中編小説|遺された鍵
第一章 父の影
兄から渡された鍵は、思っていたより軽かった。
父の十三回忌は、雨の降りそうで降らない、湿った昼に行われた。
寺の本堂に座っているあいだ、俺は正座を崩す機会ばかり探していた。
膝の内側にしびれがたまり、脛のあたりからじわじわと血が遠のいていく。
その感覚は、子供の頃、父の書斎の前に座らされていた時間に似ていた。
何かを叱られる前、あるいは叱られた後、俺はいつも板の間に膝をそろえていた。
父は椅子に座り、俺を見下ろした。
あの角度だけは、何年たっても体が覚えている。
読経の声は、ありがたみよりも埃の匂いを運んできた。
古い木の柱、線香、畳に染みた湿気。
親族たちは目を閉じたり、数珠をいじったりしていた。
兄だけが、姿勢よく、まるで法廷で相手の話を聞いているように座っていた。
兄は弁護士になった。
妻がいて、子供が二人いる。
家を建て、車を買い、父の知人たちが安心して口にできる種類の成功を、ひとつずつ着実に手に入れてきた男だった。
俺は四十五歳になっていた。
地方の建設会社で総務部の係長をしている。
係長という肩書きは、責任を背負うには軽く、逃げるには重い。
社員数二百名ほどの非上場会社で、俺は勤怠表の確認、備品の発注、労災書類の下書き、忘年会の店の予約などをしている。
現場の人間には事務屋と呼ばれ、経営陣には古株と呼ばれ、若い社員には名前を覚えられるほどの存在感もない。
結婚歴はない。
人に説明するときは、縁がなかった、と笑うことにしている。
縁など、そもそも求めたことがあったのか、自分でもよくわからない。
法事の後、近くの料理屋に移った。
父が生きていた頃から使っていた店で、座敷の床の間には季節外れの椿の掛け軸があった。
年寄りたちは、酒が入ると急に元気になった。
父の話が出る。
大手商社で重役まで務めた立派な人。
厳しかったが筋が通っていた人。
男として見習うべき人。
そういう言葉が、刺身の皿や茶碗蒸しの湯気の上を、何度も往復した。
「お兄ちゃんは、ほんま立派になったなあ」
伯母が兄の肩を叩いた。
「お父さんも、安心してはるわ」
兄は少し困ったように笑い、いやいや、と言った。
その控えめな仕草まで、成功した人間のものに見えた。
俺は猪口に残った酒を飲み干し、笑ってみせた。
「兄貴は昔から出来が違いましたから」
俺はその笑いの中に、かすかな安堵を見た。
俺が自分で自分を下げておけば、誰も俺を正面から扱わずにすむ。
俺は笑った。
場も笑った。
兄は俺を見た。
「お前も、会社で長いんやろ。総務は大変や」
「まあ、誰でもできる仕事や」
俺が言うと、兄はそれ以上、何も言わなかった。
言わない優しさというものがある。
酒を飲みながら、俺は父の声を思い出していた。
お前はなぜ兄さんの半分もできんのや。
同じ家に生まれて、どうしてここまで違う。
母親が早く死んだからといって、それを言い訳にするな。
父は、怒鳴るときも決して取り乱さなかった。
声の底に、相手を人間として勘定に入れていない冷たさがあった。
俺はそれが憎かった。
だが同時に、その冷たさに選ばれたいとも思っていたのかもしれない。
そう書けば、あまりに整いすぎている。
実際には、ただ胸の奥が熱くなり、喉が詰まり、何かを投げつけたくなるだけだった。
宴席が終わる頃、兄が近づいてきた。
「実家のことやけど」
兄は声を落とした。
「そろそろ整理せなあかん。親父のものはだいぶ片づけたけど、真理子さんの部屋がそのままや」
真理子さん。
その名前を聞いた瞬間、座敷のざわめきが少し遠のいた。
俺は猪口を置き、指先で畳の目をなぞった。
「まだ残ってるんか」
「鍵がかかってた部屋や。親父が死んでからも、誰もちゃんと見てへん。お前、時間あるなら見てくれへんか。俺は仕事が詰まってるし、妻もあの家にはあまり入りたがらん」
兄は、あくまで事務的に言った。
真理子の死について、兄は何も知らない。
知らないから、そんなふうに言える。
あるいは、知っていても知らないふりをしてやり過ごせるほど、彼は大人なのかもしれなかった。
「ええよ」
俺は軽く答えた。
「俺がやっとく」
「助かる」
兄はそう言って、財布から実家の鍵を出した。
だが俺は、その鍵を見た瞬間、別の鍵を思い出していた。
真理子が細い指で握っていた、小さな真鍮色の鍵。
父のいない昼下がり、俺にだけ渡された、あの部屋の鍵。
兄の手から鍵を受け取ると、金属の冷たさが掌に残った。
法事の帰り道、俺は駅前のコンビニで缶ビールを二本買った。
実家に寄るつもりだったが、足はまっすぐアパートに向いた。
薄汚れた階段を上り、ワンルームのドアを開ける。
部屋には、昨日脱いだシャツと、吸い殻の入った空き缶と、洗っていない茶碗があった。
俺はスーツの上着を床に落とし、ネクタイを緩めた。
テレビをつけると、芸人が大きな声で笑っていた。
誰かが粉まみれになり、スタジオ中が笑った。
俺も少しだけ笑った。
思ったより声が出て、自分で驚いた。
その笑いはすぐに途切れた。
冷蔵庫の上に、兄から受け取った鍵を置いた。
銀色の鍵は、安い蛍光灯の下でただの金属片に見えた。
だが、その横にもうひとつ、小さな古い鍵があるような気がした。
もちろん、そんなものはなかった。
俺は缶ビールを開けた。
泡が指に纏わりついた。
舐め取ると、苦かった。
第二章 新しい母
俺が三歳の時、母は死んだ。
母の声を覚えている、と言ったことがある。
小学校の作文だった。
母はやさしい声で、僕の名前を呼んでくれました、と書いた。
担任は赤いペンで「よく書けています」と丸をつけた。
父はそれを読み、何も言わなかった。
兄はその時、もう母の顔をはっきり覚えていた。
俺は写真でしか知らなかった。
母の記憶は、俺のものではなく、家の中に置かれていたものを勝手に自分の中へ移しただけだった。
父が再婚したのは、俺が十二歳の時だった。
真理子は若かった。
父より十五歳ほど下で、喪服の似合いそうな白い顔をしていた。
初めて家に来た日、彼女は薄い水色のワンピースを着ていた。
