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《短編(青春)》ストリート・ミュージシャン

《あらすじ》
 2001年、真冬の札幌・狸小路。土曜の夜9時、雪の舞うアーケードの交差点に、ギターを抱えた高校生がひとり立つ。
 勉強監獄と呼ばれる進学校。ゆずの歌が引き合わせた、正反対のふたり。喫茶店の2階でこっそり覚えたギター、黒と紺のキャスケット、MDに録音した真冬の夜。灰色の毎日は、土曜の夜だけ、色づいていく。
 友情と呼ぶには近すぎて、恋と呼ぶには重すぎる。16歳の僕らの、名前のつかない想いの物語。

《登場人物》
ショーマ

 本作の語り手。ピアニストの父を持ち、幼い頃からピアノを弾かされてきた「僕」。医者になれという母の期待の下、規律の厳しい進学校で灰色の日々を送っていた。中3のとき、ラジオから流れたゆずの「夏色」に、音楽の自由を教えられる。人の輪の外側にいることが多く、自分のやりたいことは今も分からない。けれど、ユヅルと出会い、歌うことを通じて、少しずつ自分の居場所を見つけていく。

ユヅル
 ショーマの、生まれて初めての親友。いつも人の輪の真ん中で笑っている、明るくまっすぐな性格。ショーマとは正反対に見えて、ゆずへの愛だけは同じ熱量。家庭の事情から、こっそり喫茶店でアルバイトをしながら、はっきりとした将来の夢を胸に、誰よりも真剣に前を向いている。ショーマにとって、灰色の毎日に色をくれた、かけがえのない存在。

マスター
 ユヅルがアルバイトをする、狸小路の路地裏の喫茶店「弥勒」の主。髭面の大男で、無口。多くを語らないが、若いふたりを不器用に、そして温かく見守っている。



1・小雪の散らつく交差点

「じゃあ予備校、行ってくる」
 お昼ご飯を食べ終わって、食器を洗う母さんの背中に、僕は声をかけた。本当の中に隠した、少しの嘘。
「行ってらっしゃい。遅くなるなら、電話しなさいね」
 振り向いた母の顔に、疑いの色はない。
「うん」
 短く答えて、僕は玄関を出た。

 2001年1月13日、土曜日。
 冬季講習が終わっても、予備校の自習室は自由に使えた。僕は、地下鉄東西線の西11丁目駅を降りて、雪道をてくてく歩いた。薄く水色に晴れ渡る空が広がり、きらきらと雪に反射する日差しが眩しい。凜とした空気が、頬に貼りつく。銀行の外気温計はマイナス5度を表示していた。もうすぐ冬休みが終わる。先生たちが言う「高3ゼロ学期」に突入する。1年後にはセンター試験が待っているし。ふうっ、と吐いた息は白い塊になって、歩道脇の雪山に散っていく。
 予備校の自動ドアの中で、ユヅルが待っていた。
「おう」
「よう」
 それだけ。声をかけて、エスカレーターに乗る。7階の自習室に向かい、僕らは隣同士の自習ブースに座る。いつものように、隣り合った。

 午後8時を過ぎたところで、僕は静かに自習室を出た。ユヅルは、ちらりと僕のほうを見たけれど、また問題集に向き合った。

 石山通を渡り、真冬の風が吹き荒ぶビルの合間を抜けると、狸小路7丁目の古びたアーケードが見えてきた。僕はさらに歩く。土曜の夜の狸小路は、少し遅い新年会だろうか、サラリーマンや大学生たちが居酒屋やジンギスカン店の前で、賑やかに待ち合わせをしていた。
 狸小路2丁目から右に曲がり、豚骨の匂いが漂うラーメン屋の横の路地に入る。突き当たりにある、2階建ての白壁の古民家。焦げ茶色の木の扉には、黒いペンキで書かれた「弥勒」という達筆の文字。小さな傘の白熱球が、微かに扉を照らす。
 ギギィーっと、扉を開けると、コーヒーの蒸せた薫りとFFストーブの乾いた熱風が、まとめて押し寄せてきた。
 カウンターの奥で、髭面のマスターがチラリと僕の顔を見た。僕は軽く会釈をした。無口な人だ。土曜の夜だからか、客は誰もいない。スピーカーからは、古い洋楽のロックが小さく流れている。
「ユヅルなら、今日はオフだぞ」
「……知ってます」
 僕は店の2階に上がり、奥の物置から、黒いギターケースを引っ張り出した。
「ほら」
 マスターがカウンター越しに何かを放った。使い捨てのカイロだった。マスターはまたカップを磨き始めた。
「ありがとうございます」
 それだけ言って、僕は店を出た。

 狸小路2丁目と3丁目を区切る交差点。2丁目側のアーケードの下で、僕はギターを取り出した。
 午後9時。狸小路の外れは人波がほとんどなく、すすきのへ向かう酔客が、時折笑い声を上げて通り過ぎていく。アーケードのオレンジ色のランプが、シャッターたちを照らしている。
 僕は紺色のキャスケットを目深に被り直して、ペグを回し、弦を弾く。弦に触れる指先が、痛い。カイロを握って、ほぐす。チューニングの音がアーケードに響いた。ポケットから、おにぎり型のピックを取り出す。角は、この一年で、ずいぶんすり減った。
 あれから、ちょうど一年か——。
 あの夜も、こんなふうに小雪が散らついていた。
 最初の曲は、決まっている。真冬なのに、「夏色」。僕らの、始まりの曲だ。
 カポを3フレットに取り付け、左手はCのコードを押さえる。そして、右手を振り下ろす。
 じゃん、と鳴った六本の弦が一斉に響いた瞬間、あの始まりの「夏」が広がった。

