【短編小説】春雷 (Motif Artist:米津玄師)
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――有栖川家の次女は、不貞の子。
そんな噂は、一学生に過ぎない燈也の耳にも入っていた。
富裕な銀行家である有栖川氏の次女・園子は、愛人だった露西亜人女性との間に生まれた娘だという。
(くだらない)
そんなことは、燈也にはどうでもよかった。
今日から彼は、書生として有栖川邸で暮らす。
来年に控える卒業後は、有栖川氏の秘書として働くことも決まっていた。
そのための準備期間だ。
女性関係にだらしなかろうが、有栖川氏は燈也にとって恩人である。
秘書になった暁には、口さがない噂話には断固として抗議してやる。
そんなことを考えながら、有栖川邸の門をくぐった。
学業優秀、運動神経にも恵まれ、学生自治では統率力を発揮する。さらには眉目秀麗で将来有望。
そんな燈也を、有栖川氏もいたく気に入っていた。
家令とともに、氏みずから屋敷の案内についていく。
家の中を一通り見て回り、庭へ出る。
立春とはいえ、二月の空気はまだ冷たい。吐く息が白く煙った。
「この庭の向こうにある離れが、燈也さんのお部屋になります」
家令が指差した方向へ歩いていく。
(けっこう遠いな)
角を曲がった、そのときだった。
寒椿の咲く生垣の傍に、ひとりの少女が立っていた。
嫋やかな黒髪をリボンで結び、瀟洒な着物をまとっている。
「園子。何をしている?」
有栖川氏が穏やかに声をかけた。
少女は、ゆっくりと振り向いた。
その顔を見た瞬間。
燈也の胸に、痛みにも似た衝撃が走った。
抜けるように白い肌。
柔らかな頬の曲線。
小さく、形のよい桜色の唇。
そして、長い睫毛に縁取られた目の中には――蒼い瞳。
彼女のすべてが、輝いて見えた。
(こんなに美しい人……見たことがない)
雷に打たれたようだった。
「梅の花が咲き始めていたので、つい見惚れていましたの」
鈴を転がしたような、凛とした涼やかな声。
その声が、燈也の胸をさらに甘く締め付けた。
娘の言葉に、有栖川氏は彼女の傍らに立つ梅の木を見上げる。
「……ああ。本当だ。美しいな」
そして、再び視線を娘へ戻した。
「離れに住むことになった書生の桐生燈也くんだ。挨拶しなさい」
少女は、ほんの少しだけ燈也のほうへ近づいた。
「園子です。よろしくお願い申し上げます」
そう言って、楚々と頭を下げる。
その仕草さえも、燈也にはひどく美しく見えた。
「こ、こちらこそ、よろしくお願いいたします」
平静を保とうとしたものの、声が上ずってしまう。
「園子も来年、女学校を卒業する予定でね。たまに勉学を見てやってくれないか」
有栖川氏が快活な声で頼んできた。
燈也の胸に、思いがけない嬉しさが広がる。
「はい。私でよければ」
なんとか動揺を押し隠せただろうか。
そんな燈也の様子が、少し可笑しかったのだろう。
園子がふっと優しい微笑みを浮かべた。
その瞬間、燈也はまた胸の奥が甘く高鳴るのを感じた。
指先まで、かすかに震える。
――まずい。
まだ名前を聞いただけだというのに。
それ以来、彼の心には春の嵐が吹き荒れた。
有栖川邸に住み始めて数日もすると、園子の境遇があまり良いものではないことも分かってきた。
本妻や長女からきつく当たられ、使用人たちからも軽んじられている。
父親の愛人だった露西亜人女性との間に生まれた娘――妾腹というのは、本当だった。
それを知っても、燈也の園子への気持ちは揺らがなかった。
むしろ、園子が悲しそうにしているときほど、積極的に声をかけ、その心を和ませようとした。
書庫や園子の部屋で勉強を教え、たまに使いで街へ出るときなどは、園子のほうから「一緒に行く」と言ってくることもあった。
まるで逢引きのようで、燈也の気持ちは浮き立った。
園子がハンケチに沁み込ませている香水が鼻をくすぐる。
甘く、どこか異国めいたその香りに包まれていると、ただ街を歩いているだけなのに、二人だけの秘密を共有しているような気がした。
だが――。
名家の子女である園子の身上に傷がつかぬよう、外では「お嬢様」と呼び、あくまで下男のように振る舞った。
それでも、妾腹の娘を見る街の人々の目は冷たかった。
ひそひそと囁きながら、無遠慮な視線を園子へ投げる者がいる。
そんなとき、燈也は片っ端から睨み返した。
――絶対に、この人を守る。
そう心に決めていた。
そうして、春が過ぎた。
夏には一緒に縁側で夕涼みをしながら、互いの学校のことや文学の話に花を咲かせた。
蝉の声を聞きながら、他愛のない話をする。
それだけの時間が、燈也には何より心地よかった。
秋。
園子が西洋の舞踏を習ったというので、紅葉に染まった庭で、二人で「練習」をした。
ぎこちない初心者同士の円舞曲。
それでも園子は楽しそうに笑い、燈也の手を取ってくる。
その優雅な身のこなしに、燈也の心はまた甘く溶かされた。
そして冬が来る頃には――二人の距離は、いつの間にかずいぶん近くなっていた。
けれど。
その頃、園子には縁談が持ち上がっていた。
園子の部屋で火鉢にあたりながら、二人は窓越しに雪の積もった庭を眺めていた。
嗅ぎ慣れた香水の香りが、ふわりと漂っている。
しばらく沈黙が続いたあと、燈也は口を開いた。
「……お相手との顔合わせは」
「明後日です」
園子は目を伏せ、囁くように答えた。
「多分、このまま――卒業後に結婚することになると思います」
「………」
話したいことは、たくさんある。
けれど、どの言葉も覚束ない。
――彼女の本当の気持ちは、どこにあるのだろう。
燈也がそっと手を伸ばすと、園子も顔を上げ、彼を見つめた。
その蒼い瞳に映る世界は、どんな彩をしているのですか?
