見出し画像

見たいものしか見たくない時代の文芸コラム(第十二回)

5月 エロ性欲・何度も回帰する「敗戦後論」論争・テクスチャー

 今回の時評では、①エッセイ的な特集が多かった文芸誌→②「敗戦後論」論争に言及する刊行物が三冊も刊行→③短歌の新コンセプト「テクスチャー」を論じ、『フリースタイル』の特集「江口寿史がしたこと」、『小説トリッパー』の「『小説トリッパー』の三十年を読む」、『彼女のカロート』を刊行した新シリーズ「First Archives」を紹介する。

 今月はどの文芸誌もライトなテーマが多かった。まるでエッセイに寄せていくような。『文學界』(5月)の特集が「室内と文学」『文藝』(夏季号)の特集が「失恋、あるいは恋の不可能性」といった感じ。『文藝』は「殺したくも殺されたくもない私たちのNO WAR」という反戦の特集も組んでいるが、主に作家のエッセイを集めたもので時評で取り上げたいようなものではなかった。「室内と文学」も作家のエッセイが主体だが(インタビューや対談も少し)、文学と居住空間をテーマにするなら、私だったら『建築文学傑作選』の青木淳に書誌と解題を依頼し、文学と建築論『錯乱の日本文学――建築/小説をめざして』を書いた石川義正に評論を書いてもらうだろう。若手の研究者か批評家に、前田愛『都市空間のなかの文学』(1982)や磯田光一『戦後史の空間』(1983)後の文学と住居の関係を論じてもらうのもいい。もちろん採算度外視で!
 今月の特集に不満があるわけではない。ただ、ほぼ愚痴であることを承知でいえば、エッセイ頼みの感があるのは否めないのではないか。作家にエッセイを依頼するなら、恋愛や失恋よりも、最近の作家は作品を書くさいに性欲やエロをどう処理しているのかをとても知りたい。ジェンダーや性的指向性など性について書かれた作品はいまも数多あるが、ちゃんと問題として取り扱っていますというエクスキューズが入っている。無意味な性描写なんてものはない。そこにあなたの――あるいはテクストの――性欲やエロはありますか?
 『スピン』(15号)の小特集「はじめての澁澤龍彦」は性欲やエロを語るのにもってこいの題材だが、いかんせん短すぎる。『STUDIO VOICE』がかつて「ゆらぐエロ」という特集を組んだことがある(2017・10)。編集がとても批評的で、十年前になるが、いま読んでもまったく古びていない。千葉雅也×村田沙耶香×松岡正剛の鼎談「来たるべきエロス」では、不可視化するエロや性欲がひとつのテーマになっていた。

