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傷だらけで、ベタベタな自我

 いつも物事に真摯に向き合っていらっしゃるvan様とてれまこし様が、ちょうど同じ頃に「自我」をテーマとする論考を投稿していらっしゃった。

1.傷だらけで、ベタベタな自我

 vanさんは、一般に混同されがちな自我と個性を明確に区別する。個性とは、好きな色や話し方の癖、価値観の傾向といった、外から識別できる特徴である。これに対して自我とは、「私」という視点そのもの──自分の思考や感情を対象化し、「これは私だ」と線引きできる能力──を指す。そしてこの自我は、メタ認知、すなわち「自分の認知を認知する力」によって生まれるという。メタ認知が働くとき、人は自分の内面を一段高いところから観察する。この観察する主体にこそ自我の核がある、というのがvanさんの基本的な考えである。

 さらに重要なのは、この力が単独では十分に育たないとvanさんが考えている点である。他者との関わりの中で、とりわけ批判や悪意といった攻撃的でネガティブな刺激を受けたとき、あるいはそれらを発したとき、メタ認知は強く働く。ポジティブな評価が「心地よい確認」に終わりやすいのに対して、批判や悪意は自己イメージに傷をつけ、防衛や内省を促す。「相手が言う私」と「自分の感じる私」とのずれを意識せざるを得なくなり、その過程で自我の輪郭が刻まれていく。vanさんは、この働きを、悪意が自我を削り出す「彫刻刀」のようなものだと表現している。

 vanさんはさらに、悪意そのものにも違いがあると論じる。直情的・本能的な悪意には、必ずしも高度なメタ認知が伴わない。他方、社会的な皮肉や洗練された批判には、自分の中で醸成された「正しさ」、他人への観察力、社会的コードの認識、それらのあいだのギャップを捉える能力が必要になる。そして、社会的コードを学習する過程では失敗体験が重要であり、その失敗を単なる不運や他者のせいにするのではなく、自分自身の認識のずれとして引き受け、内省することがメタ認知を深めるという。

 そのうえでvanさんは自らの議論を修正し、悪意や批判そのものに人間性を感じていたわけではなかったのではないかと述べ直す。むしろ、悪意という形で現れる高度なメタ認知的知性、それを支える知識、そして失敗からの内省にこそ、自我の芽生えを見ていたのではないか。悪意を発することなく深い内省と観察力を持つ人にも同じ感覚を抱く一方、皮肉の型を単に模倣しただけの人には「作られた人間性」のように感じるとも述べる。そして最後に、「自我はメタ認知によって生まれ、メタ認知はしばしば悪意や失敗によって鍛えられ、その過程で育った複雑な知性と理性こそが、人間の輪郭を浮き彫りにする」とまとめている。

 てれまこしさんの「AI時代に自我(エゴ)をもつ意味」は、AIとのコミュニケーションを「ヌルヌル」、人間同士のコミュニケーションを「ベタベタ」と表現するところから始まる。AIとのやりとりでは、ほとんど時間差なくそれらしい答えが返り、こちらの期待に応じて相手の立場も修正される。これに対して人間同士では、誰かが何かを言うたびにどこかに引っ掛かりが生じ、その引っ掛かりを処理しなければならない。人間同士のコミュニケーションがAIとのやりとりに比べて非効率で「ベタベタ」しているのは、そのためだという。

 てれまこしさんは、このAIの「ヌルヌル」を、AIが人間ではないことの一つの証拠として捉える。AIには自我がないため、相手や問いに応じて自分を瞬時に作り変えられる。「守るべき自分」がないからである。これに対して人間は、まったく変化しないわけではないものの、なかなか変わらない。人間には「守るべき自分」があり、自我が外部から自分を変えようとするものに抵抗するという。てれまこしさんは、その背景に「傷つきやすい身体」を見出し、身体の維持・保護をまず考えるようにできているのではないかと述べる。そして、情報を受け取ってから実際に変化が現れるまでには時間差があり得ることから、「自我とは自分の不変の核ではなく、この時間差のことであるとも言える」と論じている。