2・灰色と夏色

……で……xに……だからここにyの……
 白衣を着た白髪の先生は、いつも黒板と会話している。僕は、灰色の空を眺めていた。
 高校生活の始まりの日から、灰色の世界だった。平日は七時間授業。土曜も四時間。朝の読書、昼の特別補習、放課後は「自主学習」という名の演習課題が山ほど出て、終わらせなければ帰れない。入学してすぐに同級生たちはここを、勉強監獄、と呼んだ。国公立大学への合格者数を一人でも増やすことだけが目標の、私立の進学校。教室の窓から見える空の色が、朝と夕方で変わっていることだけが、時間の流れの証拠だった。

 6月の中間考査が終わっても、僕はただ黙々と一人で課題を片付ける生徒になっていた。ノートの隅に、好きな歌の歌詞を書いては消す。チャイムが鳴って、また次の先生がやってくる。起立、礼、着席。何の意味もない動作の後、黒板と話す後ろ姿を眺めているだけ。16歳という時間を、ただ少しずつ、削り落としているだけの気がした。
 スクバ(学校指定の通学カバン)の中には、いつもMDウォークマンが入っていた。学校の行き帰りが、僕の唯一の色彩を持つ世界だった。駐車場のネコ、風鈴の音、線香花火。イヤホンの中に広がる、自由な世界をゆっくり、ゆっくりと味わった。

 ——本当は、ここに来るはずじゃなかった。
 中3の3月3日、公立高校の入試が始まった。昼休みを過ぎて僕はひどい頭痛と向き合っていた。4時間目の理科は、実験を説明する図が左右に揺れた。波打つ英文を何度も読み直し、何とか5時間目の英語の試験を終わらせる。家に辿り着くと、体温計はあっという間にピピっと鳴って《39.5》という数字がぼんやりと見えた。2週間後、高校の玄関に張り出された合格者一覧表に、僕の数字はなかった。

「高校受験は、不運なだけ。大学で取り返せばいいのよ」
 母さんはそう言って、滑り止めのこの学校を心から喜んでいた。医学部への進学実績も、そこそこあるから。でも、週末は、予備校の医学部進学コースに通わされた。冷暖房完備はもちろん、夜の10時まで使える自習室がある。
 父さんは、何も言わなかった。
 父は音楽大学の准教授で、ピアニストだ。3歳の頃から、僕にピアノを教えた。小学生になると、知り合いの先生のレッスン教室に通わされた。大学の講義と、コンクールの審査と、自分のコンサート。家庭を顧みない人が、唯一僕と向き合うのが、連弾の時間だった。鍵盤を前に隣り合うときだけは、父さんは父らしい横顔をしていた。
 小3の発表会で連弾したときの写真が、今もピアノの上に飾ってある。おそろいの蝶ネクタイ。緊張で強張った僕と、珍しく目尻を下げた父。ただの記憶にすぎないのに、いつまでも僕をここに張り付けている。

 ティリンティリンリン ティリンティリンリン
 ラジオから軽快なギターのイントロが流れる。中3の6月の週末。月曜日から始まる前期中間テストの勉強の合間、たまたまラジオから流れてきた「夏色」を聴いたとき、衝撃が走った。ああ、僕はピアノが好きだったんじゃない。押しつけられていただけなんだ。そう気付いた瞬間だった。素朴で、荒削りで、それなのに、どこまでも自由な音楽。のびのびと等身大の自分を映す歌。僕は机の中からお小遣いを握りしめて、近所のCDショップに走った。
 8センチのシングルを、部屋のCDラジカセで、何度も繰り返して聴いた。ヘッドホンの中では、アコースティックギターとタンバリン、ブルースハープ、カズーの響き。楽しげな二人の歌声が重なり合っている。バッハ、ショパン、シューベルト。僕がいつも向き合わされていた彼らと、まったく違う音楽に、心が震えた。

 アルバムも買って、全曲歌えるくらいに聴き込んだ。棚に並んだベートーベンやモーツァルト、ドボルザーク、ワーグナーにフランツ・リストたちのCDには埃がたまっていた。
 「受験生だから」という便利な言葉を使い、僕はピアノのレッスンをやめた。父さんとの連弾も「受験生だから」と断った。しばらくして、父さんはピアノの部屋の前で足を止め、何も言わずに書斎へ消えるようになった。

……ならば……であるからその対偶は……で……
 相変わらず、白衣を着た白髪の先生は、いつものように黒板と会話している。僕は、今日も灰色の空を眺めていた。

3・隣の席は君の席

 7月の最初の土曜日、授業の代わりに校外全国模試があった。大学進学希望者は全員強制の模試。勉強監獄のメニューの一つに過ぎない。
 札幌駅北口にある試験会場に、私服姿の同級生たちが受験番号順に座っていた。学校の教室とは違って、階段状の大講堂だし、高校生になって初めての模擬試験だからか、周りも落ち着かない。僕は、誰にも話しかけられないように、イヤホンを耳に当て、MDを聞いていた。
 受験番号の並びで隣の席になったのが、ユヅルだった。同じクラスでも、顔を知っている程度。いつも人の輪の真ん中で笑っている、僕とは正反対の奴だと思っていた。

