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「ありがたい」榧蘭の花芽

「ありがたい」って言葉あるよね。なかなか起こらない「有り難い」ことだから感謝しよう、って意味だって聞いたことがあるんだけど、ちょっと説教くさいなぁなんて思ってたんだ。でも、この間、榧蘭を見ていて、その言葉の意味を少し違う角度から考えてみたんだ。今日はそんな話ね。

それは九州燕征から帰ってきた日の夕方近く、黄色い西日が強くなる時間帯。外にいると少し肌が焼ける感じでね、夏至の前後って気温はそんなに高くないけど紫外線は強いでしょ。だから特に暑いとは感じなかったけど、肌はピリピリしてた。ただ、風に少し湿度は乗っていたけど、日陰に行けば蒸し暑いほどでもなかったかな。
今は便利だからさ、旅行中でも軒下に雨が降ったかどうか分かるわけでしょ。だから雨はなかったと知っていたけど、やっぱり軒下はカラカラでね、まあ、コケや風蘭、石斛、着生タイプのシダなんかは全然平気だったんだけど、枝物のコケ玉なんかは葉っぱが全部枯れちゃってさ。
たった4日のことだけど家を空けるってのは園芸家にとってはリスクなんだなぁって妙に納得したね。

でね、この燕征で一番心配してたのが榧蘭だったんだ。6~9cmのバーク片にミシン糸で軽く縛り付けて着生してくれるのを狙ってるんだけど、これがなかなか思うようにいかなくて。
他の蘭は結構すんなりと根を伸ばして赤茶色の樹皮に根を食い込ませてくれたんだけど、榧蘭だけがうまくいかない。葉の色艶もくすんでいてハリもない。一応、白い根はあるんだけど、ぶらぶらと空中を彷徨っている。それで全体的に水切れ寸前の萎れた植物みたいに見えて仕方なかったんだ。だから帰ってくるや否や手に取るのは自然な流れだよね。
濃い緑の葉には相変わらず水気はなかった。少し不安になりつつ、根は出ているのかと裏側から見ると、茎の途中から伸びる白い根の先端が明るい黄緑色になってた。これでふっと肩の力が抜けたね。なぜって、根が伸びるってことは、まだ生長しようという力が残ってるってことでしょ。それを見たら気分が明るくなって、もっと嬉しくなるような変化を探したんだ。で、紫がかった葉の裏に隠れるように伸びる花芽を見つけたってわけ。

実は春の早い時期に一度花芽が付いてたんだけどね、それは園芸の世界の用語でいう「シケる」という状態になって枯れちゃって、あぁ今年は榧蘭の花が見られないんだな、と気落ちしてたんだ。それで、まさか、もう一度花芽が出てくるなんて思わなかったから、驚いちゃって。
ただ、よく考えてみれば、花の開花って毎年同じ時期にってわけじゃないんだ。変な時期に咲く場合もあるわけで、だからこの榧蘭は温度が高くなってから動き出すのかな、なんて思ったら、なんだ当たり前のことじゃないか、と感動が消えちゃった。前回の花芽は開花に必要な温度、湿度、太陽光の波長、栄養状態が揃わなかっただけのこと、ただそれだけのことだったんだってね。
でも、ふと気がついた。それは「花が咲くってことはとても希有な現象なんじゃないか」ってこと。多くの植物が毎年同じような時期に同じような花を当たり前のように咲かせるから、ぼくたちも当たり前のように考えてるけど、花が咲くって当たり前のことじゃないんだよね。たくさんの試練を乗り越えて生き残り、温度と湿度と光と栄養状態が全て揃った時だけ起こる、奇跡の現象なんだよ。

そんな風に考えてみるとさ、目の前にある現象も無数の奇跡の集合体に見えてこないかな。例えば、今、ぼくの右手の近くに置いてあるコーヒーだって、そこにあるのが当たり前ってわけじゃない。誰かが育て、収穫し、運び、焙煎し、淹れてくれた結果としてここにあるわけでしょ。つまり、ぼくが生きていくための、例えば、食べ物のことだけをとってみても、ぼくは無数の巡り合わせの中で生かされているってことになるわけよ。
ただ、そこまで考えを広げるだけ広げてから思ったのは、そんなこと考えてると毎日を生きるのが大変になるってこと。この無数の巡り合わせに感謝しながら生きていきましょうとか、どこぞの哲学者や聖人君子じゃないんだから、忙しい毎日でそんなこといちいち考えていられない。
でもさ、せっかく、目の前で繰り返される「当たり前」が、本当は有り難いことなんだなぁと感じる事ができたんだから、せめて、いろんな事に対してちょっとだけ丁寧に接することができればいいなぁ、なんて思ったわけ。

この榧蘭が咲くかどうかはまだわからない。咲くかもしれないし、やっぱり咲かないかもしれない。
でも、もし、花を見ることができたら「あぁ、ありがたいことを見せてくれてありがとう」と声をかけてみるよ。

――2026/06/15の日記より

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