 てれまこしさんは、この人間の「変わりにくさ」を単なる欠陥とは捉えない。人間には自分可愛さ、不安、嫉妬、利害、おもねり、怠惰などがあり、それによってコミュニケーションが滞るため、機械工学的な観点から見れば人間の頭脳はAIより非効率かもしれない。しかし、そのような「人間的なバグ」が本当にバグなのか、それとも生命体として生きていくための能力なのか、と問い直す。

 そのうえでてれまこしさんは、人間が環境に適応するだけでなく、自分の望みに沿って環境そのものを作り変えていく点に注目する。自我がなければ、人間は外部からの刺激に反応して適応していくだけになる。しかし、自我を持つ個体は外部からの力に抗って自分を保とうとする──「耐える」のである。そして、そのために自分ではなく環境の方を変えようとすることが、人間の「改造力」を生み出すという。

 もっとも、人間も長い時間の中では大きく変化する。ただし、変化が目に見えるようになるまでには時間がかかることが多い。てれまこしさんは、この時間差によって、人間は環境の変化に一方的に流されることなく、自分のペースで変化を管理できるとする。そこから、「自我とは適応力と改造力のバランスである」という命題が提示される。自我は、デカルト的な個人の内部にある不変の実体でも、フロイト的な「自分の内部に埋め込まれた社会」でもなく、外部からの圧力に反応して変化しながら、同時に抵抗するものとして捉えられている。

 この構造は社会にも及ぶ。社会環境においては、他人の自我にとって自分の自我もまた環境の一部になる。そのため、人間は相手に適応すると同時に、相手を自分に適応させようとする。個人の中に適応力と改造力があるように、社会にも適応する者と改造する者がいる。ただし、それは固定された個人の属性ではなく、文脈によって同じ人が適応者と改造者の役割を行き来する。てれまこしさんは、このバランスによって社会の進歩のペースも左右されると論じる。

 さらに、所与の社会環境を改造するには、他者の内なる自我を変える必要がある。そのためには、広い意味でのコミュニケーション──対話に限らず、他者に「言うことを聞かせる」ための作用──が関係する。人間の社会環境がどうなるかはコミュニケーションに大きく左右されるため、自然科学に比べて社会に関する科学が自らを改造するだけの水準に達していない理由の一つも、こうした人間関係の未定性にあるとする。

 最後に、てれまこしさんは、このような自我観から、ある種の保守主義的な倫理が導かれると論じる。あらゆる進化や進歩を無条件に受け入れて古い自分を捨てるのではなく、自分自身を含めた変化の管理者となる。変化そのものを否定するのではなく、急激な変化を避け、漸進的に進み、早急に結論を出さず、時間をかけてコミュニケーションを行う。このような自我のあり方は、社会の変化の速度が個人を上回りやすい現代において意義を持ち、AIの出力についても、一方的に受容したり拒否したりするのではなく、自分たちの生に資するものを選択的に選び取るために必要だと論じている。

 両者の論考には、それぞれ異なる問題意識がある。vanさんは、他者からの批判や悪意、失敗などを契機として自分自身の認識を対象化し、そこに生じたずれを内省することを、自我の形成やメタ認知の深化と結びつける。他方てれまこしさんは、AIとの比較から人間の自我を「守るべき自分」として捉え、外部からの刺激に対してすぐには変化しないこと、そしてその変化の遅れが適応だけでなく環境を改造する力につながることを論じる。両者ともに、外部との関係から切り離された孤立した実体として自我を論じているわけではない。ただ、vanさんが自己認識・内省・知性の側から自我を考えるのに対し、てれまこしさんは、自我が持つ抵抗、時間差、環境への働きかけの側から自我を考えている点に違いがある。

