角刈りに真っ赤なルージュを添えて
「よっちゃんは、半分男で、半分女だから」
その言葉は、口の中に溜まった歯磨き粉の泡に混ざって、ゆっくりと十歳の私の中に入ってきた。
ラジオ体操に行きそびれて、母に「いつまで寝てるの!」と小言をぶつけられた朝。パジャマのままで、寝癖は爆発していた。ぼやけた意識の隙間に、その言葉がすっと入り込む。
ただ、「あ、そうなんだ」と思った。
目の前に、そういう人が立っていたからだ。
私の目の前、洗面台の鏡の前に立っていたのは、よっちゃんだ。
よっちゃんは、祖母の年の離れた妹で、四十になったばかり。毎年お盆になると、東京から私たち家族が住む祖母の家へ泊まりにやってくる。そしてその傍らには、決まって姉のさっちゃんがいた。
玄関に、使い込まれた大きなバッグがふたつ、どさりと置かれる。
それが夏の到来を告げる合図だった。
私、姉、母、祖母、曾祖母。
女ばかり五人の暮らしは、普段はとにかく穏やか。
しかし、よっちゃんと、さっちゃんの二人が現れると、家の空気が一変した。会話のスピードは二倍速になり、笑い声がリビングに反響する。台所からは揚げ物の油がパチパチとはじける音が響き、つけっぱなしのテレビから流れてくる『モーニング娘。』の歌声も、女たちの声にかき消されてどんどん小さくなっていく。
よっちゃんは声が大きく、いつも話の中心にいた。でも、その場の温度を支配しているのは、少し離れたところでゆったりと構えているさっちゃんの方だった。
よっちゃんは床屋を営んでいた。そういった理由から、本人も見事な「角刈り」だった。「技術を売る職人の証」なのだという。角刈りに、よっちゃんの彫刻のような顔立ちが合わさると、「中性的」という便利な言葉では片付けられない何かがあった。その朝もよっちゃんは、『ドラゴンボール』のピッコロさんのような、神がかった空気を漂わせていた。
角刈りが整うと、「儀式」が始まる。
一本の口紅で、唇の輪郭を丁寧になぞり、内側を丹念に埋めていく。情熱的という言葉を通り越して、ただただ強烈な赤が広がっていく。
仕上げに、男物のコロンを二回。シュッ、シュッ、と首筋に吹きかける。深い海のような、冷たい潮風のような香り。
角刈りと、真っ赤な唇。そして海のコロン。
「よっちゃん」が完成した。
よっちゃんは、鏡越しに自分を睨んでもう一度言った。
「よっちゃんは、半分男で、半分女だから」
見たままの事実を述べているようにも聞こえるし、何かの「宣言」のようでもあった。
でも、そんなことなどもう、どうでもいい。口の中に広がる歯磨き粉の泡を早く吐き出したい。
そこへ、さっちゃんが割り込んできた。
「よっちゃん!早くどきなさいよ!私もメイクするんだから!」
たった一枚のバスタオルを、無造作に体に巻きつけただけで。さっちゃんは家の中ではだいたいこの格好だった。裸族なのだ。
さっちゃんは、よっちゃんの五つ上で、若い頃は銀座のクラブでナンバーワンを張っていた。
「松坂慶子にそっくり!って、みんなに言われてたのよ!」
とクラブ時代の写真を見せてくれたことがあるのだが、モノクロームの中の彼女は、確かに、息を呑むほど綺麗だった。
そして五十歳を目前にしてもなお、すらりと伸びた背筋と豊満なℍカップを保ち、客を唸らせたであろう軽やかな話術で、その場をぱっと明るくする。私は、そんな華やかなさっちゃんが大好きだった。
さっちゃんは、よっちゃんの後ろで、化粧水を手のひらにとって顔に叩き込み始める。パン、パン、パン。乾いた音がリズムを刻む。
よっちゃんが「半分男で、半分女」を生きているなら、さっちゃんは間違いなく「全部女」をやり遂げている人だった。
さて、その夏、さっちゃんは少しばかり機嫌が悪かった。