 四月は、偶然にも、戦後問題を取り上げた刊行物が三冊も誕生した。荒木優太『内田樹の時代』(A)、高橋哲哉×三牧聖子×須藤輝彦×伊達聖伸『もうひとつの戦後80年――「終わりと始まり」の1995年から考える』(B)、國分功一郎『天皇への敗北』(C)である。いずれも加藤典洋の「敗戦後論」(1995・1)とそれをきっかけに起こった論争に言及している。とくにBは論争を真正面から取り上げている。論争の主役は加藤と高橋だったが、その高橋にくわえ、亡くなられた加藤に教わった須藤が参加しているのだから当然だろう。高橋→三牧→須藤のスピーチとクロストークの二部構成。『世界』(2025・11)の初出時にはなかったクロストークでは、高橋が須藤を加藤の身代わりにして強めの批判をするところがあり、須藤をやや気の毒に感じもした。よい企画だと思うが、全体的に加藤の亡霊にとり憑かれすぎているかもしれない。加藤と学生という関係でいえば、先月『群像』(4月)連載の最終回を迎えた長瀬海の「「僕」と先生」もあげておきたい。
 Cは憲法と文学の相補関係から戦後を論じる。文学が憲法論議(1条と9条)に関与してきたというのは多くが知るところだが、戦後の憲法学もある意味文学だったというところから、戦後文学と憲法学を交差させながら論じるところは発見があった。「政治と文学」の憲法学バージョン。
 ここ数年、加藤の「敗戦後論」の可能性を救い出すという言説が複数出てきている。BとCもその試みのひとつで、國分は論争当時を振り返り、まだ学生の頃で加藤を安易に批判していた自己批判をしている。「文学は正義‼」(『文学+』4号、2024・9)にも書いたことだが、私と同世代(アラフィフ)の批評家が同じような自己批判をするケースはわりとある。戦中派が戦後になって自己批判――自己の転向を他責化するケースもあるが――をするのと似ていなくもない。アジアの死者より自国の死者を優先した加藤の非は明らかだが、振り返ってみれば加藤の可能性まで切り落とした批判が多かったことは確かである。これはひとえに加藤と敵対していた『批評空間』界隈の言説がいかに強かったかを物語るエピソードだろう。私も春樹批判を修正したことがある。若い頃は『批評空間』界隈の言説に乗っかって村上春樹批判をした自分を懺悔したい。
 Aは内田樹論だが、「内田樹の時代」と呼べる時代があるとし、その源泉に「敗戦後論」論争を置いている。「「内田樹の時代」とは、「死者」の政治利用の時代であった。「死者」の想いをもっとも上手く表現できた連中が勝つというゲームに我々は興じていた」(8ページ)。どの死者を優先させるか? そのゲームの問題点を荒木は論じ、忘却と想起の観点から処方箋を示している。批評史のある時期を「「死者」の政治利用の時代」と見立てる視点はなかなか興味深い。
 荒木によれば、内田はゲームの最初はメタに立てていたが、途中からプレイヤーとして参戦し勝ち負けに興じてしまったようである。内田がすがったのは天皇であった(『街場の天皇論』2017・10)。悪霊としての安倍晋三に対抗する天皇という護符。内田読者だった荒木はそれをきっかけに離反を強めたようだ。戦後憲法を破壊せんとする安倍に対抗して護憲の天皇にすがるリベラル陣営を、Bもまた「天皇への敗北」として批判している。
 三者三様。いずれにしても、政治と文学をめぐって、自分の若い頃に読んだものが考えるきっかけを与えている。なぜ日本の音楽は政治を語らないのか?」(『NiEW』4月28日)を問うた松尾潔に対して菊地成孔がTwitter(現X)で批判をし、松尾派と菊池派の立場から議論が百出した。文学には「文学は役に立つか」というクソくだらない議論があるが、政治を語ることが無駄だとか難しいとかいう話はあまり聞かない。長年政治との関係をテーマにしてきたのでそもそもその入り口(政治を語れよ/政治を語るな)を問われなくてよいのだろう。先人が積んできた歴史に敬意しかない。より困難にはなっているが、文学は今後も政治を語れるジャンルであってほしい。
 ちなみに私は、安吾的な実用論――「必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい」(『日本文化私観』1942)――をとるので、天皇は、必要とされているのであればあってもよいという立場である。朝日新聞の全国世論調査(5月2日)によれば、9条を「変えないほうがよい」が63%といまだに高い水準を保っているという。裏返せば自衛隊も許容ということだろう。天皇(1条)も自衛隊(9条)も、戦後憲法上の矛盾(ねじれ?)として存在してきたが、よくも悪くも日本のアイデンティティの一部に組み込まれているようである。