玄関に立ち、少し頭を下げて、「今日からよろしくね」と言った。
その声は小さかったが、聞き返す必要はなかった。
家の中の空気が、彼女の声だけを通すように静かになったからだ。
父は紹介を済ませると、すぐに書斎へ入った。
兄は礼儀正しく挨拶し、塾へ行った。
俺だけが玄関に残された。
「靴、そこに置いたら踏まれるよ」
真理子が言った。
俺は慌てて靴をそろえた。
「えらいね」
ただそれだけだった。
たぶん、彼女にとっては何気ない言葉だった。
だがその時の俺は、誰かに褒められることに慣れていなかった。
えらい、という二音は、胃の腑に落ちて、そのまま熱を持った。
最初の頃、俺は本気で母を求めていたのだと思う。
学校から帰ると、台所に真理子がいる。
包丁がまな板を叩く音。
味噌汁の匂い。
洗濯機の回る低い音。
そういうものが家の中に増えた。
父の家は、それまで乾いた箱のようだった。
そこへ、湯気や匂いや、小さな失敗が入り込んだ。
真理子は料理があまり上手くなかった。
初めて作った肉じゃがは、じゃがいもが煮崩れて、ほとんど汁になっていた。
父は箸をつけ、眉をひそめた。
「味がぼやけてる」
真理子は笑って、
「すみません」
と言った。
俺は急いで口に運んだ。
「うまい」
父が俺を見た。
「お前の舌は当てにならん」
兄は黙って食べていた。
一瞬だけ真理子を見た。
何か言いかけたようにも見えた。
だが結局、魚の身を箸でほぐし、そのまま黙って食べた。
真理子は、俺の茶碗に少しだけ多く肉を入れた。
父は新聞を広げていたので、それに気づかなかった。
そういう小さなことが、俺には大きかった。
父は相変わらず兄を褒めた。
兄の模試の結果、読書感想文の賞、英語の発音、姿勢の良さ。
俺については、注意すべきことだけが言葉になった。
字が汚い。
返事が遅い。
箸の持ち方が悪い。
質問にすぐ答えられない。
真理子はその場にいる時、俺をかばうことはしなかった。
ただ、父が席を立った後、流し台の前で俺の頭を一度だけ撫でることがあった。
撫でられるのは嫌ではなかった。
嫌ではないどころか、その手が離れるのが惜しかった。
だが俺は、平気な顔をした。
そういう時だけ、子供のくせに大人ぶった。
真理子もまた、家の中で居場所を探していた。
父は外では立派な夫だった。
親戚の前では真理子を立て、知人の前では
「若い妻をもらって苦労している」
と冗談を言った。
だが家では、真理子の話をほとんど聞かなかった。
彼女が昼間に見たテレビの話をしようとすると、
「くだらん」
と言った。
買い物で迷った話をすると、
「要領が悪い」
と言った。
真理子は笑って受け流した。
その笑い方は、肩のあたりだけが先に折れる。
一度だけ、父の違う顔を見たことがある。
夜中に水を飲みに下りると、居間の灯りがついていた。
父は食卓に座り、古い菓子缶から母の写真を出していた。
写真の端を親指でゆっくり撫で、何かを言いかけて、やめた。
俺が立っていることに気づくと、父は写真を缶に戻し、蓋をした。
「見たんか」
声は怒っていなかった。
むしろ、少し濡れていた。
次の瞬間、父はいつもの顔に戻り、
「明日も学校やろ。寝ろ」
と言った。
翌朝、その菓子缶は書斎から消えていた。
父にも柔らかい場所があるのだと、その時だけ思った。
だが、それは陳腐な自己満足にしか見えなかった。
ある日、父が出張でいなかった夜、真理子はカレーを作った。
じゃがいもは相変わらず角を失っていたが、肉だけは大きかった。
「今日、お父さんいないから」
彼女はそう言って、皿に山のように盛った。
「こんなに食えへん」
「若いんだから食べなさい」
「おばはんみたいなこと言うな」
俺が言うと、真理子は目を丸くした後、吹き出した。
「おばはんって。ひどいなあ」
その笑い声は、なぜか俺の鼓動を大きくした。
二人で台所の小さなテーブルに向かい合い、テレビの野球中継をつけた。
真理子は野球のルールをほとんど知らなかったのに、阪神が凡退するたびに「ああ、もう」と本気で悔しがった。
「今の、走ったら間に合ったんちゃうの」
「今のは無理や」
「なんで。あの人、仕事やる気あるの」
俺は腹を抱えて笑った。
その夜のことは、なぜかよく覚えている。
カレーの皿にスプーンが当たる音。
真理子が口の端にルーをつけたまま怒っている顔。
食後に二人で食べた安いプリン。
彼女が蓋の裏についたカラメルを、子供みたいにスプーンでこそげ取ったこと。
少なくともその時だけは、家の中に父はいなかった。
父が帰ってくると、真理子はまた静かになった。
俺はその変化を見ていた。
見て、何もしなかった。
ただ、父のいない夜だけを待つようになった。
真理子もそれを知っていた。
金曜の夕方、父の出張が決まると、彼女は冷蔵庫に小さな紙を貼った。
「カレー」
ただそれだけ。
俺は学校から帰ると、その紙を見る。
ランドセルを置く前に見る。
字は丸く、少し右に傾いていた。
俺はその紙を捨てずに、机の引き出しにしまった。
何枚も溜まった。
カレー、ハンバーグ、焼きそば、プリンあり。
最後のだけは今でも思い出すと、少し笑ってしまう。
最初から地獄なら、人はそこを地獄と呼べる。
湯気の立つ皿があり、どうでもいい野球の負けに二人で腹を立て、食後のプリンを分け合う夜があると、名前をつけるのが難しくなる。
第三章 境界線
高校一年の六月。
雨がいつまでも地面を叩いていた。
制服の裾がいつも湿っていた。
教室の窓は白く曇り、体育館の床は乾いたところと濡れたところがまだらになっていた。
俺は相変わらず成績が悪く、担任からは「もう少し危機感を持て」と言われていた。
危機感なら毎日あった。
ただそれは、数学の点数ではなく、家に帰った時の父の機嫌に向けられていた。
兄は大学に進み、家を出ていた。
父はそれを誇らしげに語った。
うちの長男はようやく本物の勉強を始めた。
あいつは先がある。
俺は食卓で箸を動かしながら、皿の上の焼き魚の骨を見ていた。
骨はきれいに残せ、と父は昔から言った。