理由は、旦那の浮気疑惑。
私は、さっちゃんの旦那さんの大ファンだった。オセロで真剣勝負をしてくれて、最後にはわざと負けて「おじちゃん、参っちゃったな〜!」と笑いながら、こっそり五百円玉を握らせてくれる。そんな粋なおじさんだった。一緒に来てくれるのを楽しみにしていたのに。なんてこった。
そしてその「疑惑」は、一つではなく、なんと二つだった。
一つ目の疑惑は、会社の後輩の女性との話。
酔っ払った彼女をタクシーで“家の前まで”送ったお礼として、見たこともないような南国の果物がぎっしり詰まったフルーツバスケットが届いたのだという。
「こんなの、普通送る?私に対する挑戦状よ、絶対!」
さっちゃんは鼻息荒く言い放ち、わざわざ現像してきた『写ルンです』の写真たちをテーブルにぶちまけた。
マンゴーやパパイヤ。それから、切っても切っても星型になるスターフルーツ。バスケットに入っていたフルーツのラインナップが、一つ一つ丁寧に個別で撮影されていた。
だが、二つ目の疑惑は少し毛色が違っていた。
旦那さんが、ボディビル仲間の男性と二人で、自宅の風呂に入っていたというのだ。
「証拠写真は!?」
と野次馬根性で聞いた私の頭を、
「そんなのあるわけないでしょ!」
と母がピシャリと叩いた。痛かった。
しかし、さっちゃんはさすがである。
「そんなのあるに決まってるじゃない!」
と、一枚の写真をテーブルにさっと出した。
そこに写っていたのは、旦那さんと、見知らぬおじさんが、エビチリとビールを囲んで、これ以上ないというほどの満面の笑みを浮かべている姿だった。風呂上がりのせいか、アルコールのせいなのか、二人の頬はほんのりと上気していた。
「見てよ、この顔!こんなに楽しそうに笑っちゃってさ!」
言わずもがな、その写真は、さっちゃんが二人にカメラを向けて撮影したものである。
さっちゃんは、その笑顔を人差し指でトントントンと強く叩いた。容疑は決まっている、と言わんばかりの勢いで。
「これって、どっちに対しても『気持ち』があるってことでしょ!?」
母と祖母は黙り込み、曾祖母と姉はいつの間にか眠りの中に逃げ込んでいた。静まり返った部屋で、私だけが、その問いに対する「正解」を誰かが口にするのを待ちわびていた。
その時、一人で淡々とビールを飲み続けていたよっちゃんが、ふふ、と鼻を鳴らして笑った。
「よっちゃん、何がおかしいのよ!」
さっちゃんが詰め寄ると、よっちゃんは一度顔を伏せたが、こらえきれずに吹き出した。
「だってさ、さっちゃん。それ、どちらにも気持ちが本当にあると思ってるの?もしそうだとしたら、めちゃくちゃ面白いじゃん!」
よっちゃんのその言葉に、さっちゃんは
「そうやって、いつも肝心な時に私のこと馬鹿にするんだから!」
と、激怒した。
そしてさっちゃんは、空いていたグラスに酒を飲注ぎ、「私のことなんてどうでもいいんでしょー」と号泣し始めた。誰に向けているかわからないその言葉にみんなで苦笑いしながらも、浮気話の仮説談義は、熱帯夜の中でいつまでも続いた。
私は途中で眠気に負けてしまったが、夜中にふと目が覚めると、階下から話し声が漏れていた。急に大きくなったり、しんと静まり返ったり。
「このまま、さっちゃんとよっちゃんが仲違いしてしまったら嫌だな」と少しだけ思ったが、そんな心配は必要なかった。
翌朝、二人は私の前で、「早くどきなさいよ!」「今やってるだろ!」と場所を取り合っているのだから。その光景を見て、私は心の底から安心した。
よっちゃんの呪文のような言葉も、さっちゃんの深刻な悩みも、外から差し込んでくるうんざりするほど大きな蝉の鳴き声にかき消されていくようだった。