 休み時間、机の上に投げ出されたユヅルの筆箱に、見覚えのあるステッカーが貼ってあった。
「ゆず、好きなの?」
 思わず声をかけていた。自分でも驚いた。入学してから、自分から誰かに話しかけたのは、たぶん初めてだった。
「え、お前も?」
 ユヅルの目が、ぱっと輝いた。
「マジか! この監獄にも同志がいたんだ!」
 ユヅルが笑顔で顔を近づけてきた。
「さっきイヤホンして、めっちゃ真剣な顔してたけどさ。あれ、ゆずだったんだ?」
 見られていたんだ。恥ずかしさよりも、嬉しさが膨らんだ。話を続けようとしたときに、試験監督が会場に入ってきた。僕は「またあとで」と笑顔で声をかけた。
 昼休みになって、僕らは話し続けた。「一番好きな曲は」「だよな!」「完全枚数限定盤アルバム、買ったんだ」「まじ!?」と、お弁当を食べるのも忘れるくらい、ずっと話し続けていた。午後は英語だけだ。

 模試が終わると、ユヅルは当たり前みたいに言った。
「カラオケ、行こうぜ」
「え? う、うん」
 僕はカラオケに行ったことがなかった。駅の北口にあるカラオケボックスに向かった。会員証を発行してもらい、受付を済ませる。
「カラオケ、久しぶりだなあ」
「よく来るの?」
「中学生のときは、しょっちゅう友達と行ってた。最後に行ったのは中学の卒業式の日かなあ」
「僕は、生まれて初めてだよ」
「まじか!!」
げらげらとユヅルは笑う。「なら、オレに任せろ」と、インターフォンでコーラとフライドポテトを頼む。分厚い曲目一覧本をめくり、ぱっぱとリモコンで曲番号を登録した。ユヅルは僕にもマイクを渡す。
 ティリンティリンリンと、スピーカーから大音量でイントロのギターが鳴る。
「やっぱ、最初はこれっしょ」
と笑顔で僕に言うと、ユヅルは熱唱した。サビに入る前に、僕に目で合図する。一緒に唄おうぜ、と。僕は自然と、悠仁パートの下ハモリで唄った。
……ラスサビで、僕とユヅルの声が溶け合った。
 アウトロが終わると、ユヅルは目を輝かせて
「ショーマ、お前すげえ!」
大興奮で僕に声をかけてくれた。僕も、
「ユヅルもすごいよ。まっすぐで、迷いがなくて、ストレートに気持ちが伝わる歌でさ。一緒に唄っていて気持ちよかったよ」
と興奮をユヅルに伝えた。店員がノックして入ってくる。ジュースとフライドポテトを置いて去って行った。
「したっけ、乾杯!」「乾杯!」
と、ジョッキに入ったコーラで乾杯した。
 2曲目に選んだのは「少年」で、曲の始めに1・2・3・4、とコールがある。僕ら二人は大声で叫んだ。どれが良い?、と聞く必要もなく、僕らは歌いたい曲も一緒だった。
「ショーマって、めっちゃ高いとこまで出るんだな。すげえよ。岩ちゃんの上ハモリも普通に出せるって」

 カラオケボックスで2時間くらい過ごして、帰る。駅前通りを歩き、大通駅に向かう途中も、僕らはずっとゆずの話で持ちきりだった。僕は東西線だし、ユヅルは東豊線だけど、ちょっと寄るところがあるから、と大通公園で別れた。
「したっけ、また月曜に」
「楽しかったよ。また月曜日」
 夕方というわりには、まだ西日が高い。夏は始まったばかりだった。

4・露天風呂の空の向こうに

「おじゃまします」
 夏休み、ユヅルは僕の家に泊まりに来た。
「ユヅル君、いらっしゃい。暑かったでしょう。中へどうぞ」
母さんが笑顔で迎えた。「ショーマもお帰りなさい」と、言うと母さんがリビングへ飲み物を取りに戻った。僕はユヅルに声をかけて、2階に上がり、僕の部屋に案内した。

 生まれて初めてのカラオケのあと、僕らはいつも学校で一緒に過ごすようになっていた。休み時間はゆずの話ばかり。僕はユヅルに、ふと疑問をぶつけてみた。それまでユヅルと話していた同級生たちについて尋ねると「ゆずを知らない奴らとは友達じゃないのさ」と笑い、あっけらかんとしていた。
 模試の結果は、ユヅルが学年7位で僕は8位。そこそこ悪くない結果だと思ったけれど、母さんが「勉強が足りないわ。せめて3位以内に入らないと」と冷ややかだった。ユヅルは学年1位が目標だったらしく、めちゃくちゃ悔しがっていた。
「ちくしょー。もっと勉強しないとアイツらを抜けないじゃん。なあ、ショーマ、夏休みもさ、一緒に勉強しようぜ」
「いいけど。でも、僕、予備校の夏季講習もあるから」
「は? お前って勉強オタクなん?」
「いや、母さんが申し込んじゃって……」
「ショーマも苦労してんだな。じゃあさ、勉強合宿はどう? ショーマんちでお泊まり会」
とユヅルはにやりと笑った。夏休みに入っても、勉強監獄のメニューとして、始まりの1週間は夏季講習という名目の授業があるのだ。国数英だけだけど、1教科90分。午後2時には下校になるから、最終日ならスケジュールが空いていた。
「決定だな。これで、監獄メニューも乗り越えられそうだわ」
「本当に楽しみだね」