食べ方にも人間の品性が出る。
俺は魚を食べるのが下手だった。
どうしても身が残った。
その夜、父と真理子は喧嘩をした。
原因はわからない。
真理子が何かを買い忘れたのか、父のワイシャツに皺があったのか、親戚への礼状の文面が気に入らなかったのか。
父の怒りには、いつもそれらしい理由がついていたが、本当は理由など何でもよかったのだと思う。
低い声が居間から聞こえ、時折、真理子の短い返事が混じった。
俺は二階の部屋で教科書を開いていた。
文字はひとつも入ってこなかった。
雨が窓を叩いていた。
しばらくして、階段を上がる音がした。
父ではない。
足音が軽く、途中で一度止まった。
俺は椅子に座ったまま息を止めた。
ノックはなかった。
真理子が扉を開けた。
彼女は笑っていなかった。
髪が少し乱れて、頬のあたりが赤かった。
殴られたわけではない。
泣いた後の顔だった。
「起きてたの」
「勉強」
俺は開いた教科書を指差した。
真理子は机の上を見て、何も言わなかった。
部屋の中に雨の匂いが入った。
彼女は扉を閉めず、半分だけ開けたまま立っていた。
廊下の暗さが、その背中に貼りついていた。
「お父さん、寝たん?」
「たぶん」
「また怒られたんか」
真理子は首を振った。
俺は立ち上がった。
立ち上がってから、何をするつもりだったのかわからなくなった。
真理子が俺の机の上に置かれた紙を見た。
父の出張日に貼られていた、古いメモだった。
カレー。
紙は端が少し黄ばんでいた。
「まだ持ってたの」
彼女は小さく笑った。
「捨てる理由ないし」
「変な子」
彼女はそう言って、俺の頭に手を置いた。
昔と同じ仕草だった。
だが俺はもう十二歳ではなかった。
彼女の手の重さも、指先の温度も、前とは違っていた。
雨の音が強くなった。
父が一階で咳をした。
真理子の手が一瞬だけ止まった。
俺はその手をつかんだ。
力は入れていないつもりだった。
だが彼女は動かなかった。
兄がいた頃なら、こんな夜は階段を上がってきたかもしれない。
いや、来なかったかもしれない。
兄は昔から、家の中で起きることを見ないのが上手かった。
何かを言うべきだったのかもしれない。
言葉は、喉まで来て、そのまま沈んだ。
真理子も何も言わなかった。
扉は半分開いたままだった。
廊下の暗さが、少しずつ部屋に入ってきた。
その夜、境界線は大きな音を立てて壊れたわけではなかった。
誰かが叫んだわけでも、何かが割れたわけでもない。
ただ、置き場所を間違えた鍵のように、あるべきものが少しだけ違う場所に置かれた。
その少しのずれを、俺たちは翌朝も、翌週も、翌年も、元に戻さなかった。
翌朝、食卓に味噌汁が出た。
父は新聞を読んでいた。
真理子は台所に立っていた。
俺は椅子に座り、手を合わせた。
味噌汁の中には、豆腐とわかめが入っていた。
何も変わっていないように見えた。
父が言った。
「醤油」
真理子は返事をしなかった。
父がもう一度、少し強い声で言った。
「醤油」
真理子は食卓へ来て、醤油差しを父の前に置いた。
その後、俺の湯飲みにだけ茶を足した。
父は新聞から目を上げなかった。
俺は湯飲みを見ていた。
茶の表面がわずかに揺れていた。
そこに映る蛍光灯に、父の顔が滲んで見えた。
その時、俺は何かに勝ったと思った。
何に、とは言えない。
言えば壊れる気がした。
ただ胸の奥で、暗いものがゆっくりと膨らんだ。
うれしいのか、怖いのか、わからなかった。
わからないまま、俺は茶を飲んだ。
熱くて舌を焼いた。
真理子は、流し台の前で黙って茶碗を洗っていた。
肩がいつもより少し丸かった。
その背中を見ながら、俺は初めて、父の家の中に隠し部屋ができたような気がした。
そこには父だけが入れなかった。
俺と真理子だけが、鍵の場所を知っていた。
俺は、そこが避難場所か牢屋なのか、わからないふりをしていた。
第四章 幸福の形
それから数年、父の家は表向き何も変わらなかった。
父は商社で役職を上げ、兄は司法試験の勉強に入り、俺は偏差値表の下の方にある大学へ進んだ。
父は入学金を払ってくれたが、祝いの言葉はなかった。
「遊びに行くようなもんやな」
入学式の朝、父はそう言った。
俺はネクタイを締めながら、鏡の中の自分を見た。
スーツは体に合っていなかった。
肩が余り、袖が少し長かった。
真理子は玄関で靴べらを持っていた。
「似合ってるよ」
父に聞こえないような声だった。
俺は返事をしなかった。
大学生活は、思っていたより薄かった。
講義に出たり出なかったりし、駅前の居酒屋でバイトをし、同じように目的のない友人たちと酒を飲んだ。
女の子と付き合ったこともある。
だが相手が近づいてくると、どこかで面倒になった。
相手の話を聞くふりをしながら、別のことを考えていた。
俺は誰かの恋人になるより、誰かの秘密でいる方が楽だった。
真理子との時間は続いた。
父の出張の日。
午後の早い時間。
兄が帰省しない週末。
そういう隙間に、俺は実家へ帰った。
玄関を開けると、靴箱の上に花が飾られていることがあった。
名前のわからない安い花だった。
真理子は「スーパーで二百円やった」と言った。
俺は「すぐ枯れるで」と言った。
彼女は「枯れるからええねんやん」と言った。
俺は、彼女の額に刻まれた皺を、じっと見つめていた。
金曜の夜には、相変わらずカレーが出た。
大学生になった俺は、昔ほど食べられなくなっていたが、真理子はいつも作りすぎた。
「また多いわ」
「明日も食べたらいい」
「明日おらんし」
「冷凍する」
「冷凍庫、カレーだらけやん」
真理子は笑った。
ある日、昼過ぎに実家へ行くと、靴が一足多かった。
知らないパンプスだった。
細くて、ヒールが少し高い。
玄関に置かれている位置が、妙によそよそしかった。
居間から声が聞こえた。
女の声だった。
俺は立ったまま、しばらく動かなかった。
笑い声がした。
真理子の声だったが、家で聞くのとは少し違っていた。
高くて、軽かった。
ドアが開き、見知らぬ女が出てきた。