数日後、地元の観光名所である川へ出かけた。
浅瀬に足を踏み入れれば、水は想像以上に冷たく、皮膚がきゅっと縮み上がる。川底の石は丸くつるりとしており、油断するとすぐに足を取られてしまいそうだった。
私と姉は泳ぎが得意ではなかったので、早々に川岸に引き返し、濡れた足を太陽に晒して乾かしていた。蝉の合唱、せせらぎ、遠くで響く子供たちの歓声。プシュッ、という缶を開ける音。
大人たちはロッジで涼んでいたが、姉と私は、少し離れた岩場で、バーベキュー中のどこかの家族をぼんやりと眺めていた。肉を焼く父、皿を配る母、跳ね回る子供たち。
女ばかりの私たちの家族と全然違うね。なんて姉と会話を交わしていたらなんだかつまらない気持ちになったので、
「面白い形の石を探そう!」
と姉に提案し、無理やりその場の空気を書き換えようとした。
重い腰を上げ、綺麗な石がありそうな川岸に移動しようとした瞬間、姉が私の肩を強く叩いた。
「ねえ、あれ見て!あれ、よっちゃんじゃない!?」
指差す先、川の真ん中に人だかりができていた。その中心にいたのは、間違いなく、よっちゃんだった。
なんと、よっちゃんは、ベージュの下着姿で川を横断していたのだ。
太めの腕を力強く動かし、水を割って進む、迷いのない平泳ぎだ。ベージュの下着は肌の色と溶け込んで、一瞬、丸裸の人間が泳いでいるようにも見える。水面から出ているのは、あの微動だにしない角刈りと、真っ赤な口紅をひいた頭だけ。
周りの観衆たちは、その異様な光景に足を止め、品定めをするような冷ややかな視線を一斉に注いでいた。
「あれは、男なのか、女なのか」
好奇と嫌悪の中で、よっちゃんは泳いでいた。
しかし、よっちゃんにはそんな視線が届かない。なぜならば、もっと遠くを見ていたから。
慌てた姉は
「あんたは、ここで待ってなさい!!!」
と言い残し、ロッジへと駆けていった。
私を一人残して。
しばらくするとよっちゃんは対岸に辿り着いた。すると、岩場に這い上がり、両手を突き上げて「よっしゃーーー!」と叫んでいた。大げさなポーズで、何らかの勝利を確信している。
それを見た観客たちは、「ああ、やっぱりおばさんだったか」と、拍子抜けしたような、どこかつまらなそうな苦笑を浮かべて去っていった。
そのまま森の奥へ消えてしまえば伝説になったのに、よっちゃんは再びこちら側へ向かって泳ぎ始めた。やばい、よっちゃんが戻ってくる!
私は姉の言いつけを守りつつ、ただただ、「石を探す通りすがりの少女」を必死に演じていた。万が一、姉たちが戻ってくる前によっちゃんが岸に帰ってきたら、血が繋がっていることが周囲にバレないように努めるしかないと考えたからだ。
しかし、目はどうしても彼女を追ってしまう。
溺れたらどうしようという不安以上に、彼女があまりにも楽しそうだったから。その解き放たれた姿を見て、私はある記憶を呼び起こしていた。
そう。愛犬が庭から脱走した時のことだ。二度と会えなくなるかもしれないと半泣きで探し回った末、近所の空き地で「わーい!わーい!自由だ!」と言わんばかりに尻尾を振って駆け回っている彼を見つけた時の、あの感じ。よっちゃんは、あの時の愛犬にそっくりだった。
しばらくして、姉と祖母がバスタオルを抱えて血相を変えて走ってきた。
「はあ……よっちゃん……!」
真面目一貫の祖母は、完全に呆れ果てていた。
岸に上がったよっちゃんは、全てを出し切ったアスリートのような顔で手を大きく振った。
「いやー!姉ちゃん!最高に気持ちよかったよ!」
体をぶんぶん震わせ、水を飛ばすよっちゃん。こんな時でも、角刈りのフォルムは一切崩れていない。さすが職人の技。
「よっちゃん、下着のまま歩くなんて恥ずかしいから、早くこれ使いなさい!」