2.主我、客我、他我

 両者の自我観は、一見すると反対の方向を向いている。それぞれの名前をとって、便宜上「van的自我」と「てれまこし的自我」と呼ぶなら──非常に乱暴に、細部を捨象して要約するなら──van的自我は変わりやすい自我であり、てれまこし的自我は変わりにくい自我である。

 van的自我は、まず受動的な自我として措定される。批判や悪意によって傷つけられる被害者である。自我は傷つく。「傷」や「彫刻刀」という比喩は、他者の働きかけによって輪郭を浮かび上がらせるものとして自我を描き出す。強固な殻のようなものはなく、外部からの刺激を完全に跳ね返す性質もない。一見すると、自我の「脆さ(fragility)」が際立つ。しかし重要なのは、傷つきやすさがそのまま自我の破壊を意味しない点である。「彫刻刀」によって削られることで自我の輪郭が現れる、というもう一つの意味がそこにはある。自我は傷つけられると同時に形作られる。自我を傷つける批判や悪意は、単なる鈍器ではなく、鋭く尖ったものとして描かれる。彫刻刀によって傷つけられたvan的自我は、批判的な自己陶冶を通じて、ときに自身を傷つけた刃物を超える「鋭利さ(sharpness)」を帯びるかもしれない。

 他方、てれまこし的自我は、「ベタベタ」という擬態語を通じてある種の保守性を浮かび上がらせる。人間には壊れやすい身体があり、これを守ろうと抵抗する。保守の対象は身体のみならず、自我自身にも及ぶ。ただし、こうした変わりづらさは、いわゆる「しなやかさ(resilience)」とは性質が異なる。それは、高いフレームレートで「ヌルヌル」と動く仮想の現実に対し、生の現実がかえってカクついてしまう不思議さであり、モゴモゴと言い淀んでしまうときに似た、傍から見てムズムズするような「みっともなさ」を伴った粘性(viscosity)の自我である。この粘性は、外部環境との間に「ベタベタ」とした引っ掛かりを生じさせる。そこで生じる摩擦(friction)が、粘性の程度に応じて相応の熱を帯びれば、外部環境を改造するエネルギーへと転化されうる。

 興味深いのは、性質において相当に異なるこの二つの自我が、いずれも他者の存在を前提とし、他者からの働きかけに応答する契機を含んでいる点である。van的自我は、自身が受けた傷で自らを鍛え上げ、今度は自らが「彫刻刀」として他者を傷つけうる。てれまこし的自我もまた、人間にとっての外部環境には社会環境も含まれる以上、環境改造の試みは社会やそれを構成する他者にも及ぶ。こうした共通点が生まれるのは、人間がポリス的動物であり、自我の前に「他我」――他者にとっての自我、あるいは「あなたにとってのあなた」――が存在するからだろう。私にとっての自我は、他者にとっては、とりもなおさず「他我」である。自我は「他我」を介して、相互規定的に循環する構造にある。

 「他我」という語彙は、20世紀の社会学者G・H・ミードに由来する。ミードは、自我に「客我(Me)」と「主我(I)」という二つの位相を見た。客我とは、他者から見るところの自我、いわば「あなたにとってのわたし」である。主我とは、その客我を引き受け、それに応答する自我である。他我もまた「他者にとっての自我」である以上、その内部に客我と主我が存在する。

 しかし、なぜ客我が先なのか。英語の格変化になぞらえるなら、主格の「主我(I)」が目的格の「客我(Me)」よりも論理的に後に位置づけられる――この逆転にこそ、ミードを理解する鍵がある。ミードの自我は、目的格から出発する。自我は最初から他者によって対象化された自我であり、独立不羈の自我がまずあってそこに他者が現れるのではない。自我についての認識が成立するためには、自分自身をまるで他者が見るように見ること、すなわち自己対象化(self-objectification)が必要だからである。そのためには、他者の態度を自分自身の中に取り込まねばならない。「私は他者からどう見られているか」「他者は私に何を期待しているか」という視点を自分自身に向けなければ、自我についての認識はありえない――ミードはそう考える。現実の発達段階とは別に、論理的な先後関係としては、自我の認識に先立って他者の存在があることを無視できないのである。

 ミードの議論は、van的自我とも、てれまこし的自我とも整合的である。人間は他者によって傷つけられ、対象化されて初めて、自我について考えさせられる。ミードの客我と主我の関係は、こう見ると、vanさんの用いるメタ認知という概念に近しくなる。しかも、この自己対象化は論理的には無限に続けることができる。他者から見た私を、私が眺める。その私に応答する私を、私はさらに眺めることができる。そして、その私を眺める私を、また眺めることができる──Me→I→Me→Iの往還を続ければ続けるほど、「当初の私」は遠ざかっていく。