俺を見ると、軽く会釈をして、足早に玄関を出ていった。
「一緒にパートせえへんかって誘われてん」
「したらええやん」
「断った」
「なんで」
「別に」
それ以上は説明しなかった。
本当は働きに出た方がええと思った。
でも真理子が外へ出たら、俺の知らん時間が増える気がした。
ある夜、二人で深夜のファミレスに行った。
父は地方の支社を回る出張で、翌日の夜まで帰らなかった。
雨は上がったばかりで、道路に街灯が滲んでいた。
真理子は薄いベージュのコートを着て、髪を後ろで結んでいた。
俺は自転車で二人乗りをして行こうと言ったが、彼女は「歩きたい」と言った。
ファミレスは客が少なく、奥の席で高校生らしい男女がドリンクバーの前を行ったり来たりしていた。
真理子はメニューを長い時間見て、結局プリンアラモードを頼んだ。
「こんな時間に甘いもの食べたら太るで」
「もう太っても誰も困らへん」
「俺が困る」
「ほんまに?」
彼女の額に皺が浮かぶ。
俺も笑った。
運ばれてきたプリンには、缶詰のさくらんぼが乗っていた。
真理子はそれを最後まで残し、スプーンの上に載せて俺に見せた。
「これ、いつ食べるんが正解なんやろ」
「最初ちゃう」
「最初に食べたら、楽しみなくなるやん」
「最後まで残したら、皿の上で浮くやん」
「人生みたいやな」
真理子はそう言って、自分で吹き出した。
「何がや」
「知らん」
彼女は皿の端に寄ったクリームを指でなぞり、少しだけ考えるように黙った。
「なあ」
「ん?」
「離婚したら楽なんかな」
彼女はすぐに笑って、その話を流そうとした。
「急に何やねん」
「別に」
真理子は笑った。
「したかったらしたらええやん」
「そうやな」
真理子は残していたさくらんぼを口に入れた。
離婚されたら困ると思った。
真理子のためやない。
俺の居場所がなくなる。
店内の白い照明の下で、彼女の目尻の小さな皺が見えた。
俺はそれを見ないふりをした。
帰り道、真理子はコンビニの前に置かれたガチャガチャを見つけた。
小さなプラスチックの猫が出るものだった。
「一回だけ」
「子供か」
「いいやん」
彼女は百円玉を入れた。
出てきたのは、灰色の猫だった。
「はずれや」
「はずれって言わへん」
真理子は猫を掌に乗せて、真剣に眺めた。
「この子、顔が悪い」
「お前が言うな」
俺が言うと、彼女は腹を抱えて笑った。
笑いすぎて、道端でしゃがみ込んだ。
俺は少し離れて立っていた。
誰かに見られたら困ると思った。
それでも、彼女が笑い終わるのを待っていた。
白い皿、安いプリン、顔の悪い猫、雨上がりの道。
真理子は時々、「あなたしかわかってくれへん」と言った。
俺はその言葉が好きだった。
言葉そのものより、その言葉を言わせている自分が好きだった。
彼女が俺にしがみつくほど、俺は父の家の中で背が高くなった気がした。
父は何も知らず、夕食の席で真理子に塩加減を注意した。
その夜、真理子は父の湯飲みには茶を足さず、俺の皿にだけ肉を多く入れた。
俺は黙って食べた。
兄が司法試験に合格した時、父は珍しく上等な酒を開けた。
親戚が集まり、兄は照れたように笑った。
俺はその場にいた。
父は兄の肩に手を置き、「ようやった」と言った。
その言葉を聞いた瞬間、俺は心の中で舌を打った。
その夜、父が酔って寝た後、俺は台所に立つ真理子の背中を見ていた。
彼女は祝宴の皿を洗っていた。
シンクには油の浮いた水が溜まり、スポンジは泡だらけだった。
「兄貴、すごいな」
俺は言った。
真理子は皿を洗う手を止めなかった。
「うん」
「親父、うれしそうやった」
「うん」
「俺には、あんな顔せえへん」
真理子は蛇口を止めた。
水の音が消えると、家の中が急に静かになった。
彼女は振り返らずに言った。
「あなたは、あなたでいい」
真理子はそう言って、水を止めた。
シンクに、まだ泡が残っていた。
俺は真理子の背中に近づいた。
彼女は動かなかった。
濡れた皿から水滴が落ち、シンクの底で小さく跳ねた。
静かな時間が過ぎた。
俺はあの時、兄の合格を祝う家の中で、父の妻の沈黙を自分のものにしたかった。
ただ覚えているのは、洗いかけの皿が翌朝までシンクに残っていたことだ。
父は朝、それを見て舌打ちした。
真理子は「すみません」と言った。
俺は食パンにバターを塗っていた。
ナイフの先に黄色い塊がつきすぎて、パンの表面に穴が空いた。
第五章 腐敗
大学を出た俺は、地元の建設会社に入った。
父は入社先の名前を聞き、少しだけ眉を上げた。
「建設か」
それだけだった。
大手ではない。
上場もしていない。
だが地元では古く、役所の仕事も多かった。
父は不満を言わなかった。
不満を言うほどの期待が、もう俺には残っていなかったのだろう。
会社は古い書庫の匂いがする場所だった。
社長は朝礼のたびに「地域に根差したものづくり」と言った。
誰も聞いていなかった。
俺は仕事ができなかったわけではない。
だが、抜きんでる才能もなかった。
急ぎの仕事ほど後回しにし、確認すべきものほど机の端に置いた。
ミスが起きると、たいてい誰かが直してくれた。
俺はそのたびに頭を下げ、反省した顔をした。
その顔には自信があった。
酒と博打を覚えた。
風俗にも行った。
カードの支払いが増え、消費者金融の封筒が部屋に届いた。
俺は封筒を開けずに引き出しへ入れた。
開けなければ、金額は増えない気がした。
真理子との関係は続いていた。
彼女は少しずつ老いていった。
化粧が濃くなり、笑うと首の皮膚に細い線が入った。
俺はそれを見ないようにした。
それでも、父のいない時間に俺は実家へ行った。
真理子は相変わらず作りすぎたカレーを出した。
俺は文句を言いながら食べた。
彼女は俺の吸う煙草の銘柄を覚え、冷蔵庫に缶ビールを冷やしておいた。
俺が来ない日にも、冷やしていた。
ある年の秋、会社で大きなミスをした。
入札書類の期限変更を見落とした。
通知の紙は、机の上で別の書類に紛れていた。
締切の翌朝、営業課長の怒鳴り声が総務部まで響いた。
「誰が止めてたんや!」
会議室に呼ばれた。
