安仁神社元宮(説)・亀の形をした磐座と 16 菊の御紋章(備前国最古の神社)
1 はじめに
安仁神社の元宮に関する調査報告はありません。木村堅一氏の鶴山山頂での「祭祀を行うに適 した大岩発見」報告のみです。これは大岩発見であり磐座発見報告ではありません。浦上宏氏 より「磐座と聞いている。訪問するように。」と教示されました。
2 安仁神社の元宮
元宮の鎮座地は 2 説あります。「山頂であるが山の名前は不明」説と「古の本殿は山上にあり」 説です。両説とも小林久磨雄説です。
2.1 往古は山頂に在り 山名は不明説
邑久郡教育会は明治 36 年初めて『邑久郡誌』の編纂に着手し、大正 6 年全三巻の刊行を 終わりました。『邑久郡誌 第二編』は小林久磨雄氏が大正 2~4 年にかけて編纂し大正 6 年 10 月に発刊したものです。
「往古は山の頂に在りしが、中古・尾の上(鶴山の北方)に遷座 し、後、宝永二年(1705)池田綱政現在地に遷し奉る」とあります。明治時代末の伝承は、「山 頂であるが山の名前は不明」であり、現在地まで 2 度遷座しています。
2.2 古の本殿は鶴山山上説
邑久郡教育会は昭和 10 年、更に増補改訂を小林久磨雄氏に委嘱し、昭和 20 年 10 月発刊 しました。「古の本殿は山上にあり、戦国の時麓に遷す。今の稲荷の処なり、其後備前少将源綱 政朝臣今の処に遷して造営し給ふ」とあります。「古の本殿は山上にあり」と、鶴山の山上と読 めるが、三原千幸宮司は「山内に其れらしい跡は無い。」と教示され、木村堅一氏も「旧社 地は見つからぬ。」と報告しています。
2.3 鶴山山上で大岩発見
木村堅一氏の鶴山山頂での「祭祀を行うに適した大岩発見」報告があります。「それは高さ約1.5m、幅 2m の岩であった。岩の上は平坦で畳の広さで一畳少々である。祭祀を行うに適し ている。・・・岩の上に登ってみると、丸山や綱掛石神社の方向がよく見える位置関係にあ った。」と。しかし、これは磐座発見報告ではありません。木村堅一氏が鶴山山頂で発見した「祭祀を行うに適した大岩」に、古代祭祀の痕跡があるかの確認が必要です。大岩が全て岩 座ではありません。
3 永倉山山頂岩座 16 菊花紋章の祠
「山頂であるが山の名前は不明」とあります。小林久磨雄氏は『改訂 邑久郡史下巻』に、 (邑久郡史料として)「千手山の古文書に安仁神社社領といふ事あり」と記録しています。 この安仁神社社領を元宮と読むと、永倉山山頂岩座が安仁神社元宮の岩座となります。根拠は 2 つ。1 つは、宮城山(鶴山)も永倉山も山の神山脈に属しており近くです。2 つは、 磐座の「16 菊花紋」です。安仁神社本殿の最大の特徴は、16 菊花紋の多さにあります。遥拝
所では天神社に 16 菊花紋があり、安仁神社近くの山頂での 16 菊花紋は永倉山山頂磐座の みです。
3.1 永倉山山頂岩座 岡崎春樹氏の調査報告
永倉山山頂の岩座は、岡崎春樹氏が「地主権現宮の奥之院」と報告し、地主権現を神武 天皇の父のウガヤフキアエズノミコト(限建鵜葺草葺不合命)としています。安仁神社の祭神は神武天皇の父の祭祀で完結します。この場所は岡崎春樹氏が友人と二人で、大切な場所 として長年お祭りしてきています。
岡崎春樹説
『岡山市大宮地区』字藤井の安仁(兄)神社に、【帰化第四代】の、五瀬命・稲飯命・三 毛入野命の三柱が鎮座され、『瀬戸内市旧大宮村』字千手の「天智天皇御勅願弘法寺」の地 主権現宮・山王権現宮は【帰化第三代と四代】の神武天皇親子であり、≪奥之院≫の、永 倉山の峰に、【帰化第三代】のウガヤ王の【陵】と伝えられ、その峰の「菊花の紋章の祠」 を指しており、そこを「日向の吾平山上(わがひらやまかみ)の陵(みささぎ)に葬(ほ うむり)祭った」と記載されています。