 最近「テクスチャー」というコンセプトが巷を徘徊しているのをご存じだろうか? 私が初めて認知したのは『文藝』春季号(2026・2)でである。瀬戸夏子×青松輝の対談「私性・テクスチャー・SNSをめぐって――「短歌ブーム以後」を俯瞰する」における青松の紹介による。「テクスチャー」の対立語は「意味」である。最近の短歌は「意味」と「テクスチャー」で分類することができる。言葉の意味伝達よりも、視覚・触覚・聴覚等の側面から言葉を配置する傾向が出てきているという見通しがあるのだろう。その後、瀬口真司×つやちゃんの対談「2020年代はテクスチャの時代?」(『NiEW』3月12日)では主題として取り上げられた。ここでは短歌以外のジャンルにも拡張されている。
 先ごろ若手を中心に創刊された批評誌『ゲンロンy』(創刊号、2026・3)は「スマホ世代の総合誌」と自称している。スマホのタッチスクリーンなどに着目し、「指の触覚性」から新時代の認識論を展開するテクスト――座談会「指先から考える」森脇透青「陰謀の手応え――擬人の時代について」布施琳太郎「フィンガーメイド時代の芸術作品」――が読める。これらの議論も「テクスチャー」と関わるものだろう。
 文学に限れば、言葉は基本的に意味伝達のためにあるので、「テクスチャー」はあくまでもイメージ(隠喩)にとどまるところがある。上記対談では、「テクスチャー」の説明にグミを用いているが――最近のグミ市場は変態的なまでに食感の多様性に依存している――、言葉は噛めもしないし触れるものでもない。近いのは、タイポグラフィー(萩原恭次郎の詩集『死刑宣告』1925が有名)のような視覚に訴える使い方くらいだろう。あるいは、意味にならない言葉の物理的な音声にこだわるケースもある。太宰治「トカトントン」(1947)→田中小実昌「ポロポロ」(1977)→諏訪哲史「アサッテの人」(2007)などだが、とくに「トカトントン」と「ポロポロ」は戦後の回想シーンで意味不明な音声――幻聴や吃音――を発生させていた。
 思い出すのは、写生やリアリズムの議論である。正岡子規が打ち出した「写生」に対して高浜虚子は「空想趣味」を提示してみせた(「写生趣味と空想趣味」1904)。客観描写よりも、言葉の歴史や主観的含意を大切にする立場だ。この対立はのちにリアリズムの観点から継承されている。渡部直己が『リアリズムの構造』(1988)で子規の「写生」の側に立ち、江藤淳が『リアリズムの源流』(1989)で虚子の「空想趣味」の側に立って議論をしている。江藤いわく「「夕顔の花」というとき、人はたとえば『源氏物語』の「夕顔」の巻に描かれている、あの薄倖の美女のイメージを「排斥」することは到底できない。そういう「歴史的連想」だけが除去できないのではない。そこには「ユウガオノハナ」という音声的な連想もあり、人はこれからものがれられない。このような「空想的」要素を「一掃し去る」というのは、俳句を不必要に「殺風景」にし、言葉の可能性を狭めるものではないか」。「夕顔」で『源氏物語』の美女をイメージするのは相当な知識人だと思うが、虚子=江藤が論じる「連想」は、「意味」に対する「テクスチャー」に近い。何よりこの「連想」というワードに注目すべきだ。おそらく江藤は言葉の「歴史的」な垢(含意)の方に重きを置いていたと思われるが、「テクスチャー」は「連想」に重きを置くべきである。タッチスクリーン上に手指をすべらせながら次々と現れては消えてゆく「連想」の数々。「テクスチャー」とはフェティッシュの対象でありながら、「連想」を映し出すインターフェースでもあるだろう。
 興味深いのは、小説でもリアリズムを立ち上げるさいに「テクスチャー」が注目されていたことである。それを教えてくれたのは、先ごろ刊行された木村洋『「蒲団」の時代――自然主義とは何だったのか』(2026・4)である。リアリズムというより自然主義といった方がよいのだが、既成の文学様式に対抗して自然主義が登場する時代を詳細に記述している。そこで決定的な役割を担った田山花袋は、告白形式とともに、自然の本能や性欲を描写するために、「匂い」や「手淫」に着目したという。「芳子が常に用いていた蒲団」から匂いや感情を次々と「連想」させる「蒲団」(1907)のラストはまさに、蒲団の「テクスチャー」がリアリズムを駆動した名場面ということになるだろう。「女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。…性慾と悲哀と絶望とが忽ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた」…。ここには、ことさら問題化されているわけではない性欲やエロが無造作に描かれている。いまならコンプラ違反かもしれない。それがいかに革命的だったのかについては木村の著書を当たってほしい。
 花袋の小説を読むと、現代の「テクスチャー」の議論が性欲やエロを周到に覆い隠しているのではないかという気がする。「意味」の伝達が「殺風景」な生殖の営み(写生/射精)だとすれば、派生的「連想」には過剰な性欲やエロが生成していると考えることはあながち無理ではない。『源氏物語』を知らない一般人からすれば、「夕顔」から「薄倖の美女」を連想するのは変態的だろう。上記対談では、「身体感覚」や「痛み」にまで議論が展開していくが、性欲やエロにまでは踏み込んでいかない。花袋のような「匂い」を発する「女」――嫌悪を催しかねない嗅覚がおそらく「テクスチャー」の弱点だろう――に出会わないのが、現代の「連想」である「テクスチャー」なのかもしれない。