 そして、学校の夏季講習が終わった金曜日。ギーとセミが鳴いている。学校帰りの同級生たちが地下鉄の駅へと降りていくのを横目に、僕は、ユヅルを駅の入口で待っていた。自宅が学校から自転車で10分くらい、らしい。
「おう」
「よう」
 着替えを済ませたユヅルが現れた。白いTシャツに薄いグレーのパーカーを羽織り、ブルージーンズ姿。ボストンバッグを肩にかけている。私服姿を見るのは、ちょうど1か月前の校外模試以来だった。
「僕も早く着替えたいよ」
「だよな。ショーマんち、どれくらい?」
「40分くらい。大通駅で東西線に乗り換えて、西28丁目駅から10分歩くよ」
 そう言いながら、地下鉄の駅のホームに向かった。

「麦茶で良かったかしら? アイスコーヒーも用意しているので欲しかったら声をかけてね。お腹は空いてる? きのとやのロールケーキを持ってくるわね。それから、6時くらいに夕飯にしようと思うの。車で5分くらいのところに天然温泉のスーパー銭湯があってね。そこでお食事もできるから。ユヅル君、ショーマをよろしくね」
 母さんが部屋に入ってきて、麦茶をテーブルに置きながらユヅルに笑顔を振りまいた。
「ショーマがね、家にお友達を連れて来るのが初めてなの」
「ちょ、ちょっと、母さん。もう下に行っていいから。早く勉強始めたいんだよ」
僕は赤面して、母さんを部屋から追い出した。ユヅルは大笑いしている。
「そっか、そっか。オレが初めてのお客さんなんだ」
「いや、その……。小学生のときから、ピアノのレッスンと塾、英会話教室にも通ってたから。遊ぶ暇がなくて……。でも、僕にも友達はいたからね!」
ユヅルの笑いが止まらない。僕は麦茶を一気に飲み干した。
「ショーマ、ありがとう。笑わせてもらって」
ユヅルも麦茶を一気に飲み干した。扇風機を回し、僕は窓を開ける。着替えを済ませて、僕らは勉強を始めた。3枚CDチェンジャー付きのミニコンポから、ゆずの曲が静かに流れ続けた。

 午後6時を少し過ぎた頃に、母さんが運転する車で、近くのスーパー銭湯に向かった。母さんが、余計なことを言わないかハラハラしたけれど。夕食をご馳走し、母さんは「お風呂が終わったら、休憩室で待っているわ」と言って女湯に向かった。
「ショーマの母ちゃんって、めっちゃ優しいじゃん。オレのお袋なんて、鬼厳しくてさ、おっかないんだ」
「そうでもないよ。僕が友達と一緒だから、嬉しいんだよ」
「あ、初めてのオトモダチだからか」
脱衣所で、服を脱ぎながらゲラゲラと笑う。僕は、少しうつむきながら、ユヅルにお願いをした。
「……見せて、もらえる?」
ユヅルは、ニヤリと笑って腰に巻いたタオルを肩にかけた。
「あんまり大きくないけどな」
僕より、大きい。
「ショーマ、ずるいぜ。隠してないでお前も見せろよ」
僕もユヅルの真似をしてタオルを肩にかける。
「なんだ、おんなじくらいか。正直言うとさ、もし、一歩みたいなヘビー級だったらって、一瞬不安になった」
ボクシング漫画の主人公のネタで、笑った。おんなじくらい。僕はその言葉で心が軽くなった。
 洗い場では、ユヅルも僕もはしゃいでしまった。僕が髪を洗っているとき、いくら頭をすすいでも泡がなくならない。なんとか泡の隙間から鏡を見ると、ユヅルがシャワーをしている僕の頭に、シャンプーをかけ続けていたし。僕はお返しとばかりに、体を洗っているユヅルに、水にしたシャワーを背中から浴びせたり。うるせーぞ、って隣のおじさんに怒られたくらい。

「ふう。楽しいな。ようやく高校生になった感じがする」
「僕も」
 ようやく体を洗い終えて、僕らは露天風呂に浸かっていた。街中にあるスーパー銭湯とは言え、紫色に染まった空が見える。ちょろちょろと、吹き出し口から静かにお湯が流れ出す音。内湯と違って、この時間はあまり人がいなかった。