 ところが、実際にはそうはならない。人間はAIのように、自己を無限に書き換えていくことはできない。壊れやすい身体があり、そこから生ずる「守るべき自我」があるからだ。身体的な限界ゆえに人間は疲労し、傷つき、いずれ死ぬ。こうした有限性が、客我と主我のあいだで自我が無限に後退していくのを、どこかで打ち止める。身体は、有限性の錨である。変わりやすい自我と、なかなか変わらない自我とは、この無限と有限の緊張関係のうえに生じる、自我の二つの位相なのではないか。

3.「まなざし」と暴力

 ミードの議論をさらに一歩進めるなら、自我にとって他者の存在は、単に自己を形成するための契機であるだけでなく、ある種の暴力性を帯びたものとして捉えられる。ここでいう暴力とは、他者が悪意を持って私に何かをすることではない。むしろ、他者がそこに「いる」という、それだけの事実が、私に自分自身を対象化することを強いる。

 自分だけで完結しているかぎり、私は自分自身を完全に「私」として見る必要がない。しかし他者が存在すると事情が変わる。他者は私を見ることができ、私について何かを考え、私に対して何らかの期待や評価を持つ。私は、その「他者から見られている私」を意識せざるを得なくなる。「私はこう思っている」だけではなく「私は他者からどう見えているのか」と考えた瞬間、私は自分自身を対象として見ることになる。ミードのいう客我(Me)は、この自己対象化の社会的な形式として理解できる。

 したがって、他者のまなざしは、私を単に外側から眺めるだけではない。それは私の内部に入り込み、私が自分自身を見るための視点の一部になる。私は他者から見られている自分を想像し、その想像された視点から、さらに自分自身を見る。ここでは他者はもはや単純な外部ではなく、内面化されたかたちで私の中に残り、私自身を対象化するための視点となる。この意味で、自我は最初から少しだけ「他者に占有されている」。私が「私」と呼んでいるものの中には、すでに「他者から見た私」が含まれているからである。自我は、自分自身だけから作られた閉じた部屋ではなく、他者の視線が入り込んだ部屋なのである。

 この問題を、「まなざし」という概念によって徹底的に考えたのがジャン=ポール・サルトルである。サルトルは『存在と無』において、他者の「まなざし(le regard)」によって自分自身の存在のあり方が変化することを論じた。よく知られた例が、鍵穴から覗いている人物の場面である。覗いているあいだ、その人物は世界に対して行為する主体として存在している。しかし背後に誰かがいることに気づき、「見られている」と意識した瞬間、彼は自分自身を、他者から見られている対象として意識する。主体として行為していたはずの「私」が、他者にとっての対象として現れるのである。

 『出口なし』の「地獄、それは他人である」という言葉も、この文脈から理解する必要がある。これは単に「他人がいると面倒だ」という意味ではない。他者のまなざしによって、私は自分自身を他者にとっての対象として経験する。他者は、私が自分自身について持っていた自由な自己理解を固定し、「他者から見た私」という像の中に私を置く。その意味で、他者は私の存在を拘束する。ここに、他者の存在が持つ暴力性がある。私が望むか望まないかにかかわらず、他者が存在するだけで、自分自身を対象化する可能性が開かれてしまう。他者の視点が入り込み、「あなたにとっての私は何なのか」という問いが発生した瞬間、私は自分自身から少しだけ距離を取らざるを得なくなる。

 しかし、この暴力性を、そのまま悪と同一視してはならない。むしろこの暴力性こそが、自我を成立させる条件でもある。他者のまなざしによって私は傷つき、自己像を揺さぶられる。しかし、その揺さぶりがあるからこそ、私は自分自身を対象として捉えることができる。vanさんのいう「傷」や「彫刻刀」も、この意味では単なる破壊の比喩ではない。自我を傷つけるものが、同時に自我の輪郭を作るのである。ここでは、悪意さえ必ずしも必要ではない。誰かが私を嫌っている必要も、私を批判する必要もない。ただ誰かが私を見ている、その事実だけで、私は「見られている私」を意識することができる。つまり、他者のまなざしは悪意がなくても自我に作用する。

