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見たいものしか見たくない時代の文芸コラム(第六回)

11月 文学のパフォーマティヴィティ・ラッセン参考文献問題・俗悪と能天気と粘着質

 先月、町屋良平の小説批評を紹介したが、今月それと対抗する評論が発表された。李琴峰「これからの「日本文学」のために(前編)――日本文学のクィア表象について」(『小説トリッパー』秋号)である。李は町屋に言及しているわけではない。しかし対抗的な立場にあることは明らかである。町屋の言葉を使えば、「社会的マイノリティ」を扱う小説と「言語的マイノリティ」を扱う小説があるとして、町屋は後者の側に立ちながら、両者を対立的に論じた。この対立は「何を書くか」と「どう書くか」に置き換えられる。「何を書くか」の「何」は色々あるわけだが、この十年くらいはとりわけ「社会的マイノリティ」が支配的な影響力を持ちえてきた。「何を書くか」=「社会的マイノリティ」。「どう書くか」を「言語的マイノリティ」というやや変わった表現で言い表すのも、その影響力を意識しているからだろう。
 そして町屋は「社会的マイノリティ」において「何を書くか」が支配的になる時期を2010年代半ばとする。李も同じような文学史の見取り図を示しつつ――2010年代半ばは町屋と李の文壇デビューにあたっている――、町屋とは逆に「社会的マイノリティ」優位な現状を高く評価するのである。李自身が日本語非母語者でありレズビアン当事者であると述べているのもうなずけよう。
 もちろん、以前も「社会的マイノリティ」を対象とした文学作品はそこそこあった。しかしそれはキャラクターの「属性」として用いられていただけで、2010年代半ば以降「アイデンティティ」の積極的な表明として機能しているというのが李の主張ポイントである(「属性」と「アイデンティティ」は『文学+』4号(2024・9)の拙稿「文学は正義 ‼」における筒井康隆と笙野頼子の違いに近い)。ここでは作中のキャラクターよりも、作家の「アイデンティティ」が問われている。だとすれば、現代の「社会的マイノリティ」では、「何を書くか」でも「どう書くか」でもなく、「どう演じるか」が課題になっているとはいえないか。これはいうまでもなくジェンダー(クィア)のパフォーマティヴィティに関わってくることだが、たとえば町屋が高く評価する鹿島田真希が、ストーリー(の信憑性)を立ち上げる――あなたは私の語りを信じてよい!――ナレーション(言語)のパフォーマティヴィティに賭けていたことを知れば(拙稿「メタフィクション批判宣言――鹿島田真希論」『早稲田文学』2010・1参照)、意外にも「どう書くか」と「何を書くか」は接近しているともいえるだろう。いずれにせよ、李の後編が待たれる。

 小峰ひずみ『群像』(11月)「炎上と音楽」を寄せている。最近の小説やマンガ(『アザミ』『推しの子』『推し、燃ゆ』)を演劇的な事象として論じるものである。そこで重要視されるのは、現代はSNSに見られるように観客層が増大し、影響力を増したという点である。ゆえに小峰は、観客たちの倫理と技法の練り直しが求められるとする。
 先ほど見た、李の「属性」から「アイデンティティ」への変化は、演者のパフォーマンスへの注目(「どう演じるか」というアイデンティティ・ポリティクス)という形で、観客層の増大と対応しているだろう。ならば演者(作家)もまた現代にマッチした倫理と技法が求められているのではないか。旧来の文芸誌制度に依存している限り、演者としてのアイデンティティをことさら問う必要はないし、観客に向けて派手にパフォーマンスを演じる必要もさしてない。他方、独自のアイデンティティのもと読者を巻き込むパフォーマンスをしたいなら、新たな倫理と技法を身に付けないといけないが、それは炎上――もしくはだだ滑り――とつねに背中合わせである。

