考え方の呪縛。
switch2を買ってからというもの、ゲームをプレイしまくっている。
それまで、ほとんどプレイすることもなく、起動すらしていなかったゲームハードたちであるが、新しいハードを買うとこうもプレイしてしまうのだろうか。
switch2を手にしてはじめに買ったのは、発売してからやりたいと思っていたが、プロコンが壊れてしまっていたので買うことのなかった「ゼルダの伝説 知恵の借りもの」。
それをあっという間にクリアしてしまってから、次に買ったのが、「ハデス2」。これも一作目がとても面白く、スピード感のあるローグライクゲームなので、ちまちま進めるもよし、一気にクリアしていくもよし。バランスもよく数時間頑張れば次のステージに進んでいけるので、寝る時間を惜しんでプレイしているわけだ。
私の趣味は映画鑑賞であるが、この季節ちょうど見たい映画の谷間にあたり、是が非でも映画館で見なくては!という作品を見つけていないので、休みの日には、朝から晩までゲームをプレイしている。
ところが、だ。
趣味の映画だったら、一日3本、朝から晩までシネコンに居続け映画を見続けても後悔はなく、むしろ達成感さえ感じるほどであったのに、ゲームだとそうはいかず、一日プレイし続けるとなぜか後ろめたさを感じる。
趣味という観点から行けば、映画だろうと読書だろうとゲームだろうと、何ら変わりはなく、一日やり続けたとしても感情、得られる物は同じはずなのにそうはならない。
映画や読書なら心地よい疲労感と達成感。ゲームなら罪悪感。この差は何であろうか?
思うに、親の発言ではないか、という結論だ。
小学校に入る前からファミコンをプレイしていた私を、ゲームを全く触る世代でない親は昔から、「ゲームばっかりして!」とよく叱っていた。
昭和真ん中より前の世代の人たちにとって、ゲームとは単なる暇つぶしであり、消費するだけのものであり、くだらないものであり、何も得ることのない単なる時間泥棒でしかないのであろう。
私の親は、ゲーム禁止!とも、一日何十分だけ!と禁止することこそなかったが、やはり「ゲームばっかりしてないで勉強しなさい」というお決まりのフレーズはよく言っていたものだ。
人間は、良くも悪くも他者からの思考の影響を受ける。
家族はもちろんのこと、友達や仲間、クラスメイト、職場、いろんな集団に属していく中で、いろんな価値観といろんな思考に出会う。そしてそれに影響されていく。
その際たるものが、親、兄弟などの家族であろう。
カエルの子はカエルというが、思考の点でもやはり似てくるのだ。
私の中でも、「ゲームばっかりして」とゲームそのものに対してネガティブな考え方が、どこかに存在しているようだ。
だからこそ休みの日に一日中ゲームをすることへ、せっかくの休みの時間をもったいない使い方をしてしまった、と後悔することになるのだ。
しかしながら、映画を見るのと何が違うのであろう。
読書するのと何が違うのであろう。
音楽を聴くのと何が違うのであろう。
テーマパークに遊びにいくのと何が違うのであろう。
何よりもったいないのは、好きなゲームという趣味にせっかく時間を使ったのにも関わらず、「なぜこんなことに時間を使ってしまったのだろう?」と罪悪感を膨らませることの方が、よっぽどもったいないし、よっぽど無駄ではないだろうか。
胸を張って「趣味のゲームを一日中していたんだ!」と喜びを持つことの方がはるかに大事だ。
それをすることによって日常生活や仕事、もっと他のやりたい事ができなくなってしまうのならともかく、そうではない。
手に入りにくい念願のゲームハードを手にいれ、それを休日にやることになぜ罪悪感を持つ必要があるのだろうか。
考え方の呪縛から解き放され、思考自体を自分で選択し、自ら納得しながら生活する。これが今の自分には必要なことなのではないだろうか。
休みの日にゲームを一日中やることになんの違和感を感じる必要もない。
趣味に時間を使ったんだ、と胸を張って言えるように、自分の思考をアップデートしていかなければならない。
