拙著『ネオ・ネグレクト 外注される子どもたち』明日刊行 本書をわたしが執筆した理由
『ネオ・ネグレクト 外注される子どもたち』
明日10月1日、拙著『ネオ・ネグレクト 外注される子どもたち(祥伝社新書)』(祥伝社)が発売される。Amazonでは先ほど「在庫あり」の表示が出て、最短で明日手元に届くらしい。また、リアル書店であっても早いところではもう並べられているようだ。
さて、「ネオ・ネグレクト」とはわたしの造語であり、「衣食住満ち足りた生活をしていたとしても、親がわが子を直視することを忌避していたり、わが子に興味関心を抱けなかったりする状態」を意味する。
少子化の進行する令和のいま、1家庭当たりの子どもの数は減少している。そう考えると、これまで以上にわが子へ愛情を注ぎやすい時代といってよい。それなのに、なぜ「ネオ・ネグレクト」などいう現象が跋扈しているのだろうか?
わたしは中学受験塾を経営し、日々子どもたちの学習指導に従事する中で、当然さまざまなご家庭の「親子関係」を目の当たりにする。
いまから10年ほど前、6年生の保護者との「進路面談」でこんなふうに切り出されたことがあった。
「先生、わたし考えるの面倒くさいから、ウチの子の受験校すべて決めてください」
わたしは唖然とした。
だって、大切なわが子が6年間過ごす学び舎である。親としてその選定に骨を折るのはごく自然ではないか……。
「ネオ・ネグレクト」を世に問う
上述した保護者とのやり取りにモヤモヤしている、そんな時のこと。
わたしは旧知の私立中高一貫校の教員と一献傾けていた。
酔いに任せてだろう、その教員はこんなことを言い放った。
「最近は学校を託児所だと思っている親が多い。子どもを預ければあとは学校が何とかしてくれる……そんな姿勢の親の子ほど精神的に弱いのだけれどもね」
先のわたしの体験したエピソードとこの話が繋がったのだ。
わが子に中学受験をさせ、中高一貫講に進学させるような親は教育熱心であり、わが子に対して常に気を配っているところばかり……。中学受験の世界はむしろ「過干渉」が問題視されていて、わが子の受験に熱くなり過ぎる親をこちらが諫めるようなことが多かった。
ところが、である。
わたしたちが思っている以上に、世間ではわが子に関心のない親が増加しているのではないだろうか。こう思い至ったときに背筋がゾクッとしたのをいまだにわたしは覚えている。
このわたしの抱いた「違和感」をまず世に問うてみようと考えて、わたしは敢えて時期をずらしてプレジデントOnline、新潮社Foresight、東洋経済Onlineでそれぞれ記事を配信した。このときにはじめてわたしは「ネオ・ネグレクト」という造語を使ってみせたのである。
オンライン記事の反響
オンライン記事はYahoo!ニュースなどのキュレーションサイトに転載されることもあり、記事に対するダイレクトな反応(たとえば、ヤフコメなど)が得られる。
特に1本目と2本目の記事はそのオンライン媒体の全体ランキングの中で一定期間上位につけた。同時に、大きな反響があったのだ。そして、わたしの記事に肯定的なものばかりではなく、反駁する声も多く寄せられたのだ。本書から引用する。
ほんの一端ではあるが、それらの趣旨を紹介しよう。まずは、わたしの訴えるネオ・ネグレクトがもたらす問題に対して同意内容のコメントである。
・ こういう親が近所にいて困っている。園や学校だけでなく、他人の家を託児所として使うなんてことも……。
・ ネオ・ネグレクト、よく理解できる。わが子のことを他人任せにするのはよくない。もちろん、外に頼ることも必要なのだろうけれど、心まで外を向いてはいけない。わが子と向き合うことは大事。
・ 病院勤務の兄がよく口にしている。よく面会に来る家族はそうでもないけど、めったに来ない家族に限って、あれはおかしいこれはおかしい、病院の落ち度じゃないのかと文句ばっかりだって。
・ 親戚が子どもを全寮制の学校に入れて「これでやっと自由になれる!」って。ドン引きした。
・ 塾に入れるだけマシじゃない? わたしの知っている問題児は、暗くなっても公園で遊び回っている。親に小遣いだけ渡されて放置だよ。
記事に肯定的なコメントを寄せる人たちの多くは、ネオ・ネグレクトについて身近に思い当たる事例に遭遇していることがわかる。
一方で、記事に対して否定的、批判的な感想も数多く見られた。同様に紹介する。
・ いやいや、そしたらわたしたちが子どものころなんて親は何にもやらなかったよね? それはネオ・ネグレクトではないの?