ボクシングのセコンドのように、肩からタオルをかけようとする祖母に、よっちゃんはキョトンとした顔で言った。
「へ? 何が?」
「いいから!」
「何が恥ずかしいのよ!」
それは怒りではなく、心から“理解できない”という響きを持った声だった。
どうしていけないのか。そう言われてみれば、この川のほとりに、よっちゃんが恥じ入らなければならない理由など、どこにもないように思えた。
「ほらほら、夏風邪は長引くからね」
と背中をさすりながら、祖母は体を拭き、車によっちゃんを乗せ、一足先に家へと引き上げていった。
私は、ゆっくりと流れる川の流れをじっと眺めていた。さっきまでと同じ川のはずなのに、よっちゃんが横切ったあとの川は、少しだけ違って見えた。
遅れて合流したさっちゃんと母は、事の顛末を聞いてやはり驚いた。
「ここにいなくてよかった!」
と母は大爆笑していたが、さっちゃんだけは、
「あら、なんだかやけくそね。やっぱり」と、意味深な言葉を小さく呟いていた。
帰りの車中。姉が疲れ果てて眠りに落ちたので、私も横で寝たふりをすることにした。
「よっちゃんね、やけくそなのよ。最近」
助手席のさっちゃんが、運転する母に向かって静かに口を開いた。
「まあ、よっちゃんは昔からそんなところあるけどね」
と、母は笑う。
「いや、そういうんじゃないの。よっちゃんも大変だったのよ。去年のことなんだけど……」
さっちゃんが語り始めたのは、よっちゃんと、とある女性の話だった。
よっちゃんには、親しくしていた中国籍の女性がいた。大好きな香港映画の世界をより深く知りたくて、中国語のサークルに通い、そこで彼女と出会ったのだという。
彼女は既婚者で子供もいた。最初は、お互いの国のカルチャーを教え合うような手紙のやり取りから始まった関係だった。しかし、その手紙の中で、彼女が「束縛と暴力の激しい夫と別れたい、どこか遠くへ逃げたい」と漏らしていたのが、当の本人である夫に見つかってしまったというのだ。
「激昂してね。二度と会うなって。女友達同士の文通に何をそこまで……」
さっちゃんの言葉は、車内に重く沈んだ。
私は、寝たふりをしたまま唇を噛んだ。
よっちゃんが「半分男」と言う理由を、私は初めて考えた。対岸に辿り着いた時の「よっしゃーー!」は、誰に向けられていたのだろうか。
ガタガタ揺れる山道の後部座席で、よっちゃんを失った彼女がどのように過ごしているのだろうかと想像し、一人で震えた。
最後の夜は、よっちゃんのリクエストでエビフライが並ぶ大宴会だった。
よっちゃんは上機嫌で、大好きな香港映画『男たちの挽歌』の魅力を語り倒していた。
離婚した元夫(つまり私の父親)が香港映画マニアだった母が耳を塞ぐ真似をしても、よっちゃんは止まらない。
「あんたね、香港映画に罪はないでしょ?チョウ・ユンファは歴史に残る名優なんだから!」
熱を持って語る彼女の瞳が、ふっと潤んだのを、正面に座っていた私は見逃さなかった。
「あれ、よっちゃん、泣いてるの?」
私が尋ねると、よっちゃんは「はははは!」と、わざとらしいほど乾いた笑い声を上げた。
「はあー、映画の話をしてたら、色々思い出して笑っちゃったよ!」
そう言いながら、彼女の目からは大粒の涙がほろほろと溢れ落ちていた。
「四十を過ぎると涙腺がガバガバなんだから」
と茶化しながら割って入ったさっちゃんは、よっちゃんの頭を引き寄せて、赤子のようにあやした。
そっか、と私は思った。きっと、あの人と一緒に観た映画の話だったのかもしれない。さっちゃんもそれをもちろんわかっていたのだろう。
私はエビフライの尻尾をバリバリと噛み砕きながら、その旦那だけはこのエビのように粉々に砕いてやるべきだと思った。