 先頃、第一回永井荷風文学賞の受賞作発表があり、その選考過程が『三田文學』(夏・秋合併号)に掲載された。当該賞の特徴は、文学に関わるオールジャンルが選考対象となる点である。選考委員は、作家のみならず評論家や詩人、劇作家が参加している。候補作は各選考委員から選出されるので、強いカードを出せば勝ちとなるわけだ。第一回のバトルは、評論から2作、小説から2作、戯曲から1作出された。宇野常寛『庭の話』(蜂飼耳推し)に続いて江本純子『真夜中に寂しくなったときに観たい演劇』(岡田利規推し)が落ち、最終的に市街地ギャオ『メメントラブドール』(金原ひとみ推し)と乗代雄介『二十四五』(松浦寿輝推し)、そして受賞作となる田中純『磯崎新論』(安藤礼二推し)の決戦となる。理由は述べないが、さすがに気の毒に感じてしまった。
 試みは悪くないと思う。しかしオールジャンルの比較はやはり難しい。選考委員が戸惑いを示している通りである。とくに詩と戯曲は今後も苦戦を強いられるだろう。今回は詩がなかったが、選考委員が戯曲の読み方に苦戦しているように、これらのジャンルの読み方をほとんどが知らないからだ(もちろん私も)。そして詩や戯曲は上演性やパフォーマンスと深く関わるジャンルでもある。つまり作品だけで完結するものではない。小説や評論に比すると、より場所や観客の存在が不可欠なので、作品単体の評価が原理的に困難なのだ。
 いずれにせよ、荷風賞が各ジャンルの読み方・楽しみ方をマスターするきっかけになればよいかもしれない。未刊行の『真夜中に寂しくなったときに観たい演劇』が収録されているのは役に立った。ちなみに戯曲の読み方は、渡辺健一郎の「戯曲の外の方向決定ディレクション――文字の/による配置を読むことについて」(『現代思想』2024・9)が参考になる。

 異なるジャンルの衝突といえば、ラッセン参考文献問題だろう。事の発端は、ラッセン研究の第一人者ともいえる原田裕規が、篠田節子の小説『青の純度』(2025・7)を、書評で批判したことによる。小説のプロットが、先行研究のアイデア――詐欺まがいの販売方法とごっちゃにして過小評価されてきたラッセン作品を再評価する等々――と類似しているのに、参考文献の項目に記載されていないのは、いったいどういうことなのか? その批判の証拠として、原田は編著者として関わった『ラッセンとは何だったのか?』(2013・6)を提示してみせる。

 リアクションはいくつかの段階に分けることができる。まず書評がポストされたTwitter(現X)上では、原田に同情する声がいっきに溢れた。次に、やや深読みともいえる、権利関係の見解が散見される。篠田が参考文献にラッセン関連の著書を盛り込まなかったのは、ラッセンからのクレーム――名誉権などの権利侵害――を恐れたからではないかと。いずれにせよ、篠田が悪役(原田本を読んだのに意図的に言及を避けている)である点は変わりないのだが。
 このようにSNSでは全体的に原田擁護派が優位な状況において、今度は篠田側からの反論が現われる。『青の純度』の出版社・集英社が、篠田は原田の著書を読んでいないとし、さらに原田の書評を一方的な意見として「遺憾」とする(口調は丁寧だが内容が)強めな批判を展開する。ちなみに、Amazonのレビューでは、4.3(11月1日時点)と高評価なので、SNSとは無縁な読者には影響を与えていないといえそうだ。

 集英社の反論はSNSでは火に油であったが、原田がみずから批判を収束。さらに、作家を擁護する立場から、原田の主張を批判的に検証する加藤晃生のブログ記事が火消し役として登場したこともあって、騒動は沈静化していった。

 …と書き出してみると、いまさら私が書き足すことなどなさそうではある。いちおう時評に書こうと思って双方の著書を買って読んだ手前、元など取れないが少し書いておきたい。
 まず、ラッセンの権利問題を篠田が気にしていたということは、ありえない。読めば分かる通り、小説では「ヴァレーズ」と呼ばれるキャラクターがラッセンをモデルにしていることは一般的に理解されるレベルである。金髪のロン毛まで寄せておいて、シラを切るのは無理だろう。プライバシー権(と名誉権)の侵害が認められた柳美里『石に泳ぐ魚』のモデル問題を引くまでもない(モデル特定の要素は顔の腫瘍や父親の属性など限定的であった)。むしろ、ここまでがっつりラッセンをモデルにしておいて、日本に来ればセックスザンマイだったみたいな根拠不明の――かりに根拠があったとしてもプライバシー権上グレーな――エピソードを挿入するあたり、権利問題以前に、自作のためなら他者をも貪欲に取り込む作家の強さに唖然としてしまうところがあった。