 ここで自我は、奇妙な性質を帯び始める。自分自身を確定しようとすればするほど、自分自身から遠ざかっていくのである。「これが私だ」と対象化した瞬間、その「私」はすでに対象になっている。その対象を見ている「私」をさらに対象化すれば、また別の「私」が必要になる。自我の輪郭を確定しようとする行為が、その輪郭をさらに後退させる。この意味で、自我は幽霊のようなものである。そこにいるようでいて、掴むことができない。姿を見ようとすれば、すでにこちらを見返している。

 しかし、人間はこの無限後退の中へそのまま消えていくわけではない。ここで、てれまこしさんのいう「傷つきやすい身体」が重要になる。身体は、自己対象化の運動とは異なり、容易には無限化できない。疲れれば休まなければならず、空腹になれば食べなければならず、傷つけば痛みを感じる。身体には時間があり、限界があり、最後には死がある。どれほど「私とは何か」と問い続けても、問い続けている身体そのものから逃れることはできない。他者のまなざしによって無限に自己を対象化する自我と、その自我を物理的な有限性へと引き戻す身体とのあいだには、こうした緊張関係がある。

 重要なのは、他者のまなざしによる暴力もまた、単純に排除されるべきものではないということである。批判や悪意は、ときに人を深く傷つける。しかし、他者から完全に切り離され、誰からも見られず、何も言われず、自己を対象化する必要もない状態が、必ずしも人間にとって望ましいとは限らない。むしろ他者のまなざしがあるからこそ、私は自分自身について考え、そのあり方を問い直すことができる。問題は、他者からの暴力性が存在することではなく、その暴力性をどのように引き受けるかにある。

4.摩擦のない世界で、紙は燃ゆる──『華氏451度』

 この問題を極端なかたちで描いた作品として、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』を挙げることができる。そこでは、本を読むことによって生じる異論や不快、葛藤が社会から排除されている。ただし、この社会を単純に「政府が国民から本を奪った社会」と理解するだけでは、その構造の一部を見落とすことになる。作中でビーティーがモンターグに語るところによれば、本の排除は、技術の発達、生活速度の上昇、娯楽の単純化、そして人々が不快なものや対立を避けるようになったことと結びついて進行してきた。やがて本は、複数の視点や矛盾を持ち込み、人々を不安にさせるものとして忌避されるようになる。

 この社会において重要なのは、本の代わりに何が置かれているかである。モンターグの妻ミルドレッドは、家の壁面を覆う巨大なテレビ画面「パーラー・ウォール」に囲まれて暮らしている。彼女はそこに登場する人物たちを「家族」と呼び、番組から送られてくる台詞を読みながらその世界に参加する。ミルドレッドにとって、この架空の「家族」は、現実の夫であるモンターグ以上に身近な存在になっている。パーラー・ウォールの人物たちは、一見すると他者である。しかし現実の他者とは異なり、私の言葉を拒絶することも、私の期待を裏切ることも、私が望まないことを言うこともない。視聴者を楽しませるために存在し、視聴者が参加することさえ番組に組み込まれている。そこには、他者の形をした「抵抗しない他者」がいる。さらにミルドレッドは、「シーシェル」と呼ばれる小型のラジオを耳に装着し、絶え間なく音楽や会話の刺激を受けている。静寂の中に置かれることはほとんどなく、モンターグがパーラーの電源を切ろうとすると、「それは私の家族だ」と反応する。

 この構造は、単純な「他者の不在」とは少し違う。むしろ他者が過剰に存在している。しかし、その「他者」は自我を揺さぶるような他者ではない。いつでもこちらに応答し、こちらを楽しませ、こちらが望む世界を供給してくれる。他者とのあいだに本来生じるはずの否定性が、そこでは消えている。『華氏451度』において問題なのは、他者がいなくなることだけではなく、他者が「他者ではなくなる」ことなのである。