社長、営業部長、工事部長、総務部長がいた。
テーブルの上には、提出されなかった書類の束が置かれていた。
俺はそれを見て、最初に思った。
紙が多いな。
自分でも妙に冷静だった。
いや、冷静だったのではない。
現実が自分のものになるまで、少し時間がかかっただけだ。
「お前、確認したんか」
総務部長が言った。
「申し訳ありません」
「申し訳ありませんちゃうやろ。これ、いくらの仕事やと思ってんねん」
工事部長が机を叩いた。
灰皿が跳ねた。
社長は最後まで大きな声を出さなかった。
「君は、何を見て仕事してるんや」
その言い方が、父に似ていた。
処分は減給三ヶ月だった。
係長のままだったが、担当業務は減らされた。
机の周りの空気が変わった。
誰も俺を責め続けなかった。
その代わり、急ぎの書類は俺の机を通らなくなった。
会議の案内から俺の名前が抜けた。
若い社員が、俺を見てから少し声を小さくするようになった。
その頃、営業事務の森脇沙希に執着していた。
森脇は、よく笑う女だった。
俺だけにではない。
営業にも、現場にも、掃除のおばちゃんにも同じように笑った。
それなのに、俺は何度かその笑顔を思い出した。
昼休みに弁当を食いながら。
帰りのコンビニで缶ビールを選びながら。
別に好きだったわけではない。
ただ、あの笑顔の中では、まだ俺も普通の人間に見えている気がした。
「お疲れさまです」
廊下ですれ違うたび、そう言った。
俺は食事に誘った。
森脇は少し驚いた顔をしたが、断らなかった。
その夜、酒を飲みながらメッセージを送った。
「今度、飯でもどう」
返信は翌朝だった。
「すみません、しばらく忙しくて」
俺はもう一度送った。
「いつでもええよ。愚痴くらい聞くし」
既読がついたまま、返事はなかった。
数日後、給湯室の前で森脇と会った。
森脇が困ったように笑った。
その笑い方に、どこか見覚えがあった。
「俺、嫌われた?」
だが彼女の顔から笑いが消えた。
「そういうの、困ります」
声は小さかったが、はっきりしていた。
「仕事中ですし」
彼女は頭を下げ、俺の横を通り過ぎた。
給湯室のポットが湯を沸かす音だけが残った。
その午後、総務部長に呼ばれた。
「森脇さんに、個人的な連絡したんか」
俺はすぐに否定しようとして、スマホの画面を思い出した。
否定できないものが、薄い板の中に残っている。
「食事に誘っただけです」
「だけ、やない。相手が困っとる」
「別に、変なことは」
「その言い方がもう変なんや」
総務部長は疲れた顔をしていた。
怒る価値もない、という顔だった。
「そういうの、困ります」
困っているようには見えなかった。
ただ、そう言うことに慣れている顔に見えた。
その言葉は何日か残った。
腹が立った。
断られたことではない。
困ります、と言われたことだった。
俺に向けた笑顔は何だったんだ。
その言い方がもう変なんや。
総務部長の声だけが残った。
その夜、俺は実家へ行った。
「若い子は、わからん」
真理子の手が止まった。
「何が」
「普通に飯誘っただけで、被害者みたいな顔する」
彼女は鍋を見たまま、何も言わなかった。
「俺が悪いんか」
沈黙があった。
その沈黙に、俺は腹が立った。
「お前もそう思ってるんか」
「思ってない」
「じゃあ何か言えよ」
真理子は振り返った。
顔に疲れが出ていた。
昔なら、その疲れをかわいそうだと思ったかもしれない。
今は違った。
俺はその疲れさえ、自分を責めるために置かれたもののように感じた。
「ごはん、温っためるね」
彼女はそう言った。
俺は缶ビールを畳に置いた。
少しこぼれた。
真理子は布巾を取りに行った。
俺はその布巾を彼女の手から奪い、自分で畳を拭いた。
拭く手が早くなる。
その理由が俺にはわからなかった。
その夜、俺は遅くまで居間にいた。
真理子は隣の部屋で布団を敷いた。
父の寝室ではなかった。
俺はそれを見て、何も言わなかった。
翌朝、会社へ行く前に鏡を見た。
目の下が黒かった。
そう思った瞬間、森脇の顔が浮かんだ。
困ります、と言った時の、硬い口元。
俺は洗面台の水を出した。
水はなかなか冷たくならなかった。
第六章 遺書のない死
真理子がいなくなったのは、冬の始まりだった。
最初に気づいたのは父だった。
朝、台所に立つはずの真理子がいなかった。
味噌汁も、新聞も、父の薬も用意されていなかった。
父は自分で薬の袋を探し、見つけられず、俺に電話をかけてきた。
「真理子を知らんか」
その声には怒りがあった。
「知らん」
「昨日、家に来たか」
「行ってへん」
嘘だった。
前日の夜、俺は実家に行っていた。
父は会合で遅くなる予定だった。
真理子は鍋焼きうどんを作っていた。
俺はそれを少し食べ、残した。
「もう冷めてる」
俺が言うと、真理子は黙って鍋を下げた。
真理子は鍋を火にかけたまま、ふいに手を止めた。
蓋を閉めるでもなく、火を弱めるでもなく、ただ一度、台所の時計を見た。
その夜、彼女は珍しく俺に訊いた。
「もう、来ない方がいい?」
俺はテレビを見ていた。
画面の中で、安い旅番組の出演者が温泉に入っていた。
「何が」
「ここに」
「別に」
「別にって」
俺はリモコンで音量を上げた。
「面倒くさい話、やめてくれ」
真理子はしばらく立っていた。
立ったまま、エプロンの裾を握っていた。
俺はそれを見ていた。
見ていたのに、何も言わなかった。
しばらくして、彼女は台所へ戻り、火を消した。
鍋の蓋が小さく鳴った。
「今夜だけ、いてくれへん?」
背中を向けたまま、真理子が言った。
その時、俺は帰る理由を探していた。
明日の仕事でもない。
終電でもない。
ただ、あの言葉の続きを聞きたくなかった。
帰り際、玄関で彼女が小さな鍵を差し出した。
「これ、持ってて」
真理子の掌は少し震えていた。
鍵はその上で、虫の死骸みたいに光っていた。
俺は手を伸ばしかけた。
指先が、鍵の輪に触れる寸前で止まった。
鍋の火を弱めるほどの距離もなかった。
伸ばせば受け取れた。
ほんの少し力を入れれば、それで終わった。