 その上で、私は上記のようにまとめた。①と③はほぼ同じ。『青の純度』を読めばたやすく解決するのだが、相手が評論なら先行研究としてなんの言及もないのは減点、小説なら参考文献に記載しないといけないというほどのものではない。そんな感じ。確かに、先行研究のトレーサビリティを徹底する評論の世界では落ち度があると指摘されても仕方がないだろう。しかし、たとえば原田のアイデアに近い前半から、後半はストーリーのプロットが離脱していく。類似点が多くを占めるわけではないので、小説に参考文献記載を求めるのは無理がある。
 また、かつて同様に参考文献未記載が問題になった『美しい顔』を類似事例として取り上げる向きがあるが、『青の純度』は『美しい顔』のように一部コピペがあるわけでもない(『美しい顔』のコピペも著作権侵害など法的に問題になるとは考えられなかったが)。原田の勇み足は明らかで、評論のシキタリを小説創作に当てはめた無理が見られる。しかも彼に共感して篠田を道義的に追求したSNSの外野はさらによろしくない。お互い短い人生なので、読まずに批判することもありと思うが、誰かを道義的に難じるときくらいはきょくりょく読もう。
 残るは②。先行テクストをリスペクトしようぜって話。法律だけで割り切れる世界なら、文学なんてなくていいじゃん? そもそも『ラッセンとは何だったのか?』も『青の純度』も、法律や資本の論理で割り切れない何かを問うために、ラッセンをダシにしてまで、倫理や美的な評価に注目したのではなかったのか。ここは評論も小説もノーサイドだ。篠田に寄り添う加藤は、著作権法の観点から、今回のケースがアウトなら「「なろう小説」は全部アウトだし、セカイ系も学園ラブコメもきらら系も新作は作れない」という。法的にはそりゃそうだが、原田は一貫して法の追及などしていない。参考文献の問題にすぎないのだ。しかも、「なろう小説」や「セカイ系」などの成熟したコモンズと今回のケースを同列に扱う感覚にはけっこうな違和感がある。私なら、外野を厳しく牽制しつつ、原田には「遺憾」ではなくリスペクトくらいはするだろう。あとは各自勝手に考えてくれ。むろんリスペクトなどしたくないならしなくてよい。観客が多くジャンルの衝突が起こりやすい現代ならなおのこと、私たちの倫理と技法が問われている。