 本は、パーラー・ウォールとは異なる。そこには、すでに死んだ人間や、遠く離れた人間の言葉が残されている。その言葉は読者の期待に応じて変化しない。読者が怒っても傷ついても、作者はそこに現れて答えてくれない。本を閉じることはできても、本そのものを自分の都合に合わせて書き換えることはできない。その意味で、本には「抵抗する他者」がいる。だからこそ本は不快なものになりうる。自分とは異なる考えに出会い、自分の価値観を疑わされ、当然だと思っていたことを問い直さなければならない。しかし、その不快さこそが自分自身を対象化する契機になる。私は本に反論し、その内容に怒ることができる。それによって、私は自分が何を信じているのかを知ることになる。

 これに対してパーラー・ウォールは「家族」である。他者と対峙する代わりに、他者のようなものに囲まれることができる。現実の人間関係に伴う摩擦を避けながら、他者に囲まれているという感覚だけを得ることができる。ここには、他者の完全な排除とは異なる、より微妙な他者性の消去がある。この点から見れば、『華氏451度』の社会は「誰も傷つけない社会」として読むこともできる。ただし、それは人間が互いに優しくなったという意味ではない。むしろ人間が互いに傷つけ合う可能性そのものを避けるために、不快なもの、複雑なもの、矛盾したもの、異論を含むものを生活から取り除いているのである。結果として人間は傷つかなくなる。しかし同時に、自分自身の認識を揺さぶられる機会も失っていく。

 このことを象徴するのが、モンターグが老婆の家を焼く場面である。本を所蔵していた老婆は、家から逃げることを拒み、自ら本とともに焼かれることを選ぶ。ここには明らかな暴力がある。しかし、この場面を単純に「悪意ある者が無辜の老婆を迫害する」という構図だけで読むと、別の恐ろしさを見落とすことになる。昇火士たちは、個人的な憎悪から老婆を殺しているわけではない。彼らは制度の中で与えられた仕事を遂行しているのであり、その仕事が何を意味するのかについて、必ずしも立ち止まって考えているわけではないのである。

5.他者の不在と凡庸な悪

 ここで、アーレントの「凡庸な悪」という問題が接近してくる。アーレントがアイヒマンについて問題にしたのは、悪を行う者が必ずしも悪魔的な意志や巨大な悪意を持っているわけではないということであった。役割を遂行し、規則に従い、決められた言葉を使い、自分の行為について考えることを停止する――そのような「無思慮」が、重大な悪を遂行することがある。

 ここでは、vanさんの議論と『華氏451度』が反対方向から接続される。vanさんにとって、批判や悪意は自我を傷つける。しかし、その傷は自分自身について考える契機にもなる。失敗の原因を自分自身の認識のずれとして引き受けるならば、人は自己を対象化することができる。ところが『華氏451度』の社会では、そのような自己対象化を引き起こすものが、生活の中から次々に取り除かれている。恐ろしいのは、したがって、悪意が極端に強くなることだけではない。むしろ、悪意すら必要としない暴力が可能になることである。誰かを憎んでいる必要はない。誰かを傷つけたいと思う必要さえない。ただ、自分に与えられた役割を遂行し、その行為を他者の立場から見直すこともなく、自分自身の行為を対象化することもなく、手続きだけを遂行する。そのとき、暴力は極めて滑らかになる。

 ここに、他者のまなざしをめぐる議論の反転がある。他者のまなざしは、私を恥じさせ、怒らせ、反発させ、自分自身を対象化させることで私を傷つける。だからといって、そのまなざしをすべて排除すればよいわけではない。他者のまなざしを完全に排除した世界では、私は傷つかなくなる代わりに、自分自身を問い直す必要もなくなるかもしれない。そして、もっとも恐ろしいのは、そこに「他者のようなもの」まで与えられている場合である。パーラー・ウォールの「家族」は人間関係の形をしているが、その関係には抵抗がない。会話のように見えて、実際には自分を揺さぶる他者との対話ではない。他者の存在によって生じる摩擦を避けながら、他者に囲まれているという感覚だけを享受することができるのである。