・ 中学受験はしないけれど、子の習い事が週六回になりそうな我が家もネオ・ネグレクトかもしれない。でも、フルタイムで働くことを考えているときにこういう記事を見ると悩ましくなる。
・ ちょいちょい母親のせいにしているところにモヤモヤした。むしろ父親が家庭をないがしろにする風潮が変わらないのが問題の本質ではないか?
・ ネオ・ネグレクトになるのもわかる気がする。子どもを連れて外に出ると見知らぬ人から嫌な顔をされることも多い。そんな社会の中だと子どもがつい邪魔だと思ってしまうことがある。
・ 散々言われているけど、仕事と育児の両立なんて不可能だからそこは割り切るしかないのでは?
・ 共働きだと物理的に時間が足りない。子どもたちの衣食住を整えて、習い事にも行かせて、これでネオ・ネグレクトだって言われても困る。
こういうネガティブなコメントに目を通すと、ネオ・ネグレクトにならざるを得ない「背景」について言及しているものが目立つ。そして、軽々に反論できない類のものばかりである。
そういえば、東洋経済Onlineで公開した「ネオ・ネグレクト」の記事ではこんな掲示板ができて、この記事に対するコメントが数多く書き込まれた。
そして、わたしがこれらのコメントに目を通して感じたことがある。
「ネオ・ネグレクト」は中学受験などという局所的な範囲に散見される現象などではなく、より広域的に観察できるものであるという点だ。
だから、本書ではわたしの専門分野である「中学受験」はあくまでも一例に過ぎず、より広範に亘る「子育て事情」に踏み込んでいる。
さて、本書を書き上げたあと、その見本をメディア関係者、同業者などに送った。そのおひとりである教育インフルエンサーのknockoutさんが本書を読んだあとのXのPostにかなり多くの反応が寄せられたのである。
スタジオキャンパス矢野耕平先生( @campus_yano )の新刊『ネオ・ネグレクト』をご恵贈いただきました。ありがとうございます。
— knockout (@knockout_) September 19, 2025
中学受験塾を経営されている立場からこの問題提起をすることは勇気のいることだったと思います。逆にいうと、それでも書かずにはいられなかった、ということなのかなと。 pic.twitter.com/Mlm9dUAyKP
あなたの隣の「ネオ・ネグレクト」
「ネオ・ネグレクト」という造語に対して、これだけ大きな反応が(良くも悪くも)あったということは、換言すれば、誰しもが「ネオ・ネグレクト」という現象の存在そのものを認めていることの証左である。
あなたは「ネオ・ネグレクト」に手を染めてしまっているかもしれない。
あの人はネオ・ネグレクト行為を働いているのではないか?
冒頭でわたしは「少子化の進行するいまの時代になぜこんな現象が跋扈しているのだろうか?」という問いを投げた。
詳しくは本書にゆずるが、その責は特定の個人に帰するものではなく、日本の社会構造にそのヒントがあるのではないかと考えている。
わたしにとって18冊目となる本書だが、いままでで一番の「難産」であった。着地点のないところへどう着地するか……そんなふうに足掻いて足掻いて足掻いてようやく書き上げた1冊である。
「ネオ・ネグレクト」という表現が世間に行き渡ることで、この現象について広く議論がなされることがわたしの願いである。
なお、本書はルポルタージュである。
数多くの人たちに取材を重ねながら執筆を進めた。
取材対象者の中にはわたしの不躾な質問で過去の忌まわしい記憶を呼び起こしてしまった人が何人もいるだろう。それでも、本書の意義にご理解をいただいてご協力してくださったことに心より感謝を申し上げたい。
『ネオ・ネグレクト 外注される子どもたち』、ぜひ手に取ってほしい。
みんなでこのテーマについて一緒に考えていきたい。そう思っている。
■目次■
序章 「ネオ・ネグレクト」とは何か
――衣食住が満たされていても何かが足りない…「ネオ・ネグレクト」の定義とは。
第1章 東京湾岸タワマン地域の子どもたち
――都市の豊かさの陰で進む、子育て外注の実態。
第2章 次世代に引き継がれる心の傷
――親の無関心が子どもの心に残す深い影響。
第3章 教育現場と「アウトソーシング」
――塾や学校に“丸投げ”する子育てがもたらす弊害。
第4章 育児とネオ・ネグレクト
――幼少期からはじまる子育ての外注化の実態。
第5章 結局、誰が「悪者」なのか?
――親、学校、社会…問題の背景を社会問題として問い直す。
終章 ネオ・ネグレクト減少の筋道
――子どもが健やかに育つために本当に必要なこととは。
