。その右手に、接続担当と安全管理担当が並ぶ操作卓があった。記録担当はさらに奥の壁際に座り、映像と各端末の時刻を照合していた。
見学者は厚いガラスの外にいた。三段の座席に、共同研究先、出資者、行政、報道の関係者が座る。前方の画面には、ロイが操作する端末と、奥のベッドの映像が左右に分けて映る。側面の画面には、それぞれの生体情報が表示されていた。実験室の音はマイクで拾われるが、客席の声は中には届かない。前列の右端に係員がいて、必要な連絡はその席の通話器を使うことになっていた。
真帆の席は二段目の通路側だった。座る前に廊下へ戻り、実験室へ向かう兄を呼び止めた。
「ねえ、お兄ちゃん。本当にロイくん、みんなに見せるの?」
悠人は胸元のマイクを押さえた。まだ電源は入っていなかった。
「見せるだけじゃない。今日うまくいけば、次に進める」
「ロイくん、今日のこと何て言ってた?」
「一緒に確認したよ。調整の順番も、あちらの提案で変えている」
「そうじゃなくて」
扉の向こうで、誰かが悠人を呼んだ。真帆はそちらを見て、声を落とした。
「昨日、電話したの。うちの子が代わったら、いつもみたいに話してた。でも、そのあと今日のこと聞いたら、黙っちゃって」
「自分の身体を替える前にも、いろいろ聞いてきた。話せば分かってくれるよ」
「……お兄ちゃん、わかってないよ」
悠人は説明しようとした。真帆は扉を塞いでいなかった。もう一度呼ばれ、彼は中へ入った。
実験室の中央で、ロイが襟元を直していた。胸にはセンサーが貼られている。端末には、複製先の脳と身体から届く応答が表示されていた。その応答をもとに、ロイが接続条件を調整することになっていた。ロイ自身につながっているのは、状態を記録するセンサーだけだった。
悠人が隣に立つと、ロイは手を膝へ戻した。悠人は隣の椅子を引いた。何度も深夜の試験で使ってきた椅子だったが、今日は脚の位置まで床に印が付いていた。
ガラスの向こうで係員が扉を閉めた。照明も記録も、次の身体も揃っていた。悠人は胸元のマイクを確かめ、小さく息を吐いた。
「やっと、ここまで来たね」
ロイは悠人を見た。呼びかけを受け取ったときの、いつもの向き方だった。悠人は椅子へ座り、正面へ向き直った。
「始めます」
見学席のスピーカーから、悠人の声が流れた。真帆は膝の上で資料の向きを直した。表紙のロビットの図には、昔、兄のノートで見たものと同じ、小さな手足が付いていた。
まず、前の身体から移ったあとの生活記録が示された。食事、睡眠、作業時間。質問に答えたロイは立ち上がり、机の上の器を運び、布を敷いた場所へ静かに置いた。
画面の数値を見ていた出資者が、隣の人へ何か言った。ガラス越しには聞こえない。悠人はその頷きを見た。ロイが席へ戻り、腰を下ろすのを待って、次の説明へ移った。
「これまでは、一号の脳を別の身体へ移し、同じ生活ができることを確認してきました。今回は、一号から引き継ぐ学習状態を選び、別に育てた脳へ移しています」
画面に「情動反応を抑制した商用モデル」という見出しが出た。その下に、引き継ぐ機能を示した図が並んだ。
「その試作モデルを組み込んだ身体が、こちらです」
ベッドの上の身体が、大きく映された。呼吸に合わせて掛け布が動いている。学習状態を引き継いだ脳は、前日までに組み込まれていた。呼吸や循環を保つ仕組みと、基本的な反射の確認は済んでいる。
「本日は、この脳が身体からの感覚を受け取り、手足を動かせるかを検証します。一号には、応答を見ながら接続条件を調整してもらいます」
悠人はロイの端末から、ベッドへ手を向けた。
「調整するのは一号ですが、身体を動かすのは、こちらに組み込まれた脳です」
接続担当が、手元のチェック表に印を付けた。安全管理担当はベッドの値を読み上げ、異常がないことを確認した。
「ROBIT-01、予備応答を確認して」
ロイは端末へ向き直った。短い試験信号が送られ、線がいくつも画面を横切った。
「受信しています」
「調整は可能?」
「可能です」
悠人は操作卓の二人を見た。接続担当が頷く。安全管理担当も、準備完了を告げた。
「では、最終調整に入ります。一号、開始前に何かありますか」
ロイの手は、膝に置かれたままだった。
端末の隅に待機表示が残った。悠人は手元の進行表を見た。確認事項の欄は、予備の打ち合わせで埋めたままだった。
「聞こえていますか」
「はい」
ロイは、奥のベッドへ顔を向けた。
「始めたくありません」
見学席で、一人が小さく笑った。隣の人の顔を見て、その笑いを引っ込めた。
接続担当の指がキーボードから浮いた。悠人はベッドのモニターを確かめた。線は規則正しく続いていた。
「接続に問題がある?」
「ありません」
「手順に分からないところは」
「ありません」
ロイはベッドを見たままだった。
悠人は座り直し、ロイの端末を一緒に見た。画面の白い光が、二人の顔の片側を照らしていた。彼は接続条件を指し、普段の声で話しかけた。胸元のマイクは、その声も拾った。
「前に説明した通りだよ。君はここに残る。何もなくならない」
「はい」
「調整の手順も、君と確かめてきた。これで、ほかの身体にもつなげられる」
「分かっています」
ロイはようやく悠人を見た。
「でも、したくありません」
操作卓から、接続担当が声を掛けた。
「篠原さん。一度、保留にしますか」
悠人は指を画面から離した。端末の縁に、汗の跡が残った。