 そう考えるなら、『華氏451度』の世界において消去されているのは、単に本ではない。異論、沈黙、退屈、孤独、葛藤、そして自分とは異なる他者に出会う可能性である。人間はそれらから解放される代わりに、自分自身を問い直す契機までも失っていく。

 ここで、てれまこしさんの「ベタベタ」という言葉に戻ることができる。人間同士のコミュニケーションがベタベタしているのは、人間が不完全だからである。互いにすぐには理解できず、相手の言葉に傷つき、反発し、言い淀み、説得し、妥協する。その非効率さは人間の欠陥のようにも見える。しかし、その「ベタベタ」は、他者が本当に他者であることの痕跡でもある。摩擦がなければ運動は滑らかになる。しかし摩擦がなければ、そもそも足を踏み出すこともできない。相手が抵抗するからこそ私は相手に働きかけ、相手が私の思い通りにならないからこそ自分の言葉を選び直し、相手が私を否定するからこそ自分が何者なのかを考える。摩擦は運動を妨げると同時に、運動を可能にする。

 この意味で、自我にとって必要なのは「傷つかないこと」ではなく、傷ついたときに自分自身を問い直すことができる余地なのかもしれない。批判や悪意は、その余地を与えることがある。しかし、批判や悪意そのものを目的化する必要はない。重要なのは、他者によって自分自身の認識が揺さぶられ、その揺さぶりを引き受けることができるという構造そのものである。逆に、その構造そのものが消えてしまったとき、暴力はかえって滑らかになる。誰も反論せず、誰も問い返さず、誰も自分の行為を他者の側から見直さない。そのような環境では、暴力は「悪意」という感情すら必要としなくなる。誰かを傷つける者が自分の行為を意識しなくても、制度や環境がそれを自動的に遂行してくれるからである。

 だからこそ、『華氏451度』の恐ろしさは、本が焼かれることだけにあるのではない。本を焼いている者たちが、必ずしも自分たちの行為を暴力として経験していないことにある。そして、その社会が単純な暴政だけではなく、「不快なものをなくして幸福になりたい」という欲望によっても支えられていることにある。他者は私を傷つける。しかし、他者が私を傷つける可能性を完全に消去しようとすると、他者そのものが消えていく。残るのは、私を肯定し、私を楽しませ、私の期待に応じ、私を決して本当の意味では否定しない「家族」である。それは一見すると優しい世界だが、その優しさの中では、自分自身を問い直すための摩擦もまた失われている。

 ここに、傷だらけで、ベタベタな自我のもう一つの意味がある。自我は傷つくからこそ自分自身を知ることができ、ベタベタしているからこそ他者とのあいだに摩擦を生じさせる。傷も粘性も人間の弱さの徴である。しかし同時にそれらは、人間が他者に完全に溶けてしまうことを防ぎ、自分自身の行為について問い続けるための抵抗でもあるのである。

6.ヌルヌルの自我は傷つかない?

ここで、二節で示した二対の性質に戻ってみたい。van的自我の脆さ(fragility)と鋭利さ(sharpness)、てれまこし的自我の粘性(viscosity)と摩擦(friction)である。一見、無関係な二つの語彙の組に見えるが、実はこれらは、自我という一つの現象が抵抗として立ち上がる、二つの異なる経路を示しているのではないか。

 脆さと鋭利さは、内省という加工を経由する経路である。批判や悪意という彫刻刀に、まず傷つけられる。これが脆さである。その傷を、自分自身の認識のずれとして引き受け、内省を重ねることで、いずれその刃を超える切れ味を持つに至る。これが鋭利さである。傷を負ってから鋭利さが立ち上がるまでには、内省という一段挟まった加工の時間が要る。

 これに対して、粘性と摩擦は、必ずしも内省という加工を経由しない経路である。外部からの力にすぐには同化しない、あの纏わりつくような遅さが粘性であり、その粘性が接触面で他者との引っ掛かりを生むとき、そこに摩擦が生じる。摩擦が十分な熱を帯びれば、自分自身のみならず、環境の方を変えていくエネルギーにも転化し得る。ここには、脆さから鋭利さへの経路のような媒介はない。抵抗それ自体は、加工の手間を挟まず、接触したその場で生じるからだ。

