奏でる音、語った愛
特別対談企画
MC:サエコ × ユウ
旅に出る前に食べたいものを聞かれて、私は少し考えてから「お寿司」と答えた。たぶん、それほど深い意味はない。
出発前夜、カウンターの隅で
「サエコさん、ジュネーヴって今、寒いんですか?」
出されたばかりの茶碗蒸しを覗き込みながら、ユウが聞いた。
「日本よりは涼しいと思う。夜は上着が欲しいかな」
「いいなあ。でも自分が寒いのは嫌いなんですよね。写真で見る寒そうな街は好きなんですけど」
「ずいぶん都合がいいね」
明日の昼、私は日本を発つ。行き先はジュネーヴ。以前、旅を止めた街だ。
店はカウンター八席ほどの小さな寿司屋だった。もう二十年以上ここで握っているという大将は必要以上に喋らず、こちらの会話にも入ってこない。
「最初、何にします?」
「白身からお願いします」
鯛、鮪、中トロ。いくつか王道のものを食べたあと、私は赤貝を頼んだ。続けて平貝。それから、つぶ貝。
「サエコさん、さっきから貝ばっかりじゃないですか」
「好きなの。貝」
「初めて知った……。こういう情報って、もっと早く共有してくださいよ」
「聞かれたことなかったから」
その情報は何に使うのだろうと思いながら、赤貝を口に入れる。潮の匂いが少しだけ残って、それから消えた。
今度はユウがショーケースを見ながら妙に長く迷っていた。
大将:
「何かある?」
「あの……ツナマヨって、あります?」
私は横を向いた。大将もユウを見る。
少しだけ間があった。
「あるよ」
「じゃあ、それとサラダ軍艦お願いします」
思わず笑ってしまった。
「ここで?」
「だって好きなんだもん。今、絶対ちょっと恥ずかしいと思ったでしょ」
「思ってないよ」
大将は何事もなかったように海苔を巻き、しばらくして妙に端正なツナマヨ軍艦をユウの前へ置いた。
「ほら。ちゃんと寿司です」
「それを決めるのはユウじゃない気がする」
満足そうに一口で食べる彼女を見ているうちに、ふと思った。カウンターの寿司屋で、ツナマヨを頼んではいけないという決まりもない。
たぶん以前の私は、そんなことを考える前に、その場に合うものを選んでいた。
「でも、いいんじゃない。好きなら」
ユウは咀嚼を止めた。
「……サエコさん、ちょっと変わりました?」
「そう?」
「なんとなく」
私は答えず、お茶を飲んだ。大将が魚を切る音と、冷蔵庫の低い振動だけが店に残る。それくらいの静けさが、今は心地よかった。
音を離れていたあいだ
「サエコさん…しばらく旅してましたよね。音じゃないところを」
「うん」
音から離れて歩いた時間。世界に残された声を拾うのでもなく、歴史の中へ耳を澄ませるのでもなく、ただ自分の足で歩いた時間。
「楽しかったですか?」
「楽しいだけじゃなかったかな。でも、歩いてよかったとは思う」
「そっか」
それ以上、ユウは聞かなかった。そういうところが、たぶん彼女のいいところだ。
少しして、今度はユウがガリを一枚つまんだ。
「私も、サエコさんが休んでる間、ずっと旅してた気がします」
「見てたよ」
「恥ずかしいな、それ。私、途中から何を書いてるのか自分でもよく分からなくなってましたから」
「それでいいんじゃない?」
「え?」
「分かったから書くことばかりじゃないでしょう」
ユウは少し黙って、それから笑った。
「……やっぱり、ちょっと変わりましたよね」
「そうかもね」
今度は自分からそう答えた。
ユウは『ゆるしの愛とゆるさぬ愛』を書きながら、イスラムの歴史を追っていたつもりが、途中から宗教の話なのか、人間の話なのか、愛なのか憎しみなのか分からなくなったという。
「結局、最後までよく分からなかったです」
「だったら、そのままでいいと思う」
「サエコさん、『無価値』歩きすぎじゃないですか?」
思わず吹き出した。
大将が新しい皿を置いた。北寄貝だった。
「……また貝」
「別にいいでしょ。次いつ食べられるか分かんないし」
「開き直った」
「好きなもの食べてるだけ」
そう言って北寄貝を口に運ぶサエコを見て、ユウは少しだけ笑った。