俺はポケットに手を入れた。
「いらん」
自分の声が思ったよりはっきり出た。
真理子は、そのまま鍵を握っていた。
俺は靴を履いた。
扉を開ける時、彼女がもう一度、名前を呼んだ。
呼び方は、昔と同じだった。
俺は振り返らなかった。
外へ出ると、玄関の灯りが背中に当たった。
門を出たところで、一度だけ足が止まった。
戻ることはできた。
まだ鍵は彼女の掌にあったはずだった。
俺は煙草をくわえ、火をつけた。
吸い殻を側溝に捨て、俺は歩き出した。
翌朝、父から電話が来た。
真理子は三日間戻らなかった。
警察に届けた。
父は世間体を気にして、最初は大げさにするなと言った。
兄に連絡が入り、兄は仕事を切り上げて帰ってきた。
俺も実家へ行った。
居間には父が座っていた。
いつもより小さく見えた。
だがその小ささに、俺は同情しなかった。
真理子の部屋には鍵がかかっていた。
父はその部屋を開けようとしなかった。
彼女が嫁いでから使っていた小さな洋室だった。
裁縫箱、古い本、化粧品、季節の服。
父はそこを「女の部屋」と呼び、ほとんど入らなかった。
「鍵は?」
兄が訊いた。
父は首を振った。
「知らん」
俺はポケットの中に手を入れた。
そこには何もなかった。
前の夜、受け取らなかった鍵。
受け取っていれば、何かが変わったのか。
たぶん変わらない。
だが、変わらないと決めることで、俺は自分に鍵をかけた。
五日目の朝、真理子は見つかった。
山沿いの小さな公園だった。
子供が遊ぶには古く、老人が散歩するには坂がきつい場所で、昼間でも人が少なかった。
詳しいことは、警察から聞いた。
俺は現場を見ていない。
見たいとも思わなかった。
縊死とだけ聞いた。
遺書はなかった。
葬儀は小さく行われた。
父の関係者が来た。
親戚が来た。
兄は喪主の補佐のように動き、弔問客に頭を下げた。
俺は受付に座って、香典袋を受け取った。
名前を確認し、金額を書いた。
作業は俺と同じように単純だった。
棺の中の真理子は、化粧をされていた。
頬に不自然な赤みがあり、唇は薄く塗られていた。
俺は彼女の顔を見た。
悲しみは来なかった。
親戚の女たちが、真理子は繊細だったから、と囁いた。
父との年の差があったし、子供もいなかったし、と誰かが言った。
俺は受付で香典袋を並べながら聞いていた。
火葬場の外に出ると、空が妙に明るかった。
冬の午後の光が、駐車場の白線をきつく照らしていた。
喪服の人々が、それぞれの車に分かれていく。
兄が俺の横に来た。
「大丈夫か」
「何が」
「いや」
兄は言い淀んだ。
「お前、真理子さんと仲良かったやろ。昔から」
俺は煙草を取り出そうとして、
火葬場の敷地内が禁煙であることに気づいた。
「普通や」
「そうか」
兄の瞳が揺れた。
何かを言いかけて、結局、何も言わなかった。
その夜、俺はアパートで酒を飲んだ。
缶ビールを三本、焼酎を少し。
テレビはつけなかった。
部屋の中には冷蔵庫の音だけがあった。
真理子が死んだ。
その事実を何度か頭の中で言った。
言うたびに、言葉は少しずつ軽くなった。
死んだ。
いない。
戻らない。
鍵を渡そうとしていた。
俺は受け取らなかった。
悲しいのか。
自分に訊いてみた。
何も返ってこなかった。
その代わり、森脇沙希の顔が浮かんだ。
困ります、と言った顔。
父の顔が浮かんだ。
社長の顔が浮かんだ。
兄の横顔が浮かんだ。
俺を通り過ぎていった人間たちが、順番に出てきては消えた。
最後に、真理子の手が浮かんだ。
玄関で鍵を差し出していた手。
俺はその手を払ったわけではない。
ただ受け取らなかった。
それだけだ。
俺は焼酎を飲んだ。
喉が焼けた。
翌日、会社へ行くと、誰かが「大変でしたね」と言った。
俺は「まあ」と答えた。机の上には、いつもの書類が置かれていた。
提出期限、勤怠確認、備品発注。
世界は驚くほど普通だった。
昼休み、森脇が廊下の向こうから歩いてきた。
俺を見ると、軽く頭を下げた。
俺も頭を下げた。
彼女はそのまま通り過ぎた。
香水の匂いが少し残った。
俺は、その匂いを追いかけるように振り返った。
何も学んでいない。
そう思ったのは、その時だけだった。
すぐに、そんな大げさな言葉は自分に似合わないと思った。
午後、俺は備品の発注書に判を押した。
日付を一日間違えた。
訂正印を押し、上から書き直した。
父の葬儀は、真理子の時より大きかった。
会社関係、昔の取引先、町内会、親戚。
弔辞では、誠実、努力、責任という言葉が何度も使われた。
カレーも、プリンも、顔の悪い猫も、誰の口からも出なかった。
父は立派な人になり、真理子は繊細な人になった。
俺は出来損ないの次男坊になるのか。
すぐに、そんなことを考える自分が嫌になった。
ある夕方、父は窓の外を見ながら、
「お前、真理子の部屋を開けたか」
と言った。
俺は開けていない、と答えた。
父は「そうか」と言ったきり黙った。
その横顔には、怒りも後悔もはっきりとは出ていなかった。
ただ、何かを思い出すことに疲れた老人の顔だった。
俺はその顔を見て、父にもわからないことがあったのだと初めて思った。
思っただけで、許すことはなかった。
それから数年で、父は病気をした。
退院し、杖をつくようになった。
兄はよく見舞いに来た。
俺はたまに行った。
病室の父は小さかった。
白い布団の上で、骨ばった手だけが妙に大きく見えた。
父は俺に仕事のことを訊かなかった。
訊かれないことに、俺はまた傷ついた。
「あいつは最後まで勝手やった」
父は一度だけそう言った。
居間の座椅子に座り、湯飲みを両手で包んでいた。
俺はその言葉に腹を立てるべきだったのかもしれない。
だが、腹は立たなかった。
むしろ、父が初めて真理子に置いていかれた男に見えて、変な安堵があった。
真理子の死後、父は少しずつ壊れていった。
壊れた、と言えば大げさかもしれない。
もともと固く作られていたものの表面に、細いひびが入っただけだった。
朝食の準備ができない。
薬の場所がわからない。
