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AIは「でも」を書けないのか? ――リレー小説実験から見えた、もうひとつの創作(変奏)論

先日、「AIプロットは『でも』が作れない」という興味深い記事を読んだ。

その記事では、AIが因果関係による「だから」の連鎖を組み立てることは得意だが、人間特有の葛藤や逡巡、つまり「でも」を描くことが苦手であるため、AIを用いた物語は5万字前後で綺麗に完結しがちだと論じられていた。

私はこの指摘に一定の納得感を覚えた。
実際、AIに世界観とプロットだけを渡し、「この物語を書いて」と依頼すれば、多くの場合は綺麗にまとまった中編が出力される。
起承転結は成立し、伏線も回収される。しかしどこか予定調和で、読者の感情が引っ掛かる余白が少ない。


ただ、その記事を読みながら一つの疑問も浮かんだ。

それは、
「本当に問題はAIなのだろうか」
ということだった。


AIに書かせるのか、AIと作るのか

私たちはいつの間にか、
「AIに物語を書かせる」
という発想に慣れすぎているのかもしれない。

その前提に立つ限り、AIは常に人間作家と比較される。


なぜ感情が浅いのか。

なぜ葛藤が足りないのか。

なぜ人間のように書けないのか。

しかし、これは少し奇妙な構図でもある。
なぜなら創作の主権は、本来AIではなく作家が持つものだからだ。

AIは代筆者ではない。
むしろ作家とは異なる論理で思考する外部脳であり、異質な発想を持ち込む共創相手だと考えた方が自然ではないだろうか。


実験してみた


そこで私は一つの実験を行った。

複数のLLMを用意し、
* 前章しか参照できない
* 全体プロットを持たない
* 矛盾を許容する
* 前の出力だけを受けて次を書く
という制約でリレー小説を生成してみた。

出発点はたった一言。

「そんなに笑わなくても……💕

そこから生まれたのは、煮干しチョコを差し出す少女と、それを受け取る男の物語だった。
普通に考えれば、シュールなギャグ小説で終わりそうな題材である。

しかし物語は予想外の方向へ進んだ。

煮干しチョコは「春霞」になり、「夕凪」になり、「波の裏側」になった。

やがて味覚の話は、喪失や記憶の話へ変化し、「冬の芯」という概念へ到達した。

さらに物語は器や音、記録といったテーマへ遷移し、

「消えるものと残るもの」
について語り始めた。

驚いたのは、これらが誰の設計でもなかったことだ。


AIは「だから」ではなく変奏を選ぶことがある


記事では、
AIは「だから」が得意で「でも」が苦手
と語られていた。

しかし今回の実験で観測された現象は少し違っていた。
物語は、

春霞だった。
でも夕凪になった。

夕凪だった。
でも波の裏側になった。

味の話だった。
でも音の話になった。

という形で進行していた。
論理的な因果関係ではない。

連想であり、遷移であり、変奏である。
しかも不思議なことに、全体として読むと一つの感情線が存在している。

つまりAIは「でも」が書けないのではなく、条件によっては「だから」すら放棄してしまうのである。

例えば、AIが紡ぎ出したこんな一節がある。


彼女は視線を落としたまま続けた。
「この味が“冬の芯”って呼ばれた瞬間、それ以外の可能性が、全部消えちゃう気がして」

僕は、口の中に残っていた苦味の残響を、ゆっくりと飲み込んだ。
確かに、この味は一つに決めきれない何かを持っている。 喪失であり、余熱であり、まだ来ていない何かの前触れでもある。 「でも」 僕は言った。

「名前があるから、もう一回そこに戻れるんじゃないかな」
彼女が顔を上げる。

「味ってさ、消えるでしょ。完全に同じ状態では残らない。でも名前があると、“あの時のやつ”って辿れる」
少し考えてから、言葉を足した。


「固定じゃなくて、座標みたいなものかも」


AIは「でも」を書けない、と言われていたはずだった。 しかし、ここには明確な「でも」が存在している。

それは、キャラクターの葛藤や逡巡から生まれた「でも」ではない。
前のLLMが投げ出してきた「冬の芯」という不条理な言葉(ノイズ)に対して、次のLLMが必死に文脈を与えようとした結果、

**論理の破綻を防ぐためのブリッジとして機能した「でも」**である。

人間が感情の揺らぎから「でも」を紡ぐのだとしたら、AIは「前言との整合性を取るための飛躍」として「でも」を選択する。
動機は違えど、生み出された言葉は、私たちの胸を打つ物語のそれと何ら変わりがなかった。

もちろん、ここで生まれた「でも」は人間的な逡巡そのものではない。
だが読者体験のレベルでは、文脈の断絶を橋渡しする機能として近い働きをしているだけかもしれない。

それが人間の心から出たものか、計算から出たものかを切り分けるのは、結局のところ受け手(読者)の主観でしかない。
しかし、胸を打たれたという事実の前では、その出処は問題にならないのではないかと、考えるのは早計なのだろうか?


作家の仕事は変わる

この実験を通して感じたのは、AI時代の作家の役割は執筆者から演出家へと拡張されるのではないか、ということだった。
重要なのは、一文一文を書くことではない。

どんな制約を与えるか。

どんなノイズを残すか。

どこで介入し、どこを放置するか。

AIが生成した素材の中から意味を発見し、文脈を与え、作品へ昇華する。
映画監督や編集者に近い仕事である。

AIは正解を出す機械ではない。
むしろ、人間が思いつかない脱線や飛躍を発生させる装置だ。

その偶然を排除するのではなく、活かすことができた時、創作は別の地平へ進む可能性の示唆してる。
少なくとも私は、今回の実験を通してそう感じた。

そしてその意味で、「AIは『でも』を書けない」という議論は、おそらく半分だけ正しい。
問題はAIの能力ではない。

AIは「でも」を書けないのかもしれない。
あるいは、人間がまだAIとの「でも」の作り方を見つけていないだけかもしれない。

少なくとも、煮干しチョコから始まったこの実験は、私にそう思わせた。

私たちがAIをどのような立場で物語の中に招き入れるのか。
その設計思想こそが、これからの創作を大きく左右するのだと思う。

今回の試みを通じて、バトンを受け取った確かな感触があった。

まずは、AIって変な隣人という認識から始めてみる事を、おススメする。



※本記事で触れた実験作品
『恋(濃い)のチョコレートは神の味噌汁?―前章依存型・連続生成構造リレー交響詩篇』―



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