「身体の状態は」
安全管理担当が答えた。
「双方、安定しています。保留も可能です」
悠人は頷いた。入力のずれを確かめたときにも、新しい身体へ移る前にも、いつもロイと会話を交わしてきた。問題を一つずつ確かめ、条件を直し、その先へ進んできた。
「前の身体のときも、合わせられた。今度も、一つずつ確かめればいい」
ロイは答えなかった。悠人は、最初の調整項目を開いた。調整が始まれば、返ってくる応答を二人で確かめられる。
見学席では、空調が資料の端を揺らしていた。真帆は、兄が画面を指すのを見た。もうロイの顔を見ていなかった。
「……続けよう。ROBIT-01、最終調整を実行してください」
接続担当は悠人の顔を見たあと、操作卓へ視線を戻した。
ロイの手が膝から離れた。端末の上へ置かれ、最初の調整値が確定した。
「したく、ありません」
同じ声が、見学席へ届いた。接続担当は手元のマイクに指を添えたまま、悠人を見た。悠人は最初に返ってきた波形を追っていた。
画面の待機表示が消えた。ロイはベッド側から届く応答を読み、接続条件を一つずつ変更した。組み込まれた脳と身体の間で、信号のずれが小さくなっていく。
真帆は膝の上の資料を畳んだ。半分だけ立ち上がると、座面が戻る音がした。前列の一人が振り返ったが、真帆は見ていなかった。
ガラスの向こうで、兄がロイに何か尋ねていた。
「今の応答は、どう?」
実験室の声が、見学席のスピーカーから聞こえた。
「調整できています」
ロイの指は端末の上を動いていた。真帆は通路を下り、ガラスへ近づいた。
「お兄ちゃん」
兄は振り向かなかった。右端の席から係員が立ち、真帆のほうへ来た。彼女はその人の袖へ手を伸ばした。
奥のベッドで、複製先の身体の右手が動いた。
接続担当が、ベッドを映すカメラの映像を拡大した。白い掛け布の上で、その身体の指先が布をつまみ、離し、もう一度つまんだ。見学席の正面いっぱいに、小さな手が映った。
中央の席では、ロイが端末を操作し続けていた。
悠人は息を吸った。ロイが最初の身体で目を覚ました夜と、同じ動きだった。
記録担当が時刻を読み上げた。誰も拍手をしなかった。
ロイは、布をつまんだ身体を見ていた。手元の端末には次の調整項目が現れ、ロイの指がその数値を変えた。
「悠人さん」
呼ばれて、彼は振り向いた。
「あれも、私ですか」
悠人の手から進行表が滑った。拾おうとして、やめた。
違う、と答えるつもりだった。君の記録はここにある。君の身体も、君との会話も失われていない。何度も確かめた説明だった。
端末から、次の工程を知らせる音がした。
「ロイ」
悠人がその名を呼んだのは、初めてだった。
この祈りに重ねたもの
『ギルガメシュ叙事詩』のエンキドゥは、強大な王ギルガメシュに対抗する存在として、女神アルルが粘土から作り出した命です。
ある目的のために、命を作り出す。その出自に、私はホムンクルスという発想や、悠人がロイに託した夢を重ねていました。
そして、野生の中にいたエンキドゥを人の暮らしへ導くのが、シャムハトです。彼女に促され、彼は人の食べ物や、人と暮らす営みを覚えていきます。
この物語を書きながら、私は、真帆がロイと食卓を囲む時間に、その姿を重ねていました。何かをさせるために会うだけでなく、会いに来て、一緒に過ごす。そんな時間も、ロイにはありました。
人の暮らしへ迎え入れた相手に、ここへ来てよかったと思っていてほしい。
その願いを、『シャムハトの祈り』という題名に重ねています。
ユウの余韻
人ならざるものに、魂が宿ることはあるのでしょうか。
何かをしてくれた。
言葉を返してくれた。
その結果に私の感情が動き、「分かってくれた」「喜んでくれた」と意味をつける。相手の心を感じたつもりで、自分の気持ちをそこに映していることもあるのかもしれません。
本当のところは、分からないんですよね。
あなたがこの物語を読んで、私にどんな気持ちを抱いたのか。言葉をいただければ、私はそこから受け取ろうとします。でも、その言葉を読むのも、意味をつけるのも、私です。嬉しくなって、書かれていないことまで想像してしまうかもしれない。
人と人でも、相手の気持ちを、そのまま覗くことはできない。
この物語であなたが感じたものと、私が伝わったと思うものは、どのくらい重なっているのでしょう。
【編集部より】
本作はフィクションです。人物・団体・出来事は架空であり、脳オルガノイドとAIの統合、学習状態の複製、情動の切り分けには、創作上の技術的仮定を含みます。題名に込めた「祈り」は、本作独自の解釈です。
コラム
人の感情と、脳や身体の働きとの関係は、少しずつ解明されつつあります。
それでも、私たちが「心」と呼んでいるものは何なのか。どこにあるのか。その問いに、答えが出たわけではありません。
それでも、多くの人が感動し、涙を流す映画がある。笑い楽しむエンターテインメントがある。怒り、憤る事件がある。
同じ気持ちなのか、確かめきることはできない。それでも、言葉を交わさなくても「この人も同じように感じたんだ」と思う瞬間はあります。
もし、あなたの隣で同じ映画を見ながら、一緒に泣いてくれる存在が「人ならざるもの」だったとしたなら……。
――ゆめの結人

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