洗濯機の使い方を知らない。
父はそれらを不便としてではなく、侮辱として受け取った。
それから十年も経たないうちに父は死んだ。
第七章 残された部屋
父の十三回忌の翌週、俺は実家へ行った。
駅から歩く道は、昔より狭く感じた。
商店街にはシャッターが増え、駄菓子屋だった場所は駐車場になっていた。
俺が子供の頃に怖がっていた犬のいる家は、塀ごと取り壊されていた。
何もかも小さくなったように見えたが、小さくなったのは俺の方かもしれなかった。
実家の玄関を開けると、空気が止まっていた。
人の住まない家の匂い。
埃、畳、閉め切った押し入れ、乾いた木。
父が死んでから、兄が最低限の管理をしていたが、生活の湿り気は消えていた。
真理子の部屋は二階の奥にあった。
ドアノブに触れると、手のひらに冷たさが移った。
鍵は兄が業者に頼んで開けさせていた。
もう鍵は必要なかった。
必要ないものほど、後になって残る。
部屋の中は、思っていたより片づいていた。
ベッドはなく、小さな机と本棚、衣装ケースが二つ。
カーテンは薄い花柄で、色が褪せていた。
窓際に置かれた鉢植えは、土だけになっていた。
壁には、昔のカレンダーが掛かったままだった。
真理子が死んだ年の十二月で止まっていた。
机の引き出しを開けると、手紙や古い写真が入っていた。
写真の中の真理子は若かった。
水色のワンピースを着て、玄関の前に立っている。
俺が初めて会った日の写真だろう。
撮ったのは父か兄か。
俺は写っていない。
写真の真理子は、今から家の中に入る人の顔をしていた。
まだ何も知らない顔だ。
カレー皿が二つ。
ビールの缶が一本。
焦点が少しずれている。
誰が撮ったのか思い出せなかった。
俺か。
真理子か。
写真の端に、ガチャガチャの灰色の猫が置かれていた。
俺はそれを見て、少し笑った。
猫は本当に顔が悪かった。
笑いはすぐに消えた。
本棚には、料理本、古い文庫、家計簿が並んでいた。
家計簿の余白に、真理子の字でメモが書かれていた。
スーパー、米、父薬、灯油。
生活の単語は、死んだ人間の字になると急に重くなる。
机の奥から、大学ノートが数冊出てきた。
表紙には何も書かれていなかった。
開くと、日記のようなものだった。
毎日ではない。
数ヶ月空いていたり、同じ日に何ページも書かれていたりした。
俺は立ったまま読んだ。
あるページには、
買い物のリストの下に、短い線だけが何本も引かれていた。
米、卵、牛乳、洗剤。
その下に、横線。横線。横線。
何かを消したのではなく、書く前に手が止まったような線だった。
俺はその線を見ているうちに、真理子が台所の椅子に座り、ボールペンを持ったまま動けなくなっている姿を思い浮かべた。
想像の中の彼女は若くも老いてもいなかった。
顔がぼやけていた。
ノートのページをもう一度開くと、ところどころに空白があった。
書きかけてやめた行。
筆圧だけ残り、文字になっていない跡。
「今日はあの子が帰ってきた。カレーを食べた。昔みたいに文句を言った。」
別のページ。
「今日はカレーを作った」
「あの子は来なかった」
「カレーは明日も食べられる」
その下に、途中まで書かれて消された一行があった。
俺は自分の左腕を摩った。
爪の跡が薄く残っていた。
俺はノートを机に置き、部屋の中を歩いた。
衣装ケースを開けると、古い服が畳まれていた。
ベージュのコートがあった。
深夜のファミレスに着ていたものだった。
袖口に小さな染みがあった。
プリンのカラメルかもしれない。
そんなことを思う自分が、急に馬鹿らしくなった。
窓を開けた。
外の空気が入ってきた。
庭には雑草が伸びていた。
隣の家から、子供の笑い声が聞こえた。
ボールが塀に当たる音。
母親らしい声が、危ないよ、と言った。
真理子の部屋に、外の音が入るのを俺は初めて聞いた気がした。
机の下に、小さな箱があった。
蓋を開けると、鍵が入っていた。
真鍮色の古い鍵。
俺に渡そうとしていたものと同じかどうかはわからない。
鍵の横には、灰色のプラスチックの猫が入っていた。
写真に写っていた猫だった。
俺は猫を手に取った。
軽かった。
腹の部分に小さな傷があった。
指で撫でると、ざらついた。
箱の底に、折りたたまれた紙があった。
「おかえり」
昔、冷蔵庫に貼られていたメモの一枚だった。
右に傾いた丸い字。
俺はそれを見て、何も感じなかった。
押し入れの奥から、ビニール袋に入った古いレシートが出てきた。
ファミレスのものだった。
レシートの裏には、小さく「また行く」と書かれていた。
真理子の字だった。
俺はしばらくそれを見ていた。
結局、二人であの店に行ったのは一度だけだった。
俺は忙しいと言い、面倒だと言い、次でいいと言った。
次はいつのまにか通り過ぎて行く。
片づけは進まなかった。
捨てるもの、残すもの、兄に確認するもの。
分類しようとしたが、どれも同じに見えた。
段ボールが三つ並んだ。
どれも同じに見えた。
燃えるもの、燃えないもの、判断に困るもの。
真理子はほとんど三つ目だった。
夕方、兄から電話が来た。
「どうや」
「ぼちぼち」
「無理すんなよ」
「してへん」
「何か出てきたか」
「古い服とか、ノートとか」
少し間があった。
「ノート?」
「日記みたいなもん」
「見てもええんか」
「知らん」
俺の声が冷たくなったのを、兄は気づいたかもしれない。
「まあ、任せるわ」
電話を切った後、俺はノートを段ボールに入れた。
捨てるつもりだった。
だが、手が止まった。
結局、ノートと鍵と猫とメモを、自分の鞄に入れた。
持って帰ってどうするのかは考えなかった。
考えると、何かを認めることになる気がした。
第八章 因果
数日後、兄と実家で会った。
兄はスーツ姿だった。
仕事の合間に寄ったのだろう。
玄関で靴をそろえ、家に入る時に軽く頭を下げた。
誰も住んでいない家にまで礼儀正しい。
そういうところが、昔から気に入らなかった。
「だいぶ片づいたな」
兄は二階の部屋を見て言った。
「業者呼べば一日で終わる」
「まあ、そうやけど」