「……僕ね、中学生の頃は、本当はすごい息苦しかった。塾もピアノのレッスンも、なんでやっているんだろうって思ってた。何でも話せる友達がいなかったし。今も、母さんは医者になれって言うけれど、まじ勉強する意味もわかんなくて。小さい頃から父さんは僕にピアノを押しつけてきたし。
 でもさ、中3のときに、ゆずの夏色を初めて聞いてさ、なんていうか、自由にしてもいいんだって思ったんだ。音楽って自由なんだって。でね、父さんにレッスンをやめたいって、言えたんだ。いつもは僕にあんまり関心ない人なのに、めっちゃ怒られた。父さんの愉しみを奪うのか、って。
 父さん、ピアニストなんだ。コンサートとかでいつも飛び回っているし、大学でも教えているから、あんまり家にいなくてね。たまに父さんと連弾するくらいだったんだけど。母さんが言うには、父さんにとって、僕との連弾が唯一の家族との時間だったんだって。僕、一人っ子で、甘やかされていたと思うけど。僕なりに親の期待を全部受け止めていたつもりだったから、父さんに言い返したんだ。僕は父さんの道具じゃないって。受験生だし、レッスンには絶対に行かないって宣言したんだ。父さん、がっかりした顔をしてたけどね。それからあんまり口をきかなくなったよ」

 カアカア……遠くの空から鳴き声が響く。ユヅルも空を見ながら、ぽつりと言った。

「……なあ、ショーマ。親父さんに、ちゃんと謝っとけよ。
 あのさ、オレんちさ、お袋と弟の三人暮らしなんだ。中2の冬に、親父、急性心不全で死んじまったんだ。突然だったから。ぽっかり、ここに穴が空いた感じだった。優しくて、いっつもニコニコしてた。
 お袋に聞いたんだけど、親父は友達の連帯保証人になってたらしくて。そいつが雲隠れしたせいで、親父が借金を返さなきゃならなくなった。親父、無理してたらしいんだ。あの日、朝起きてこなくて……」

僕はバカだ。ガキだ。そう思った。

「オレもショーマと同じで、ゆずの夏色を初めて聞いたとき、前を向けるようになったんだ。何もしてあげられないけれど、少しでもそばにいるよ、って親父が言ってくれた気がしたんだ。
 親父の保険金で、借金はなくなったけど、お袋だけの収入じゃ、生活が苦しくてさ。ウチの高校は勉強監獄だけど、入試の当日点が高かったら、入学金も授業料も免除になるじゃん。それに、W大の指定校推薦もあるし。だから、中3の夏から勉強して、市内の私立高校を第一志望にしたんだ。
 でも高校に入ったら、最初は空っぽな連中ばかりだなって思ってて。北高を落ちた、とか、南高を受けたんだけど、とかさ。落ちたことを自慢し合ってて、つまんなかった。勉強監獄に来たなら、勉強すればいいじゃん、って思ってさ。
 オレ、親父のこともあったから、弁護士を目指しているんだ。借金に困っている人を助けたい。W大の政経学部に行って、弁護士になって、そんで弟の進学費用くらい稼げるようになりたい。この前調べたんだけど、日本育英会の奨学金を利用したら、お袋に迷惑をかけないで私大への進学も何とかなりそうなんだ。
 ……ああ、そうだよ。弟はまだ5歳で、保育園。親父が死んでからは、オレが銭湯に連れて行ったり、メシの用意をしてたりしてる。
 オレんち、古い市営住宅だから、狭いんだ。ショーマの部屋、広くていいよな。まあ将来、オレは絶対、ショーマんちよりも、大きい家に住むけどな」
と、ゲラゲラ笑った。僕も一緒に笑った。

 一通り笑い尽くしたあと、ユヅルは僕に秘密を打ち明けた。
「オレさ、実はバイトしてるんだ」
「そうなんだ。学校にばれたやばくない?」
「やばいよ。でも大学って進学するときに入学金をすぐに払わないといけないんだ。お袋には頼らないようにしたいから、少なくとも入学金の分は稼がないと。だからさ。お袋のお兄さんが、喫茶店をやってて、土日だけ。お袋から頼んでもらって、そこでバイトさせてもらっているんだ」
 勉強監獄は、勉強以外の「無駄な時間」を禁じている。アルバイト禁止、部活動禁止、家族や親戚以外との外泊禁止。禁を破ると、停学処分や退学を勧告される。さすがに、今時、外泊禁止はないわよねと、母さんも呆れていたけれど。「絶対に秘密だからな」とユヅルは僕に念を押す。