 最後はやや駆け足で。『フリースタイル』(67号)の特集「江口寿史がしたこと」が今月の一推しである。編集部のコーディネートによる、江口寿史友利昴の対談。2025年10月、江口の作品の中に雑誌の写真をトレースして作られたものがあることが発覚し、SNS上で江口が炎上する事件があった。「トレパク」とも揶揄されたその手法を起点に、創作物のあり方が法的・商業的観点から議論される。法務・知的財務に携わってきた友利が逐一挿入する豊富な具体例があるので、初心者でも分かりやすい。とにかく権利を盾に創作物を批判すればよしとするSNSの世論、そして複雑な権利関係の中で創作物の可能性を引き出すスタンスも好感が持てる。クリエイターと法務、企画媒体の理想形がここにあると思った。
 『小説トリッパー』大澤聡「『小説トリッパー』の三十年を読む」もあげておこう。長瀬海によるインタビュー・構成をもとに著者の大澤が加筆修正したもの。2025年夏季号・秋季号・2026年春季号の三話連載がこのたび完結して一気読みした。雑誌の自分史という形式がユニークだが、1995年創刊以降の足跡をたどりながら、当時の文学全般の歴史を照射する著者の手際が痛快である。部分から全体をキャッチする。これはもちろん大澤の力技によるところだが、『小説トリッパー』の特異性、つまりメジャー文芸誌から少し外れたところにポジショニングしていたからでもあるだろう。
 荻世いをら『彼女のカロート』(2026・4)がフィルムアート社から刊行された。新シリーズ「First Archives」の一作目。「First Archives」とは、倉本さおり・滝口悠生・町屋良平が選者となり、現在入手が困難になっている小説作品の中から読み直されるべきものを刊行していく試みだという。町屋の小説批評のプロジェクト「小説の死後――(にも書かれる散文のために)――」の一環で行われた座談会「文芸批評は断絶したか 小説の死後の未来」(町屋良平×滝口悠生×倉本さおり、司会:水上文)から誕生したのではないかと推察される。
 Twitter(現X)で荒木優太が、本書解説に千葉雅也と江南亜美子が担当しているのに対して、選者が分担した方がよかったのではという発言(5月2日)をしていた。私は選者以外でもよいとは思うが、やるなら別添リーフレットにした方がよいのではという立場である。瀬口真司の第一歌集『BEAM』(2025・12)には瀬戸夏子・大森静佳・木下龍也による別添リーフレット「栞」が挿入されていた。こんな感じ。まあでもこれは価値観の違いでしかない。以前も絓秀実と丹生谷貴志のコレクションの解説をめぐってそれっぽいことを書いて謝罪したことがあるが、関係者を批判するつもりはまったくない。作品が読まれるための工夫をしたいという気持ちはよく分かる。いずれにせよ、文学史に配慮した当該シリーズの心意気に共感するし、応援している。

 さて、おそらく誰にも読まれていないだろう時評も今回でまる一年を迎える。一年を区切りとするなら最終回となるだろう。どうするかはまだ決めかねている。
 小説をめぐる言説や話題が中心だったが、途中から現代詩を入れ、エッセイ、日記、短歌や俳句などを入れたことがよかった。何よりネタが尽きない。とくに短歌や俳句、エッセイ・日記あたりはいくら批判的なことを書いても何らかの応答をしてくれるなどウェルカムで、とても勇気付けられたことを記しておこう。エッセイ・日記はある意味新参ジャンルということもあろうが、短歌や俳句は創作が批判や批評とセットで、呼吸をするように身近なものとしてあるのかもしれない。もちろん、どのジャンルであっても部外者からの批判を快く思わないことは理解できるし、責めるつもりはまったくない。彼らにしてみれば見当外れの批判もあっただろう。とはいえ、日々勉強で、楽しい一年だった。こっそりとでも読んでくれていた人がいるなら、感謝したい。

白いツツジの隠しきれない赤

▶中沢忠之。1972年生。凡庸の会。文学+WEB版編集人。感情レヴュー

いいなと思ったら応援しよう!