そう尋ねたいと思いながら、燈也の指先が、白い頬へ近づいていく。
園子は逃げようとしなかった。
ただ、まっすぐに燈也を見つめている。
だが――。
この美しい人を、自分の手で壊してしまいそうで怖くなった。
燈也の手は、彼女に触れることなく、ゆっくりと下ろされた。
両家の顔合わせが済み、園子の結婚が決まった。
結婚後は、相手の都合で樺太に住むという。
それを聞いた瞬間、燈也は身体中から血の気が引いていくように感じた。
有栖川氏の秘書になれば、これからも園子との繋がりが絶えることはない――そう思っていた。
だが、樺太となれば話は違う。
いっそ、自分が園子に求婚したかった。
何度そう思ったか分からない。
けれど、身分の違いから、それは許されない。
燈也はぎゅっと拳を握り、唇を噛んで胸の内の焦燥に耐えた。
やがて、燈也は大学を、園子は女学校を、それぞれ卒業した。
燈也は正式に有栖川氏の秘書となり、離れから街の下宿へ移ることになった。
園子もまた、輿入れの準備が着々と進んでいく。
梅の時期はとうに過ぎ、満開だった桜も散り始めていた。
そうして、二人が別れる日が近づいていった。
そして、燈也が屋敷を出る前日――。
園子が姿を消した。
屋敷は、にわかに騒がしくなった。
燈也も屋敷の中を捜し回った。
納戸や屋根裏、物置なども隅々まで目を走らせる。
(もしかしたら、外に出たのかも)
窓に目をやると、朝から灰色に曇っていた空が、雨を運んできていた。
遠くで雷鳴が聞こえる。
「……くっ」
嵐になったら危険だ。
園子の身を案じ、燈也は庭へ出ると、傘を取りに離れへ走った。
すでに雨脚は強く、ほんの短い距離を走っただけで、燈也の全身は濡れていた。
角を曲がり、離れが見える場所まで来ると――。
入り口脇の椿の植え込みに身を隠すように、園子がしゃがみ込んでいた。
燈也は心臓が止まりそうになった。
「園子さん!」
その声に、園子ははっとしたように顔を上げた。
ずぶ濡れの頬に髪が張りつき、いつもより幼げに見える。
安堵するより先に、心配が押し寄せた。
園子の身体は寒さで震え、肌も一層白くなっていた。
「何をしているのですか、こんなところで!