「ありがとう。僕、ユヅルと友達になれて良かったよ」
「オレもだ」

5・VHSとピアノと

 母さんが「あまり遅くまで夜更かししないようにね」と、部屋から出て行った。はーい、おやすみなさい、と返事をして部屋の戸を閉めた。
「お、卒アルだ」
「勝手に見るなよ」
「で、どの子?」
「いやあ、その……、この子」
「意外だな。ショーマの好みって浜崎あゆみタイプなんだ。告った?」
「片思いだよ。彼氏、いたもん」
「臆病もんだな」
ケラケラと笑う。
 しばらくして、母さんが寝たことを確認し、勉強道具を片付けた。テーブルを戸の近くに移動させ、床に布団を敷く。麦茶の入ったポットと、残ったポテチの袋は、僕の勉強机に並べる。灯りを落として、テレビを付ける。音量を絞る。
 ベッドを背もたれにして、僕とユヅルは、隣り合って座った。扇風機のブーンと静かに回る音。
「準備オッケーだね」
「オレ、めっちゃ興奮してる」
「僕もだよ。じゃあ、再生するよ」
 VHSテープをデッキに入れて、再生ボタンを押す。3月に発売された、ライブビデオ。近所のレンタルビデオ屋さんにあったのが奇跡だと思った。
 二人の弾き語りによるライブ映像が、画面からあふれ出す。
 あの伝説の路上ライブ最終日。横浜伊勢佐木町商店街の松坂屋前で立つ二人。鍵盤ハーモニカの音が、僕の部屋にもこだまする。ギターの音がすぐに追いつき、二人は、大勢の人たちの前で、堰を切ったように言葉を投げかける。その一言一言に、僕は胸を掴まれた。その歌に込められた、その想い。僕らにも伝わってくる。鳥肌が立った。
 ユヅルも僕も、涙を流しながら、僕らが誓った、あの合い言葉を胸に刻んだ。
 2時間のライブが終わった。全部で20曲。余韻に浸りながら、僕らは感動を伝え合った。窓の外が白んできた頃、床からユヅルの寝息が聞こえ始めた。僕もベッドの中でうつらうつらする。
(いま、じぶんにできること…… ひたすらに……やってみよう……)
 夢の中で、僕はユヅルと一緒に、横浜で唄っていた。

 朝ごはんはどうするの、という母さんの大きな声で目を覚ました。ユヅルも、目を覚ます。時計は8時10分を指していた。僕はユヅルに、どうしたい?、と目で促す。ユヅルの欠伸が僕にも移った。ふぁあ……。
「食べるよ」
と戸を開けて、下にいる母さんに伝えた。
 寝起きのハーフパンツにTシャツのまま、下に降りてダイニングテーブルに座る。隣にユヅルも欠伸をかみ殺して座った。厚切りのジャムバタートースト、スクランブルエッグとスライスしたトマトがレタスの上に並んでいる。カップにはホットカフェオレ。
「ショーマんちの朝ごはんって、いつもこんなホテルみたいに豪華なのか?」
「あらいやだ、ユヅル君ったら。お上手ね」
僕が答える前に、母さんがにこやかに答えた。僕がトーストを頬張る間、母さんとユヅルは、僕の昔話に花を咲かせている。僕はもう反論もしなかった。
「じゃあさ、ショーマ。あとでお前のピアノ、聞かせてくれよな」
「……いいよ」
そう言って、僕は、カップの底に残っていたカフェオレを飲み干した。
 ほぼ1年ぶりに僕はピアノの前に座った。ユヅルは、ピアノの上に飾ってある僕の小3の発表会のときの写真をみて、「蝶ネクタイかよ」って笑った。その笑い声に、僕は気持ちが楽になる。久しぶりに、鍵盤の上に指を置く。ショパンのノクターン第2番変ホ長調作品9の2。音が固かったけれど、指が自然と動いた。
「すげえな。ショーマ。めっちゃプロじゃん」
 ユヅルが拍手して、喜んでいた。そして、ゆずの曲は弾けないのか?、と聞いてきた。
「楽譜がないから、ちゃんと弾けないけれど。でも、なんとなくなら弾けると思う。やってみるね」
と、僕は昨日の夜のライブビデオを思い出し、鍵盤ハーモニカの音を拾って、それから和音を重ねてみた。
「おっ、いい感じじゃん。ショーマって才能あるよな」
そう言って、ユヅルは僕の伴奏に合わせて歌い出した。さすがに、ピアノを弾きながら僕は歌えない。弾くことと歌うことを同時にこなすのは、とても難しい。
 僕が耳コピしたピアノ伴奏で、ユヅルが歌う。時間があっという間に溶けてしまった。
「あ、やべっ。もうこんな時間か。オレ、昼からバイトなんだ。そろそろ、一旦家に帰るわ」
「そうなんだ。バイト、頑張ってね。久しぶりにピアノを弾けて、楽しかった。ありがとう、ユヅル」
「どういたしまして。ショーマは明日も暇か?」
「うん。予備校の夏季講習は月曜日からだから、明日も時間あるよ」
「なら、オレのバイト先に来いよ。喫茶店で勉強するっていうのもカッコ良いぜ。もちろんコーヒー代は自分で払えよ」
ニヤリとユヅルは笑う。僕は喫茶店の住所を教えてもらい、譜面台に置いてあった鉛筆でメモを取った。
 僕は玄関でユヅルを見送る。「また、遊びに来てね」と母さんも笑顔でユヅルを見送った。