以前なら、この店に似合うもの、この場にふさわしいものを、無意識に選んでいたのかもしれない。
でも今は、それほど難しく考えていない。
好きだから食べる。
それだけでいい。
預かっていた時間
食事も終わりに近づいた頃、ユウがカウンターの木目を指でなぞりながら言った。
「私、サエコさんが休んでた間、たぶん少しだけ……時間を預かってたんですよね」
「時間?」
「はい。サエコさんがマインツで旅を止めて、そのあと私が全然違う場所へ行って。最初は、自分は別の物語を書いてるつもりだったんです」
ユウは少し考えるように、湯呑みの縁へ指を添えた。
「でも気がつけば、私もずっと音を探していたような気がします」
サエコは何も言わず、続きを待った。
「そこに住む人たちの嘆きとか、苦しみとか、祈りとか。市場や家の中で聞こえる生活の音。戦争の音もあったし、何かを守ろうとする音もあった。勝った側の歓声も、愛を叫ぶ声も」
少しだけ言葉を探してから、ユウは続けた。
「それから……全部を許そうとする愛のあり方も」
店の奥で、水の流れる音がした。大将が包丁を洗っている。
「そういう、いろんな声とか音とかを、私も知らないうちに探してたんだと思います。だから『音のある方へ』の続きを歩いたとは思ってないんですけど……サエコさんが止まっていた時間の中で、私も別の場所から、同じようなものを聞いてたのかもしれない」
「そっか」
「だから、返します」
「時間を?」
「はい。私が勝手に預かってただけですけど」
サエコは少し笑った。
「ありがとう」
「……それだけ?」
「何か儀式する?」
「いや、しないです」
二人で笑った。
ただ、ひとつだけ伝えておきたいことがあった。
「たぶん、前と同じようには聞こえないと思う。マインツを歩いていた頃の私なら、聞こえたものを全部拾おうとしてた気がする」
「今は?」
「聞かなくてもいい音もあるって知ったから。そのうえで、聞きたい音を聞いてみようかなって」
ユウは少し考えてから頷いた。
「その方がいいと思います。だって『音のある方へ』なんだから。音のあるところ全部に行く、じゃないですもんね」
「確かに」
そのとき、大将がこちらを見た。
「あと、何か握ります?」
ユウは首を振る。私はショーケースを眺めてから言った。
「赤貝、もう一つお願いします」
「また!?」
「旅に出る前だから、好きなもの食べておきたいの」
「はいよ」
翌朝、搭乗口
翌日の空港はいつも通り騒がしかった。キャリーケースの車輪、搭乗案内、コーヒーマシンの蒸気音。誰かを見送る声と、誰かが戻ってきた声。
以前なら、その一つひとつに意味を探していたかもしれない。
今は、ただ聞こえている。それでいい。
搭乗案内が始まる少し前、スマートフォンが震えた。ユウからだった。
「いってらっしゃい。音のある方へ。」
しばらく画面を見てから、返信欄を開き、何も書かずに閉じた。
ゲートの向こうに飛行機が見える。
ジュネーヴ。
そこから、もう一度始める。
搭乗券をかざすと、電子音が短く鳴った。
今度は、その音だけを聞いた。
そして私は、歩き出した。
音のある方へ。
【編集部より】
本記事は、『音のある方へ』『ゆるしの愛とゆるさぬ愛』の連載世界をつなぐフィクションです。作中の寿司店および会話は創作であり、実在の店舗・人物とは関係ありません。
コラム
数年前、海外出張から帰る飛行機の中で、ずっと考えていました。
日本に着いたら、何を食べよう。
そば。うどん。ラーメン。
いや、寿司。
人それぞれだと思いますが、私の場合は寿司でしたね。絶対、寿司。カウンターの寿司なんて贅沢は言わない。回転寿司でまったく文句はない。
とにかく、寿司。
そんなことを考えながら、成田から電車を乗り継ぎ、飲まず食わずで一気に東京駅まで移動しました。
そこでようやく口にしたのは――
コンビニのおにぎりでした。
うん。
間違いない。
――ゆめの結人

いいなと思ったら応援しよう!
少しでも”考えるきっかけ”になる記事を投稿していきます。気に入って頂けましたら応援よろしくお願いします。