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【雑記】安達ヶ原の鬼女の哀しみ

日本舞踊の「安達ヶ原」を鑑賞した。
能の「安達原」(観世流。他流派は「黒塚」)をもとにしたもの。

一夜の宿を申し出た阿闍梨あじゃりとその従者をもてなす鬼女の柔らかで慎ましやかな仕草に、恥じらいや細かな心の揺れ動きを乗せた舞台は、わたし自身がなんとなく思っていたイメージとは全く異なる鬼女の姿を伝えてきた。

一度は宿を貸すのを断った鬼女。
阿闍梨の求めに応じ、糸車を回す鬼女。
糸車を回しながら仏縁を望む鬼女。
客のために寒夜に薪を取りに行く間、決してねや(閨の中には死骸が積み重なっている。)を覗いてはいけないと申し渡す鬼女。

舞台では描かれていないが、安達ヶ原の鬼女の伝説によると、この鬼女が人を食うようになったのには哀しい謂れがあることを知った。

岩手という女の物語。
京の都で自身が乳母として育てた姫が病気となり、占い師に妊婦の生肝を食べさせると治ると告げられる。さすらう果てに安達ヶ原に辿り着き、そこを訪れた夫婦を泊め、身重の妻を殺めたとき、虫の息で母を探していたと告げられる。自身の手で殺めた女が身に付けていた御守りは、乳母として奉公に出るときに自分の娘に渡したものであり、その意味を悟った岩手は鬼になってしまったというもの。

鬼女の深い闇と哀しみに比べ、閨を覗いてしまう従者の浅ましさ。

再び登場した鬼女が、その従者の衣装だったのは、逃げる途中の従者と鉢合わせし、裏切りを知り、絶望のあまり、この世から無きものにしたことを表していたのだろうか。

能では、鬼女が再び舞台に現れる時は、薪を持っているらしいが、わたしが見た舞台では、従者の衣装を身に着け、女性の美しい着物を両手で掲げ持ち、頭から被って登場した。
鬼女が着る着物は能では三角の文様(うろこ)になるとのことだが、この舞台では華やかな文様に見えた。
ただ、登場の時から、足さばきや振りにはそれまでの柔らかさや慎ましさは全く感じられず、鬼となった躍動感のあるキビキビとした動きに変わったため、この着物も鬼になったことを表していたのだろうか。

それにしても、鬼を感じさせるような不穏な感じのするものではなく、逆に清らかな美しさも感じさせるものだったので、何らかの意味が含まれていたのかもしれない。

数珠を音を立てて擦り合わせる阿闍梨に調伏される鬼女。綺麗な着物を頭から被り身を伏せるようにして、奈落に沈んでいった。

身を伏せる前、花道に立つ鬼女は、舞台の阿闍梨と向き合っていた。
花道の外側の席だったので表情がうかがえなかったのは残念だったけど、きっと怒りや睨みつけるだけの表情ではなかったのではないかと思っている。背中には哀しみと安堵が混ざっているようにも思えた。

鬼女に意識が行き過ぎて、阿闍梨が最後に祈っていたのか立ち尽くしていたのか、そこをきちんと見届けられなかったのが残念。


舞台に満ちていた、鬼女の傷つきやすい繊細な心、裏切られた怒り、そして如何ともしがたい罪の大きさ。
その罪を抱えながら、長く生きながらえていることの哀しみ、苦しみ。それは、罪を重ね続けてしまう哀しみ、苦しみでもあるだろう。

鬼女は調伏されることを求めていたのかもしれないと思った。
信じられる者に、この苦しみを終わりにしてもらいたいと望んでいたのではないかとすら思える。
これは、“救い”の物語なのだ。


わたしの中にも、こんな閨があると思った。
覗かれてはいけないもの。
きっと、誰の心にもある闇の閨。

私の救いは、今は縄なのかもしれない。
緊縛師さんに苦しめてほしいと願うその心の内に、自分自身ですら分かっていない(分かろうとしない?)、決して覗かれてはならない閨があるように思った。


そんなことにまで思いを至させてしまうような、鬼女の哀しみと救いに思いを巡らせた、心に残る舞台だった。






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