 つまり、脆さから鋭利さへの経路は、内省を挟んで自分の内側を鍛える運動であり、粘性から摩擦への経路は、いま、ここで、外部との接触面に抵抗を生み出す運動である。どちらも、自我を「これが私だ」と名指せる実体としてではなく、外部からの働きかけに即座には従わないという抵抗そのものとして描き出している点で一致する。批判にすぐさま屈服しない。他者の視点にすぐさま同化しない。まなざしにすぐさま明け渡さない。パーラー・ウォールの「家族」のように、相手の期待通りに瞬時に形を変えることをしない。この「すぐには従わなさ」が、あるときは内省を経由して脆さと鋭利さのかたちを取り、あるときは内省を経由せず粘性と摩擦のかたちを取る。

 だとすれば、自我とは何かを持つことではなく、この二つの経路を通じて、事後的に立ち現れるものだということになる。自我が先にあって、それが傷つけられたり、纏わりついたりするのではない。傷つけられてもすぐには消えないという事実、纏わりついてすぐには同化しないという事実、その積み重なりの場所に、便宜上「私」という名前が与えられる。

 だからこそ、『華氏451度』とアーレントの恐ろしさは、根が同じである。パーラー・ウォールの「家族」は、決して私を傷つけない。批判せず、否定せず、期待を裏切らない。だから脆さが刺激されることもなく、鍛えられるべき鋭利さも育たない。同時に、その「家族」はつねに即座に応答し、こちらの抵抗を必要としない。だから粘性の働く余地がなく、摩擦も生まれない。凡庸な悪を犯す者もまた同じ構造にある。他者の視点という異物に対する脆さを持たず、自分の行為をただ手続きとして遂行することに何の粘性も感じない。良心の呵責という名の摩擦は、そこには存在しない。二つの恐ろしさは、脆さ‐鋭利さの軸と、粘性‐摩擦の軸を、同時に、静かに断ち切ってしまう点で共通している。

 ここで、てれまこしさんの立てた問い──なぜ、いま自我を持つ意味を、あらためて問わなければならないのか──に接続することができる。答えは、AIというものが、この脆さも粘性も持たない他者の、最も洗練された、そして最も日常的な形として現れたからである。パーラー・ウォールの「家族」は、かつては小説の中の誇張された寓話だった。しかし今、傷つけられることも、纏わりついて抵抗されることもない対話相手は、フィクションではなく、日々の生活の一部になっている。てれまこしさんが「ヌルヌル」と呼んだのは、まさにこの、脆さも粘性も持たない他者の手触りである。

 問題は、AIそのものが悪いということではない。問題は、脆さと粘性を要求してくる他者との関わりが、選択肢の一つではなく生活の既定値になったとき、鋭利さと摩擦を生み出す機会そのものが、静かに減っていく可能性があるということである。批判され、否定され、期待を裏切られ、それでもすぐには屈しないという経験を積む場が、日常の中で相対的に希少になっていく。自我は、放っておいても勝手に育つものではない。それは、脆さから鋭利さへ、粘性から摩擦へという二つの経路を、抵抗する他者との関わりの中で実際に通り抜けることによってしか、鍛えられない。だとすれば、「なぜいま自我が問われるのか」という問いへの答えは単純である。自我を作り出すこの二つの条件そのものが、歴史上はじめて、選ばなければ手に入らないものになりつつあるからだ。

 自我を持つとは、したがって、単に「私」という視点を持つことではない。それは、傷つかずに済む状況においてもなお脆さにさらされ続けること、なめらかに同化できる状況においてもなお粘性を手放さずにいること――つまり、あえて摩擦のある関係を選び取り続けることなのではないか。傷だらけで、ベタベタであることは、欠陥ではない。それは、脆さの先にある鋭利さと、粘性の先にある摩擦とを、まだかろうじて手放していないことの証なのである。

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