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破壊という名の出会いについて

私のなかの「おもしろい」は、いつだって破壊の音とともにやってくる。
それまでの自分がコツコツと築き上げてきた思考の城郭、世間一般の「まあ、そういうものでしょう」という生ぬるい納得、そしてどこかで修めてしまった小利口な学歴や知識という名の防具。それらを問答無用にぶち壊してくれるような感性に巡り会うこと。それこそが、私が人生に求めている唯一の眩暈(めまい)だ。
どちらかといえば、私は「奇妙」と呼ばれる人やものに惹かれる。
なぜなら奇妙さとは、机に向かって勉強したり、教養として身につけたりできるものではないからだ。知識や学歴は、世界を安全に解釈し、きれいに分類するためのフィルターとしては優秀かもしれない。けれど、そのフィルターが精巧になればなるほど、人は目の前のカオスを「ああ、これは要するに〇〇という文脈ね」と理解したつもりになり、頭の中の図鑑に標本として収めてしまう。
でも、本当に面白いものって、「理解できない」ことそのものの中にあるのではないか。
言葉や論理の網を軽々とすり抜け、「そんなのあったのー!?」と脳の裏側を素手で殴ってくるような感性。人間という存在を、社会的・実用的な記号ではなく、生々しく滑稽で、抗いがたく美しい構造物として——つまりは強烈にアーティスティックに捉えている視点。そうしたものに触れた瞬間、私が今まで大事に抱えていた「知性」なんてどうでもよくなってしまう。プライドなんてどこかへ吹き飛び、ただ子どもみたいに「お願いだから、その世界観を教えて!」とすがりつきたくなる。
思えば、いま「名作」や「古典」として美術館や教科書にきれいに額縁収めされているものたちも、生まれた瞬間はすべて、当時の常識をぶち壊す暴動であり、事故であり、バグだったはずだ。印象派の粗い筆跡も、便器を提示したアーティストの狂気も、ある朝突然虫になった男の物語も。それらは「新しい表現を作ろう」と計算して生まれたのではなく、世界がそうとしか見えない人間の異質な感性が、剥き出しのまま世界に衝突した痕跡なのだ。
歴史の中で評価され、解釈され、パッケージ化された「安全な教養」をなぞりたいわけじゃない。私が知りたいのは、その破壊が起きた現場の熱量だ。
「出会う」とは、単に人間関係を広げることではない。自分の持っていた前提が木っ端微塵になり、更地になった場所に呆然と立ち尽くすような、ある種の事故であり、ぶち壊しなのだと思う。
理解できる安心感の中に小さく収まるくらいなら、意味の分からない怪物のような感性に叩きのめされたい。知識の鎧を脱ぎ捨てて、ただの何だこれ!?に震えながら生きる。そうやって世界に翻弄されることこそが、私にとっての「自由」なのだ。

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