『モンテ・フェルモの丘の家』 ナタリア・ギンズブルグ
ジュゼッペはアメリカに移住しようとしている。
故郷のイタリアを離れたことのない彼の、これまでの人生は、それほど賑やかなものでも幸福なものでもなかった。
一度は結婚したものの妻とはすぐに不仲になり、家を出て行った妻は今はもはやこの世にいない。
冷え切った夫婦の間で育った息子は父に心を開くことなく、20代になった今も、父の住むローマに寄りつこうともしない。
過去に恋仲になったルクレツィアという女性がいるが、彼女は人妻であり5人の子供もいる。モンテ・フェルモの丘に建つ彼女の家を訪れても、彼はいつもただのお客様だ。
そんなジュゼッペ、人生後半での一大決心が、ローマのアパートを売り払い、アメリカで新しい人生を始めるというものだ。
アメリカには兄がいる。大学教授になった兄の住むプリンストンに行き、兄と一緒に暮らそう。そこでイタリア語教師の職を見つけられるだろう。そして自分もまた勉強して、老後への新しい道が開けるはずだ。
彼はその想いを、兄や友人への手紙に書き綴る。
出発するのがとても楽しみです。一日もはやく会いたいな。このところ、いろいろとつらかった。息苦しくて。兄さんのところに行く決心をしたとたんに、息がらくになったみたいです。
イタリアを離れるのは、とてもつらい。そちらに行ってから、これまで自分が深くかかわっていた人たちや場所が、ひどく懐かしくなると思う。・・・でも生きている限り、辛いことがあるのは当たり前で、兄さんといっしょに暮らせば、それだけで充分というものです。
ジュゼッペが兄に書く手紙から始まるこの物語は、初めから終わりまで全て、ジュゼッペや、彼と関わる人々の間で取り交わされる手紙のやりとりで構成されている。
叔母、息子、親友、女友達、友達の友達。。。
彼らは互いに近況報告をかねた手紙を送り交わし、日々の出来事を書き連ねたり、口に出して言えない心情を吐露したり、時に、長い回想が繰り出されることも。
生き生きとした彼らの手紙のやり取りに、知らず引き込まれ夢中になる。
未来に目を輝かせてイタリアを発ったものの、意気揚々とした勢いはどこへやら、アメリカでの生活を始めたジュゼッペは、早くも番狂せに意気消沈する。
彼が二人で住むものだと思っていた兄は、彼がアメリカに行くのに合わせたように結婚していて、しかも義姉とは初対面から気が合わないことが判明するのだ。
窮屈な居候生活に喜びはなく、せっかくイタリア語教師の仕事も始めたというのに、ジュゼッペはもうイタリアに帰ることを考え始める。。。
しかしそんな矢先に、兄の突然死という予期せぬ事態が起こり、ジュゼッペの人生は、まったく予想していなかった方向に進んでいくことになるのである。
一方イタリアでは、ジュゼッペの息子がローマで仲間と共同生活を始めたり、ルクレツィアが情熱的な恋に落ち、モンテ・フェルモの家を飛び出したり。こちらはこちらで、個性の強い人々がドラマチックな人生劇を繰り広げていく。
ジュゼッペがアメリカに行った朝のことを思い出します。見るも哀れだったわ。喉が痛いとか言って。そのうえ、お兄さんが結婚したと手紙で知らせてきたのよ。それが心にひっかかってた。・・・保護される気持を味わいたいばかりに、ジュゼッペはアメリカに行ったんでしょう。そんな理由でアメリカまで行く人なんて、聞いたことないわ。アメリカは冒険するために行くところです。彼はその反対なのよ。それでいて、行った途端にお兄さんに死なれた。これで帰ってくるでしょう。
たぶん、もうご存じと思いますが、ぼくは一人の赤ん坊の父親になりました。ぼくの苗字はお父さんの苗字だから、お知らせすべきと思いました。・・・ぼくが得られなかったもの、すなわち父親の庇護をこの子に与えてやりたいのです。あなたはぼくの生活のなかに、ほとんど存在してなかった。父親として、あなたはかなりな欠陥商品でした。でも、仕方ありません。もう過ぎ去ったことですから。ローマにおいでのことがあったら、ぜひ、ぼくの娘に会ってやってください。
わたしはこれまでなにも疑ってなかった。ほんとうをいうと、この数か月のあいだ、ひょっとしたら、もう一度いっしょに暮らそうと言いだすのじゃないかと思ってた。崩壊した結婚を、もう一度建てなおす計画をもって行動しているみたいに、わたしには見えていた。わたしは自分のなかで、そのときに言うことわりの言葉まで考えてあった。・・・ばかね。ばかね。なにもわかってなかったんだわ。
メインのジュゼッペとルクレツィア、そして彼らを取り巻く人々の多彩なドラマの断片が、手紙のやりとりの内に鮮やかに浮かび上がり、それらが、親愛、心配、不満、慰めといった感情の糸で縫い合わされていく。
恋の炎が燃え上がり、新しい命が宿って生まれる。あちらが別れ、こちらはくっつく。
痛ましい死の知らせが行き交うこともある。中でもジュゼッペの息子の死は衝撃的だ。ローマでの人情味ある生活に、固く閉ざされていた心が少しずつほぐれて来た矢先、父と子の関係にも光が差すのではと希望が見え始めたところでの彼の死は、読者の心をも大きく揺さぶるだろう。
《もし帰ることになったら》というような言い方は変にきこえるかもしれない。条件法はおかしいかもしれない。だが、いまのところ、ぼくにはすべてが不安定にみえて、自分の考えのもやもやのなかで、どちらを向いていいのかわからない。イタリアに帰りたい、それと同時に、帰りたくない気持もある。ルクレツィア、きみには死ぬほど会いたい。でも会いたくないのかもしれない。きみに再会するのが、ぼくはこわい。面とむかってきみと話すのが。ぼくたちは、あまりにもながいこと離れすぎていた。そのあいだに、きみにもぼくにも、あまりにもたくさんのことがおこった。
ここ何年かのあいだに、たしかに、あなたにも、わたしにも、あまりにもいろいろありすぎました。だから、もし、また会うようなことがあったら、しばらくはなにも話せないでしょう。
わたしも条件法を使いました。どうしてかわからないけど。われわれが、生きてるうちか死んでからかは知らないけれど、再会してわるい理由はなにもありません。・・・
あなたの長くのばした、すくない髪の毛。あなたの眼鏡。あなたの高い鼻。やせた、ながい脚。大きなあなたの手。いつもつめたかった。暑いときでも。そんなあなたを覚えています。
人生は何がどうなるかわからない。予測不能の、壮大なパッチワークだ。そして、どんな悲愴があったとしても、なおも続いていくのが人生である。
アメリカのジュゼッペ、イタリアのルクレツィア、二人の危なっかしくも愛すべき主人公のこの先の日々に、また新たな光が宿る予感を秘めながらのラストの一通まで、余す所なく切なく愛おしいつづれ織。
日記好き、書簡好きな方には特におすすめの一冊だ。須賀敦子の、風の抜けるような訳文も心地よい。
