【映画】「100万カットの記憶」感想・レビュー・解説
凄く良かったわけではないけど、なかなか興味深い人物だった。
本作で取り上げられているのは、報道写真家の桑原史成である。現在90歳のようだ。それでも、自らカメラやレンズを持って歩き、水俣なり韓国なりに取材に行く。メチャクチャ元気である。長年吸ってるタバコのせいで血管が詰まったりしたようだが、まだまだ写真家としてやっていきそうな感じだ。
彼は1960年に東京農業大学を卒業したようだが、農業の方面に進むつもりは元々なかったらしい。中学の頃に父親にカメラを買ってもらってから腕を磨いていたそうで、写真で身を立てるつもりでいたようだ。
そんな彼の転機となったのが、まだ写真家として世に出る前、1960年5月10日のことである。電車の中で週刊朝日を読んでいた彼は、そこで初めて水俣病のことを知ったのだ。そうして彼はすぐに、水俣病を最初のテーマに決め水俣市に張り付いたようだ。
当時は、大手メディアが水俣病に注目していなかったという。何故なら、東京オリンピックが間近に迫っていたからだ。そのため、九州の片田舎の出来事は取り上げられなかったという。その間隙を縫うような形で、桑原史成は水俣病を撮り続けたのだ。彼は水俣病の写真で、1962年に報道写真家としてデビューし、その年の日本写真批評家協会新人賞を受賞する。
当時水俣病患者には、取材を断る人も多かったようだが、ある人物の証言によると、桑原史成は住民と一緒に漁に出たり飯を食ったりして信頼関係を気づいてから写真を撮るようにしていたという。そういうこともあって受け入れられていたのだろう。
水俣病の写真に関して桑原史成が口にしていたことが印象的だった。
【衝撃的な写真は確かにインパクトを与えるだろうが、それは一過性のものに過ぎないかもしれない。それよりも穏やかなカットの方が、人の心を動かす可能性があると思う。】
そして、その話と共に映し出されたのだ、水俣病患者である少女の目元付近をアップにして撮った写真だ。確かに写真だけ見ていたら、水俣病患者だとは分からない。そしてだからこそ普遍的な力を持つ写真になっているなと感じた。
水俣病は彼にとって報道写真家としてのデビューであり、だから、経験もない中でそんな感覚に至っていることに驚かされてしまった。その後の人生を踏まえてみても、彼にとって報道写真家は天職だと言っていいだろうと思う。ちなみに彼にとって水俣病は、終生のテーマだそうだ。
さて、本作は実は韓国が作った映画である。エンドロールも韓国語だった。では何故韓国で桑原史成の映画が作られたのか。桑原史成の妻が韓国の人なのだが、それは大きな理由ではない。
作中で桑原史成は、「正確には数えられないが、これまで撮ったのは100万カットに上ると思う」みたいなことを言っていた。これが邦題の由来だろう。そしてその後、「その内の十数万カットは韓国を撮ったもので、今まで撮った写真の中で韓国が最もウェイトが大きいと認識している」と話していた。
彼が何故韓国にそこまで注目していたのかはあまりハッキリ語られなかった気がするが、「分断国家である韓国の行く末に関心がある」みたいなことを言っていたように思う。
ただ、激しい反日感情渦巻く最中には、「何故日本人が韓国を撮るんだ」と罵倒されたこともあるようで、さらに、韓国のブラックリストに載せられ、入国や撮影に制限が加えられていた時期もあったという。それでも彼は韓国を撮り続けた。
韓国取材中のエピソードとして面白かったのが、光州事件に関するものだ。当時彼は別の取材で韓国入りしていて、光州からは離れたところにいた。で、当時日本では「光州で大変なことが起こっている」と報じられていたため、妻は「夫が光州に行かないように釘を差さないと」と考え電話したらしいのだが、その時点で桑原史成は光州事件のことを知らなかったという。国内では恐らく報道が規制されていたのだろう、光州事件が起こる前に韓国入りしていた彼は、それ故に光州事件について知るのが遅れてしまったそうだ。妻が電話しなければ、知らずにそのまま帰国したのかもしれない。
そんな妻は、一度取材に行くと生きてるのか死んでるのかも分からないまま待つ生活に苦労させられたようだ。ベトナム戦争の取材の時などは、手紙でのやり取りも出来なかったわけで、本当にただ待つしかなかったという感じのようだ。彼女は時々韓国に帰っては、母親や兄に「もう無理、韓国に帰りたい」と言おうと考えていたようだが、結局そういう話を切り出すことはなかったそうだ。本作で映し出される夫婦は、とても良い感じに見えた。桑原史成は、妻とは出会って数回でプロポーズしたらしい。一目惚れだったそうだ。
途中で語られて驚いたのが、彼の右目が義眼だったこと。子どもの頃、木炭バスに乗っている時、木炭の辺りでふざけていたら蒸気が飛んできて、それで失明してしまったという。全然そんなふうには見えなかったのでびっくりした。まあ、カメラのファインダーは片目で覗くのが普通だから、実質的な支障はなかったんだろうが、にしても、片目が使えない状態でカメラマンとしてやっていくのには色々不具合があったんじゃないかなという気がする。
そんなわけで、凄く良かったわけではないが、「こんな人物もいるんだなぁ」と興味深く感じさせられた。何にせよ、キャリアの最初から高く評価され、そしてその仕事を90歳に至る現在まで精力的にこなし続けられているというのは、凄く幸せな人生だっただろうなという気がする。まあ、奥さんは大変だったと思うけど。
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