お屋敷に戻りましょう!」
燈也は駆け寄り、園子の腕を取って立ち上がらせる。
濡れた着物は、すっかり重くなっていた。
しかし園子は首を振る。
「いや……いやです」
「そんな我儘を……」
園子と目を合わせた瞬間、燈也は息を呑んだ。
蒼い瞳が、何かを訴えかけるように彼を見つめている。
とても、切実に。
彼の袖を掴む拳には、力がこもっていた。
土砂降りの中、冷えた身体とは裏腹に、園子から伝わってくる熱が、燈也の胸を甘く震わせていく。
どこか夢見心地でいたとき、遠雷が響いた。
さっきより近づいている。
燈也は現実に引き戻された。
「と、とりあえず中に入りましょう」
園子の肩を抱き、離れに入った。
「待っていてください。いま手拭いを――」
そう言って園子に背を向ける。
すると、いつもの香水の香りとともに、背中に重みと温もりを感じた。
園子の白い腕が、燈也の胸に回る。
心臓が、大きく、早く脈打ち始める。
「園子さん……」
掠れた声で呼びかける。
「いけません。風邪を引きますよ」
園子は一拍、間を置いた。
そして、意を決したように口を開く。
「燈也さんが、温めてください」
小さな声だった。
けれど、その言葉には決意がこもっていた。
燈也の身体が、びくりと震えた。
信じられなかった。
恋焦がれていた人が、自分を求めている。
だが――。
「結婚前の女性が、何を……。
からかっているのですか?」
その言葉に、園子の身体が一瞬硬直した。
そして――。
「からかってなどいません!」
強い叫びだった。
燈也はゆっくりと振り向く。
園子の顔は、本気であることを訴えていた。
蒼い瞳が濡れている。
哀しみではない。
燈也には、それが何を意味するのか分かっていた。
向き合うと、園子の髪に桜の花びらが数枚散っていた。
(桜が散れば、もう二度と――)
焦燥感が胸を突いた。
燈也は手を伸ばし、花びらを一枚取る。
そして、ゆっくりと、確かめるように問うた。
「後悔……しませんか?」
彼女をまっすぐに見つめながら、心の中で願う。
(嘘でもいい)
(騙してくれて、かまわない)
(愛している、と言ってくれ)
園子は答える代わりに、一歩下がった。
震える指先で、帯に手を掛ける。
驚いて絶句する燈也の視線をまっすぐに受けながら、園子はぎこちない手つきで帯を解いた。
はらり、と着物が緩む。
一枚、また一枚と、肩から衣が落ちていく。
灯りをつけていない部屋は、次第に暗くなっていた。
屋根を激しく打つ雨音が、衣擦れの音さえも包み込んでいく。
薄闇の中に浮かぶ園子の姿を、燈也は息を呑んで見つめた。
そのとき――。
突然、閃光が迸った。
一瞬、部屋が昼のような明るさに包まれる。
その刹那だけ、燈也には園子の姿がはっきりと見えた。
まろやかな曲線が彫刻のように美しく――
そして、どこか儚い。
燈也が呆然と立ち尽くしていると、園子の凛とした声が耳に届いた。
「後悔しないために、来ました」
ピシャァァァンッ!!
落雷の音が鳴り響いた。
燈也は、自分自身が雷に打ち抜かれたような錯覚を覚えた。
震える声で尋ねる。
「……本当に、いいのですか?」
園子は小さく、けれどはっきりと頷いた。
燈也は手を伸ばす。
雨に濡れて冷たくなった頬を、温めるように両手で包み込む。
蒼い瞳を覗き込むと、そこには迷いのない、強い決意があった。
嬉しさが込み上げ、涙が滲む。
燈也はそれを堪えながら、首を傾けてゆっくりと顔を近づけた。
そして、園子の唇に自分の唇を重ねる。
園子の身体が、ぴくりと震えた。
「怖いですか?」
唇をわずかに離し、燈也が尋ねる。
「……いいえ」
その答えが強がりではないか、燈也にはまだ分からなかった。
――大切にしたい。
その気持ちに嘘はない。
だが、こうして口づけているだけで、理性が焼き切れてしまいそうだった。
彼女を傷つけてしまうのではないか。
そう思うと、自分のほうが怖がっているのだと気づく。
それでも、勇気を出した彼女を突き放すことはできない。
――乱暴に扱ってはいけない。
慎重に……。
その思いが、口づけを通して園子にも伝わったのだろう。
「燈也さん」
園子は唇を離すと、揺るぎない瞳で彼を見つめた。
「私は大丈夫です。
あなたの思うままに……」
そして、ふっと優しく笑う。
「どんなあなたも、受け止められます」
それは、初めて挨拶を交わしたときと同じ笑顔だった。
燈也の胸に、愛おしさがいっそう込み上げる。
頬を包んでいた両手に力がこもり、園子の顔を半ば強引に上向かせる。
そして、間髪を入れずに唇を塞いだ。
「んんっ……!」
先ほどまでのためらいが嘘のような、性急な口づけだった。
園子は戸惑いながらも、それを拒むことなく受け止める。
互いの内に灯った熱が、触れ合うたびに相手へと伝わっていく。
理性を繋ぎ止めていた鍵が、ひとつ、またひとつと外れていった。