6・路地裏の白い隠れ家

 翌日。日曜の昼下がりに、
「予備校の自習室に行ってくる」
と母さんに声をかけて、僕は家を出た。カバンには、明日から始まる夏季講習のテキストを入れてある。
 予備校のある西11丁目駅を通り過ぎ、大通駅で地下鉄を降りて、人混みの地下街ポールタウンを歩く。狸小路との交差点で地上に出る。夏の日差しはアーケードで少しは遮られているものの、狸小路の中は風が抜けず蒸し暑い。多くの観光客で賑わっていた。2丁目まで歩いてメモを確かめる。豚骨の匂いのするラーメン屋。その横の、車が一台通るのがやっとの路地に入る。
 突き当たりに、白壁の古民家がひっそりと建っていた。焦げ茶色の木の扉に、黒いペンキの達筆で「弥勒」。看板らしいものは、それだけだった。
 ギギィーっと扉を開けると、コーヒーの深い薫りが押し寄せてきた。
「いらっしゃいませ。……お、来たな、ショーマ」
 白いシャツに黒いエプロン姿のユヅルが、盆を持ったまま笑った。見慣れた制服姿ではなく、昨日とあまり変わらない服装なのに、働いているユヅルはなんだか別人みたいだ。
 カウンターの奥に、髭面の大男がいた。ネルドリップで、ゆっくりとコーヒーを淹れている。ユヅルのお母さんのお兄さん。つまり、ユヅルの伯父さんだ。
「甥っ子が、世話になってる」
 マスターはそれだけ言って、また手元に視線を戻した。無口な人らしい。
 店の中は、外の喧噪が嘘みたいに静かだった。扇風機が首を振って回る音。飴色の柱。こじんまりとしたホールには、年季の入った木のテーブルが一つ。ダークブラウンのカウンターに黒の丸椅子が四つ。奥の棚には、レコードがぎっしりと詰まっている。スピーカーからは、古い洋楽のロックが小さく流れていた。
 狭い階段を上がると、2階席には、白色のラウンドテーブルが二つ。ユヅルの案内で、僕は窓側の席に座った。他にお客さんはいない。僕は数学のテキストを広げて、明日の予習を始めた。ユヅルが僕の手元を覗き込んで、
「うわ、数学じゃん。さすが勉強オタク」
「オタクじゃないってば」
 ぎっし、ぎっしと、マスターが階段を上がってきて、コーヒーをテーブルの上に置く。
「濃いぞ」
 弥勒のブラックコーヒーは、一口含むと苦さの奥から香ばしさとほのかな甘みが、ゆっくりと広がった。美味しい、と素直に思った。大人の味というのは、こういうものなのかもしれない。
 日曜日の弥勒は、客がまばらなようだった。2階席まで上がってくるお客はいない。時折、ユヅルの「ありがとうございました」という声が聞こえる。
 講習テキストの問題文が、ふいに遠くなった。ユヅルは、もう自分で生き方を決めている。僕は、誰かが敷いたレールの上で、ただどこかに運ばれているだけ。
 夕方、店を出るとき、ユヅルが扉の外まで見送ってくれた。
「な、いい店だろ」
「うん。すごく落ち着く。……明日もまた来ていい?」
「あったりまえじゃん。ま、コーヒー代は払えよな」
 路地を抜けて振り返ると、白壁の古民家は、街の音から一歩引いたところに、静かに佇んでいた。
 弥勒は僕の隠れ家になった。予備校の夏季講習の帰りにいつも立ち寄る場所。母さんには秘密だ。ユヅルは、定休日の水曜日以外は、毎日弥勒でバイトだった。「今のうちにたくさん稼いどかないとな」と、コップの水を取り替えながら僕に言う。僕は僕で、いつも2階の窓側の席で夏季講習の復習と予習をする。ビルに囲まれた古民家には、窓から日差しが入り込まない。マスターは相変わらず無口だ。何も頼まなくても、毎回、僕の前にブレンドが置かれた。それが、たまらなく嬉しかった。
 お盆を過ぎて、夏休みが終わる。勉強監獄が再開するけれど、少しだけ楽しみだった。

7・校舎の裏に連れて行かれて

 勉強監獄にも、文化祭はある。
 といっても、たったの一日。模擬店は禁止で、各クラスの出し物は「学習系」に限られ、それ以外は午後のアリーナでの「有志ステージ」と、夕方の後夜祭だけ。それでも、二日間の文化祭準備期間は授業がなくなり、熱狂に包まれる。教室の窓に色とりどりのセロハンが貼られるだけで、灰色の校舎は少しだけ輝きを放つ。
 10月9日の土曜日、文化祭当日は地域の人にも開放され、保護者だけでなく、たくさんのお客さんも校舎に入って楽しむことができた。
 僕らのクラスは「北海道」を題材にした創作の英語劇。廊下ですれ違った役者のユヅルは、緑色のハンチング帽に緑色の蝶ネクタイ姿で、まんざらでもない顔をしていた。
「オレも蝶ネクタイデビューだぜ」
「まあまあ似合うよ」
「おう」
 一言二言交わして、僕は教室に戻った。文化祭実行委員の女子二人の指示が飛ぶ。僕は教室装飾の係なので、文化祭当日は破損した部分を直すくらいしか仕事はなかった。教室で創作劇を上演している合間に、僕はクラスの友達とアリーナで有志ステージを眺めた。高3の4人バンドが最近流行りの曲を演奏していた。ステージ前で、3年生たちがバンドに合わせて絶叫している。このときばかりは誰もが監獄から解放された自由を味わっていた。

