『月夜の森の梟』を読んで。納音夫婦ー小池真理子さんと藤田宜永さん
小池真理子さんの『月夜の森の梟』を読みました。
この本は、夫である作家・藤田宜永さんの闘病と死、そして残された喪失の日々を綴った作品です。
読むのは二回目です。
母を亡くした今、読んでみると、感じ方が全く違いました。
1章読んでは、パタンと本を閉じ、
しばらくして1章読んでは閉じる。
ゆっくり、ゆっくり噛みしめるように読みました。
静謐という言葉が本当にぴったりだ。
小池真理子さんと藤田宜永さん。
作家同士のご夫婦です。
『夫婦公論』という、ご夫婦共著の作品があります。
1995年に出版されたもので、夫婦の本音を吐露するバトル・エッセイと紹介されています。
勢いがあって痛快で、お互いにアレコレ言い合う楽しい本です。
以下、算命学の話になります。
このお二人は、
納音(なっちん)という縁のご夫婦でした。
納音とは、正反対の「気」をもつ関係です。
奥底にあるものには共通するところがありますが、実際の生き方や物事の捉え方、表現の仕方などは正反対です。
自分にない魅力や能力を相手が持っているため、強烈に惹かれ合います。
一方で、同じ領域で主導権を争うと、激しい「争い」に発展します。
正反対だからこそ惹かれ合い、
正反対だからこそぶつかる。
そんな関係です。
納音の夫婦がうまくやっていくためにはコツがあります。
役割分担をすること、と習いました。
『夫婦公論』という本の最初のページをめくると、役割分担という文字が!

小池真理子さんが家事全般、
藤田宜永さんが外回りの力仕事。
きっちり分けていたそうです。
これはとてもおもしろいと思いました。
さらに印象に残ったのが、二人とも三島由紀夫が好きで、それぞれ本を集めていたという話です。
ところが、二人の本を比べてみると、なぜか一冊も同じ本を持っていなかった。
同じ作家が好きなのに、集めている本は重ならない。
似たところがありながら、同じではない。
ここにも、納音の夫婦らしさを感じました。
文庫本あとがきの林真理子さんの文章の中に、
「激しく愛し合い、激しくリスペクトし合っていたという感じだ。その激しさゆえに、喧嘩が絶えなかった。」
とありました。
この姿こそ、まさしく納音夫婦という感じがしました。
「凄まじい喧嘩」と「絶対的な絆」。
日支も月支も納音であるため、ぶつかる時の衝撃は凄まじいものになります。
お互いのこだわりや表現スタイルが正反対であるため、ぶつかる時には激しい喧嘩になったのでしょう。
もちろん、喧嘩ばかりしていたわけではありません。
激しくぶつかりながらも、互いを深く愛し、尊敬し合っていたご夫婦だったのだと思います。
決して離れることはできない。
強い引力で結ばれていたというイメージです。
そして、もう一つ興味深いことがあります。
小池真理子さんは1995年、『恋』で直木賞を受賞。
その5年後の2000年、藤田宜永さんが『愛の領分』で直木賞を受賞しました。
さらに吉川英治文学賞では、小池真理子さんが2013年に『沈黙のひと』で受賞し、
その4年後の2017年に藤田宜永さんが『大雪物語』で受賞しています。
二人が同時に同じ場所に立つのではなく、
一人が先に進み、少し遅れてもう一人に光が当たるような動き。
お二人を見ていると、納音の夫婦には、こうした運気のシーソーのような現象も起きることがあるのでは、と感じました。
そして、もう一つ、とても心に残ったことがあります。
小池真理子さんの日干支は丁未。
丁未は「燻煙の香火」といわれています。
強烈に燃え上がる火ではなく、静かに持続する火。
『月夜の森の梟』文庫版のあとがきを読んでいたら、
そこに、小池真理子さんが「本物の元気」について書かれていました。
「本物の元気とは、外から見てわかるような激しいものではなく、人間の身体の奥底に、あるかなきかの、かすかなおき火のように、絶えず控えめにくすぶっていて、ふだんは外から見えないものなのだ」
と書かれていたのです。
この「おき火」という言葉が、私には小池真理子さんの「丁未」そのものの姿に重なって感じられました。
藤田宜永さんが亡くなり、
小池真理子さんは軽井沢にとどまり、
以前と同じ生活をされながら、じっと自分の悲しみや自然の移ろいを見つめ続けました。
その中で、自分の魂そのものを感じ取られたのでしょうか。
外からは見えない、
かすかにくすぶり続けるおき火。
悲しみの中で見つけた、
自分の灯火の在り方を。

ブルーが藤田宜永さん