 最後に、絓秀実の新著『一歩前進、二歩後退』(2025・9)について少し。WEB版では、小峰ひずみに書評を寄せてもらった(「絓、もっとバカになれ!」)。批判的ではあるが、リスペクトに裏打ちされた批判として面白く読んだ。主旨は、「革命」を求めるなら、憲法より民法に注目すべきというものである。しいて批判をしておくと、私くらいの世代以降に顕著なことだが、国家の存在感が希薄だからこその議論だとはいえる。言い換えれば、憲法1条(+9条)を問わなくてよいという発想は、平成以降の民主的な天皇に籠絡された結果ではないか?
 『一歩前進、二歩後退』は、著者による久しぶりの文芸批評である。2000年前後に示されたジャンク文学論以来だろう。ジャンク文学論は、権威に寄りかかりがちな文学を否定して、ジャンクであることを肯定するものであり、当時は中原昌也が賞賛されもした。今回は、柳田国男が影の主役で、ジャンクを包摂するトーテミズム文学論といった様相を呈している。トーテミズムとは、絓の議論に即していえば、王殺し後の社会――その徹底がジャンクにほかならない――を秩序立てるシンボルであり、象徴天皇は格好の例だろう。ただ本書におけるトーテミズムの射程は、戦後天皇制にとどまらず、資本の包摂にまで及んでいると見るべきである。
 実は絓は、直近で花田論(「花田清輝の「党」」、『群像』2022・3)を書いている。それが本書に入らなかった(『砂のペルソナ』復刊に掲載予定)のがやや残念と感じている。花田論は、読みようによっては、王殺し(1968年「(反?)革命」)を成し遂げた(そうしてトーテミズムを完成させた)自分たち世代を懺悔するみたいな終わりになっていた。本書は1945年の「八月革命説」(宮澤俊義)にばかりフォーカスが当たっているので、花田論があれば、王殺しをめぐるもう少し幅広い議論を楽しめた気がするのだが。
 ところで、『一歩前進、二歩後退』は大江健三郎論が過半を占めている。ただし絓の議論でカギを握っているのは、本書ではサブ的存在である、金井美恵子の「俗悪」と田山花袋の「能天気さ」である。両者ともに文学的抵抗として、トーテミズム(戦後民主主義)を批判しえていると絓は考えているようだ。図式化すれば、「俗悪」は、何かがジャンクであることを暴く批評性(脱構築)をそなえ、「能天気さ」とはジャンクそれ自体である。
 刊行直後に出版社内部のいざこざで出版を中止に追いやられ、このたび別の出版社から再刊されることになった樋口毅宏『中野正彦の昭和九十二年』(2022・12→2025・10)には、この「俗悪」な批評が埋め込まれているのではないか。樋口本は、SNSなどの引用と虚構の日記、虚実を織り交ぜながらテロ(王殺し?)に向けて進んでいく。夢の中のテロを描いた深沢七郎『風流夢譚』(1960・12)との類似を指摘しておくべきだろう。絓による書評が本書に掲載されているので、金井論とあわせて読んでほしい。
 金井は――『風流夢譚』の解釈を介して――みやびな和歌を俗悪なものに転化(脱構築)したと絓はいうが、樋口はSNSの俗悪さ・能天気さそのものに擬態した点が特異である(だから作中の差別発言を真に受けてヘイト本とみなす者もいたわけだ)。だとすれば、文学はもはやSNS(世間?)の俗悪さ・能天気さには太刀打ちできないのではないか。筒井康隆の「ブラックユーモア」――俗悪か能天気かは問わぬが――ですらいまや作家の特権でもなんでもない。文学が今後も批評を保とうとするなら、俗悪と能天気さから撤退し、啓蒙に徹するしかないのかもしれない。
 しかし、SNSに欠落しているものもなくはない。タイトルに採用された「一歩前進、二歩後退」は、議論の中でたびたび登場するが、文脈によって意味が変わる。わりとはっきり打ち出されるのは金井論においてだ。「性急さ」に対する批判である。そこから絓は、金井のことを「詩人ではなく小説家を自任した」と評するが、小説家にだっていくらでも性急なタイプがいるのだから、それはやや短絡的だろう。いずれにせよ、性急な俗悪や能天気さには牛歩で応じるのも悪くない。『中野正彦の昭和九十二年』は出版中止となったが、連載を開始したのが2018年、ようやく単行本となったのが22年だった。出版中止後はすっかり忘れ去られていたところ、三年後に復活を遂げたのである。ここには、なるべく多くを売りたいとか評価を得たいとかいった欲望とは別種の、得体の知れない粘りを感じずにいない。
 そういえば、先日、市川沙央から批判(というか私が誤解をしている旨の指摘)を受けた。詳しくは、市川のブログ記事「朝日新聞オピニオン欄に寄稿しました」(9月27日)を読んでほしい。

 私は市川による朝日新聞の記事を読んでTwitter(現X)に批判的な内容をポストした。それが誤解であることを示すために、時系列に沿って詳細かつユーモアをまじえながら経緯が説明されている。そして市川はこのような経緯にいたったのは自分が「粘着質」だからだという。逆に私がそのような経緯の可能性(自分の解釈以外の可能性)を全く考慮しなかったのは、性急だったからだろう。
 市川沙央氏と朝日新聞にはあらぬ疑いをかけたことをここに謝罪いたします。

志摩スペイン村のコスモス

▶中沢忠之。1972年生。凡庸の会。文学+WEB版編集人。

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