翌朝。
旅立ちの準備をするよっちゃんの背中を、私は相変わらずだらだらと歯を磨きながら眺めていた。
そこへ、身支度を終えたはずのさっちゃんが洗面所へやってきた。
「よっちゃん、口紅貸して」
「いいよ」
真っ赤な口紅が、バトンのようにさっちゃんに手渡される。
「留守の間に旦那が何してたか、事情聴取しなきゃいけないからね。これは鎧よ、鎧!」
さっちゃんは、手慣れた手つきで唇を赤く染めていく。
「あら、こんな強い赤、初めて!ねえ、この口紅似合ってる?」
さっちゃんは私に顔を向け、評価を求める。私は歯ブラシを咥えたまま、「うん」と力強く頷いた。
返された口紅で、今度はよっちゃんが自分の唇をなぞる。そして、アクアマリンのコロンを二吹き。
角刈りに、赤い口紅。海の香り。
凛々しい「よっちゃん」が完成した。
「よっちゃんは、半分男で、半分女だからね」
いつもの呪文。それを聞いたさっちゃんが吹き出した。
「あらやだ。よっちゃん、毎日そんな呪文を唱えてるの?」
「なによ。姉ちゃんだって、口紅引いて『鎧』とか言ってるくせに。浮気の事情聴取なんか、きっと必要ないよ。大丈夫、大丈夫」
二人は笑いながら、洗面所を後にした。
遠ざかっていく笑い声を聞きながら、私はブクブクとうがいをし、顔を洗った。冷たい水が気持ちいい。
私もいつか、鏡の中の自分を見つめ、戦いに挑む準備をする日が来るのだろうか。そんなことを考えていた。
地元の駅で二人を見送る時、いつものようにしんみりとした空気が流れた。二人は「大事に使うのよ」と言って、私たち姉妹にそれぞれお小遣いを握らせ、東京へと帰っていった。
その夜、曾祖母とお風呂に入りながら、ふと思いついて切り出した。
「ねえ、よっちゃんって、半分男で、半分女なんだって。知ってた?」
曾祖母は小さな目をパッと見開いたが、桶の湯で豪快に顔を洗うと、一言こう言い放った。
「……どうだったかねぇ〜〜?」
「えー!ごまかさないでよ!」
私は笑って突っ込んだが、同時に、すとんと腑に落ちるものがあった。
「よっちゃんは、半分男で、半分女だから」
そう言われて、ただ受け入れたあの時の感覚のままで。それでよかったのだ。
角刈りに真っ赤なルージュ。
それがよっちゃんなんだから。
私は二人にもらったお小遣いで、「色付きのリップクリーム」を買った。いつもこっそり、ランドセルや習い事のカバンに忍ばせていた。
あの日から、長い月日が流れた。
よっちゃんは数年前、私が三十歳になった頃に、若くしてこの世を去った。
葬儀で、さっちゃんが読み上げた手紙の一節が、今も耳に残っている。
「大きな世界で生き、いつだって人を楽しませようと、そして、助けようとしていた愛しい妹」
その言葉を聞きながら、私は、あの夏のことを思い出していた。よっちゃんは、歳を重ねても、ずっとあの夏のままだったのだ。
よっちゃんがいないこの夏も、私は鏡の前に立つ。
ハローキティの小さなポーチの中には、もう色付きのリップクリームは入っていない。代わりに、あの日よっちゃんが使っていたような、真っ赤な口紅が入っている。
生まれた時の役割に沿って、「こう見られる方がいい」と押し付けられることは、どうしてもある。
たとえば会議でふと聞こえてくる
「もう少し女性らしく、柔らかくできますか」
というオーダー。
その柔らかさの正体を、誰も説明しないまま話が進んでいく。
私は一度だけ頷いて、それ以上は頷かない。
どこかでよっちゃんがちらりと顔を出すからだ。
口紅を手に取って、鏡の中のベリーショートヘアの自分を見る。
ほんの少し、口角が上がる。
そして、真っ赤なルージュを添えるのだ。