燈也の手が、園子の頬からゆっくりと下りていく。
指先に触れる肌の柔らかさが、彼の胸をさらに激しく高鳴らせた。
園子の口から、小さな吐息が漏れる。
激しい雨音の合間を縫うように、その声が燈也の耳へ届いた。
唇を重ねたまま、燈也も濡れた服を脱いでいく。
やがて二人は、寄り添うように膝を畳についた。
脱ぎ捨てられた園子の着物の上に、彼女をそっと横たえる。
園子は深く息を吸い、何度か呼吸を整えた。
そして、手を顔の横に置き、静かに目を閉じる。
そのとき――
また、閃光が走った。
一瞬だけ照らし出された園子の表情。
緊張を滲ませながらも、燈也を受け入れようとしている。
その姿を見つめ、燈也は思った。
(心まで、美しい人)
愛おしさと、抑えきれない熱情。
その二つが胸の中で激しくせめぎ合う。
燈也は、ゆっくりと手を伸ばした。
園子の声を、轟く雷鳴が掻き消す。
表で風雨に耐えていた椿の花がひとつ、
ぽとりと地面に落ちた。
また、雷光が部屋を照らした。
その一瞬に見えた園子の表情に、燈也は動きを止めた。
眉を寄せ、目には涙を浮かべている。
痛みを堪えているようだった。
「園子さん。大丈夫ですか?」
激情に流されていた頭に、冷静さがわずかに戻ってくる。
しかし、園子の答えは意外なものだった。
「背中が……」
「背中?」
燈也が目を向けると、着物の間からところどころ畳が覗いている。
擦れて、背中を傷つけてしまったのだ。
「すみません! 気づかなくて」
燈也は慌てて身を起こし、園子の胴に腕を回して抱き寄せた。
「大丈夫ですか?」
確かめるように、その背中を手のひらで支える。
血が滲んでいる様子はない。
「ええ」
園子は安堵したように息をつき、燈也の肩に手を置いた。
大した怪我ではないと分かり、燈也もようやく胸を撫で下ろす。
そして、園子の片手を取り、指を絡ませるように握りしめた。
「我慢しないで。痛いときや、不快なときは言ってください」
真剣な顔で、諭すように言う。
「ごめんなさい。離れたくなくて……」
叱られて眉を下げた園子だったが、ふと何かに気づいたように、その表情が和らいだ。
「ふふっ」
肩をすくめ、くすぐったそうに笑う。
「どうしたんですか?」
「だって……この体勢、まるで円舞曲のようで」
くすくす笑う園子の言葉に、燈也も自分たちの姿を見下ろした。
数か月前、庭で練習した舞踊と、どこか似ている。
そう思うと、燈也の口元にも自然と笑みが浮かんだ。
「踊っていただけますか?」
笑顔のまま、園子に尋ねる。
「喜んで」
朗らかな笑みで、園子が答えた。
そして――
園子の黒髪が、さざ波のように揺れた。
そのさざ波は次第に大きくなり、やがて波打つように、うねりを帯びていく。
互いの唇からこぼれる囁きは、雨音と雷鳴にさらわれていった。
断続的に走る稲妻が、二人の姿を浮かび上がらせては、また闇の中へ沈めていく。
春の嵐が、二人だけの秘密を守るように、激しく夜を包んでいた。
夜半の嵐が嘘のように、空は晴れ渡っていた。
朝の光が、昨夜の名残を留めた水滴を煌めかせる。
園子は生乾きの着物を再び纏い、燈也の前に立っていた。
もう二度と会うことはない。
二人とも、それを分かっている。
それでも、想いを遂げたことで、どこか晴れ晴れとした表情を浮かべていた。
「お元気で」
「園子さんも」
どちらからともなく顔を近づけ、最後の接吻を交わす。
園子は扉を開けると、振り返ることなく母屋へ戻っていった。
角を曲がり、その姿が見えなくなったところで、燈也は静かに扉を閉めた。
部屋の中には、園子の香水の香りが残されていた。
園子が結婚して樺太へ旅立ってから、幾度目かの春を迎えた。
燈也も結婚が決まり、近々、祝言を上げることになっている。
有栖川氏の厚意により、式は有栖川邸で執り行われる。
その打ち合わせのため屋敷を訪れると、庭の桜が満開を迎えていた。
園子はいま、第二子を身籠っているという。
樺太で、幸せに暮らしているらしい。
写真も何枚か見せてもらった。
そこには、誠実そうな男性の隣で、穏やかな笑みを浮かべる園子がいた。
燈也は胸の内に、ほんのわずかな嫉妬と、それよりもずっと大きな温かさを感じ、口元を綻ばせた。
打ち合わせを終え、玄関を出る。
すると、鼻先に桜の花びらが一枚、ひらりと舞ってきた。
燈也はふと足を止め、満開の桜を見上げた。
あの夜の園子の姿が、鮮やかに蘇る。
濡れた黒髪。
白い肌。
蒼い瞳。
そして、優しく微笑む顔。
そこへ、先ほど見た写真の園子の姿が重なった。
燈也は、静かに目を細める。
あの春雷の夜が――
自分の人生の、ひだまりだった、と。
【終】
▼モチーフ曲です。エンディングに聞いてもらえたら嬉しいです。

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