『大宮村』には、神武天皇親兄弟が鎮座される。と口碑に伝えられる。又、岡山城築城者、宇喜多秀家は幼くして豊臣秀吉の養子として繁栄の中で育てられた。秀家は、豊臣秀 家と豊臣姓を頂き、『天智天皇勅願寺』の「弘法寺」に文禄三年(1594)と四年(1595)に、 二回に分けて百四十石の寄進状が伝わります。『大宮村』は「神武天皇の親子」が鎮座さ れます。永倉山の峰に宇喜多秀家が、≪菊花の紋章の石の祠を寄進された。≫と伝えられ ます。
3.2 永倉山山頂岩座へのルート
永倉山に報恩大師の供養塔があります。車道左側に報恩山参道表示があり、表示にそって左折します。10分 程で電柱が見えます。電柱下が駐車場です。右折す るとNTTドコモの電波塔があります。尾根にそって歩 き 5 分程で山頂に到着します。
報恩山参道 4丁・享和元年(1801)1月
電柱を右折すると、報恩大師の供養塔があります。 尾根の参道より、参拝者が多かったことがわかります。








3.3 亀の形をした岩座と 16 菊の御紋章
山頂の岩座上に石の祠があり、皇室の 16 菊の御紋章が刻まれています。
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4 皇室の菊花紋
家紋の起源は公家と武家とでは異なっています。公家は平安時代(794~1185 年)末期か ら鎌倉時代(1185 頃~1333 年)です。しかし、菊花紋は、明治維新後に「菊は栄える葵 は枯れる」に代表されるように、皇室の権威回復と共に光芒を放ち、葵紋は地に落ちました。 明治元年 3 月 28 日の「太政官布告第 195 号」で皇室以外の菊花紋使用が禁止されました。明治 2 年には、皇室の紋は 16 弁八重の表菊と決定されました。つまり、永倉山山頂岩座菊花紋は江 戸時代以前の刻印です。桜井秀氏は、後鳥羽上皇が菊花紋を用いたのは寛元 4 年(1246)3と報告しています。菊花紋を用いるのは名誉であり権威です。社寺の菊花紋は勅許の記録 の確認が必要です。
4.1 勅使
安仁神社は勅祭社でした。勅祭社には祭礼に際して天皇より勅使が遣わされます。(勅祭) 勅使は天皇の代理として宣旨を伝達します。勅使を受け入れる寺社には勅使専用の部屋や門 が造られていました。平安後期になると律令制の衰退とともに遠隔の諸大社への奉幣は避けら れ、京に近い神社が有力氏族や民衆の崇敬を集めて固定化され、新たな社格ともいえる二 十二社が制度として成立しました。
4.2 勅使屋敷跡の記録
『安仁神社御由緒調査書』に、「従本宮距離三町子丑ノ方本村ノ内字ナ御堀ト云田地ノ中 ニ一魂弐坪計リノ地所残跡セリ。此は往昔当社へ勅使を立給ひし時の説ありし旧跡なり。」 との記録があります。安仁神社の勅使屋敷跡の記録は平安時代の記録です。勅使屋敷跡、御堀ト云田地跡はまだ発見できません。
5 まとめ


はるか上代においては神を祀る社殿はありません。古来の有力神社には本殿がありません。元宮 は近くの山の山上にあった事例が多く、安仁神社の元宮は、永倉山山頂の亀の形をした磐座です。安仁神社本殿の最大の特徴は 16 菊花紋の多さにあります。安仁神社近くの山頂で 16 菊花紋は永倉山山頂岩座のみです。報恩大師の供養塔は安仁神社の亀の形をした岩座 を遙拝しています。岡崎春樹説で神武天皇ファミリーは完成しました。
6 参考文献
① 『邑久郡史下巻』小林久磨雄 昭和29年 邑久郡史刊行会
② 『邑久郡誌 第二編』小林久磨雄 昭和48年 名著出版
③ 『邑久郡誌 第三編』小林久磨雄 昭和 48 年 名著出版
④ 『岡山の山と三角点』http://www.geocities.jp/komaithi/b/index.htm
⑤ 『吉備に邪馬台国 瀬戸内市(旧邑久郡)の歴史』岡崎春樹編 平成 25 年 12 月
⑥ 「安仁神社と方位」木村堅一 『西大寺 第七号』 昭和 56 年 12 月 西大寺愛郷会
⑦ 『日本紋章学』沼田頼輔 昭和 47 年 新人物往来社
⑧ 『日本家紋総覧』千鹿野茂 平成 5 年 角川書店 4
平成 27 年 11 月 23 日 寄稿