兄は真理子の机の前に立った。
引き出しは空になっていた。
カーテンだけが残っている。
「真理子さん、ここで何してたんやろな」
「さあ」
俺は窓際に立っていた。
「お前、昔よう懐いてたやろ」
「子供やったし」
「真理子さんも、お前のこと気にしてた」
「そう見えただけやろ」
兄は俺を見た。
「何でそんな言い方するんや」
「別に」
兄はしばらく机の上を見ていた。
そこにはもう何もない。
ただ、日焼けしていない四角い跡が残っていた。
何かが長い間そこに置かれていた跡だった。
「親父も、最後はようわからん人やった」
兄が言った。
「最初からや」
「お前はそう言うと思った」
「実際そうやろ」
「厳しかったけどな」
「兄貴にはな」
自分の声に棘があるのがわかった。
わかっていて、止められなかった。
「俺には、厳しいとかいう問題やなかった」
兄はため息をついた。
「それは、俺もわかってる」
「わかってへん」
「全部はわからん。でも、見てへんかったわけやない」
俺は兄を見た。
兄は老けていた。
目尻に皺があり、髪に白いものが混じっていた。
成功した人間も老いる。
当たり前のことが、少し意外だった。
「見てたなら、何か言えばよかったやろ」
兄はしばらく黙っていた。
「言うたこともある」
俺は顔を上げた。
「何を」
「親父に」
兄は窓の外を見た。
「でも、一回だけや」
それ以上は続かなかった。
俺は笑った。
「賢いもんな。面倒なことには関わらん」
「そうかもしれん」
兄は静かに言った。
その返事に、俺は少し肩透かしを食った。
否定してくれればよかった。
怒ってくれれば、こちらも怒れた。
兄はしばらく机の跡を見ていた。
何かを数えるように、指先で木目をなぞった。
「お前だけやない」
兄が言った。
「真理子さんも、親父も、俺も、みんな見て見ぬふりしてた」
俺は何も言わなかった。
兄もそれ以上は続けなかった。
外で車が通り過ぎる音がした。
「でもな」
兄は続けた。
「お前見てると、親父思い出すわ」
軽く言っただけだった。
冗談みたいな調子だったのに、その言葉は部屋に残った。
机の上に、置き忘れた小さな埃の塊があった。
俺は指でそれを潰した。
灰色の粉が指先についた。
真理子はカレーを作った、と書いた。
俺はそれを食べただけだったのか。
兄が帰った後、部屋は急に広くなった。
俺は机の上に置きっぱなしになっていた名刺入れを見つけた。
兄のものだった。
中には何も入っていない。
ただ、一枚だけ古びた付箋が挟まっていた。
字は擦れていて読めなかった。
誰の字なのかもわからなかった。
俺はしばらくそれを見ていた。
兄にも、何かあったのかもしれないと思った。
思っただけだった。
俺は付箋を裏返し、そのまま名刺入れに戻した。
俺は窓の外を見た。
答えを出さなければ、人は同じ場所に留まれる。
留まっている限り、変わらずにすむ。
俺は部屋の窓を閉めた。
鍵をかけた。
もう誰も入らない部屋に鍵をかけることが、ひどく自然に思えた。
終章 空室
その夜、アパートに戻ると、部屋は昼間と同じ散らかり方をしていた。
コンビニの弁当を買ってきた。
温めますか、と店員に訊かれ、お願いします、と答えた。
袋の中で弁当の容器が少し傾き、汁が端に寄っていた。
俺はそれを机に置き、割り箸を割った。
片方だけ短く折れた。
テレビをつけると、また芸人が笑っていた。
誰かが大げさに転び、スタジオが揺れるほど笑った。
俺は弁当を食べながら見ていた。
少しだけ笑った。
笑った後、口の中の米がやけに冷たく感じた。
机の上には、真理子の部屋から持ち帰ったものが並んでいた。
古い鍵。
灰色の猫。
「おかえり」と書かれた紙。
大学ノート。
ノートは開かなかった。
真理子が何を考えていたのか。
知りたい気もした。
知らないままの方が楽な気もした。
今日はカレーを作った。
ただそれだけの字が、何度も頭に戻ってきた。
俺はその日、食べたのか。
文句を言ったのか。
残したのか。
思い出せないことの方が、思い出すことより多かった。
そう考えた瞬間、吐き気に似たものが上がってきた。
俺は酒を飲んだ。
缶ビール、焼酎。
氷はなかった。
ぬるい焼酎をそのまま飲むと、胃の中が重くなった。
部屋の隅に、洗濯紐が丸めて置いてあった。
以前、ベランダに干す場所を増やそうとして買ったものだった。
結局使わず、そのままになっていた。
白い紐は、暗い床の上で妙に目立った。
俺はしばらくそれを見ていた。
スマホが震えた。
会社からの連絡かと思ったが、兄からだった。
「書類、明日送る。体調気をつけろ」
それだけだった。
俺は返信しなかった。
体調。
気をつけろ。
便利な言葉ばかりだ。
だが、その便利さに救われる夜もあるのだろう。
窓を開けた。
六月の夜の空気が入ってきた。
湿っていて、少し生ぬるかった。
遠くで犬が鳴いた。
どこかの部屋から、子供の笑う声が聞こえた。
親が何かを叱り、子供がまた笑った。
車が一台、アパートの前を通り過ぎた。
タイヤが濡れた路面をこする音がした。
生きている世界の音だった。
俺は机の上の鍵を手に取った。
真鍮色の表面はくすんでいた。
もう開ける部屋はない。
家は売られる。
真理子はいない。
父もいない。
兄は自分の家へ帰る。
森脇は明日も会社で誰かに笑うだろう。
俺はたぶん、また同じ机に座り、同じように判を押し、同じように間違える。
鍵を握ると、掌が痛かった。
俺は洗濯紐を見た。
それから、窓の外を見た。
下の道を、小さな傘を持った子供が走っていった。
雨は降っていなかった。
傘はたぶん、遊び道具だった。
子供は途中で立ち止まり、傘をくるりと回した。
街灯の光が、透明なビニールに反射した。
俺は立ち上がった。
何のために立ち上がったのか、自分でもわからなかった。
俺は鍵を握った。
しばらく、そのまま立っていた。
遠くで、誰かが笑った。
俺は、鍵を離さなかった。
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