 日が暮れて、片付けが終わった頃。グラウンドでは、生徒会が依頼した花火師が準備をしている。BGMが大きくなり、後夜祭が始まろうとしていた。僕が帰り支度をして生徒玄関に向かっているときに、ぐいっと腕を掴まれた。ユヅルだった。
「ショーマ! ちょっと!」
と、理由も言わずに、校舎の裏に連れて行かれる。ユヅルの顔が、赤かった。
「ユヅル? なんかあったの?」
「彼女、できたかも」
「は?」
「いや、できたかも、じゃねえ。できた。たぶん。いや、できた」
「まあ、落ち着いてって。どういうこと?」
 ユヅルが深呼吸をして、事情を話した。中学の同級生が、友達を連れて文化祭に遊びに来ていた。南高の子で、英語劇のユヅルを観て、カッコいい、と思ったらしい。帰り際、校門のところで呼び止められて、付き合ってください、と。
「南高だぜ? オレよりもめっちゃ頭良いじゃん。てっきり冗談かよって思ったけど……」
「……で、なんて答えたの」
「お願いします、って言った。実は……オレ、告白されたの、生まれて初めてで。心臓、まだバクバクしてる」
 いつも人の輪の真ん中で笑っている奴が、耳まで赤くして、うろたえている。僕はおかしくて、嬉しくて、笑いが止まらなかった。
「なに笑ってんだよ」
「いやあ、ごめんごめん。ユヅルに臆病もん、って言ってあげたかったよ。マジで良かったね。おめでとう、ユヅル」
 グラウンドのほうから、後夜祭の打ち上げ花火が咲く音が響く。夜空に色とりどりの花が広がっていた。
「ありがと。オレ、これから忙しくなるなあ」
 ユヅルは、取り繕うようにいつもの調子に戻って、僕の肩をばしばし叩いた。

 しばらくして、土曜日の夜、予備校帰りの弥勒で僕が自習をしていると、ユヅルは時々、彼女のアキさんの話をするようになった。ただ、少しだけ困った顔で。
「アキちゃんさ、ビジュアル系一筋なんだよ。ゆず聴かせたら、ふーん、だって。ふーん、だぜ?」
「まあ、好みは人それぞれだから」
「ゆずの良さがわかんないとか、人生の半分、損してるって」
 僕は笑って聞いていた。ゆずの話は、結局、僕とユヅルでする話のままだった。それが、ほんの少しだけ、嬉しかった。

8・クリスマスの贈りもの

 11月最後の土曜日、弥勒には、僕しか客がいなかった。
 窓の外は、みぞれ混じり。FFストーブが、乾いた音を立てて熱風を吐いている。エプロン姿のユヅルも手持ち無沙汰で、僕の隣で宿題をやっていた。
 マスターが、ふいに2階へ上がってきた。奥の戸を開けて、物置の中に入る。出てきたその手には、古びた飴色に焼けたフォークギターが。
「伯父さん、弾けるの?」
 ユヅルが目を丸くする。マスターは答えずに、ペグを回して弦を合わせた。そして、おもむろに弾き始めた。
 夏色、だった。
 僕とユヅルは、顔を見合わせた。原曲より少しゆっくりの、でも確かに、あのイントロ。無骨な指が、六本の弦の上を正確に動いていく。ゆずよりも1オクターブ下の、低音が響く歌声。弾き語りを終えて、マスターはぼそりと言った。
「お前が、よく鼻歌でうたってるからな」
「すごい! 伯父さんがギターを弾けるなんて知らなかった」
「昔、バンドを、な」
 それ以上は、語らなかった。
「客がいないときなら、触っていいぞ」
 マスターはギターをスタンドに立てかけて、1階に降りていった。
 その日から、毎週末、ユヅルのバイトが終わって小1時間ほどは、弥勒2階が僕らの練習場所になった。マスターは、何も教えてくれない。ただ、僕らが弦を押さえられずに唸っていると、黙って指の形を直してくれた。Fコードで指が攣りそうになる。僕の隣で、ユヅルは「いってえ」と笑っていた。ピアノとは全然違う指使い。僕も、指がスチール弦で切り刻まれるような痛みに、どうしようもなく笑うしかなかった。それでも、押さえられるコードが一つ増えるたびに、世界の色が一つ増える気がした。

 12月25日、土曜日。
 僕は予備校の帰り道、狸小路4丁目の楽器店にいた。財布には、お年玉とお小遣いをかき集めた4万円。所狭しと並ぶさまざまなギターを、端から順に眺めていく。店員さんに相談すると、「小ぶりで抱えやすいニューヨーカースタイルのボディで、しっとりとした弾き語りに最適ですよ」とお勧めしてくれた国産のギターを選んだ。クリスマスの特別サービスです、と黒いハードケースを付けてくれた。
 2丁目まで歩く。ツリーの飾り。行き交う恋人たち。黒いギターケースを片手に歩く僕は、なんだかこれから弾き語りをする人のようだ。ユヅルは今日はバイトを休んで、アキさんとのデートらしい。プレゼントに、ビジュアル系バンドのアルバムをねだられたと、ぼやいていた。
 ギギーッと弥勒の扉を開けると、マスターが「今日はオフだぞ」と言う。僕は、
「知ってます。あの、これ買ったんです。上で弾いても良いですか」
とマスターにお願いして、2階に上がった。黒いケースから、磨かれた濃い茶色のボディがライトを反射する。僕は、ギターを取り出してCコードを指で弾いてみた。うわっ。音が狂っている。ぎっし、ぎっしと、マスターが階段を上がってきて、銀色の小さな包みをテーブルの上に置く。
「買ったばかりのギター弦は、すぐに弛む。音が馴染むまで、チューニングを続けろ。これは、ユヅルがお前にと、昨日置いていった」
 マスターが下に降りていった。銀色の包み紙には、4丁目の楽器店の名前。開けると、おにぎり型のピックが、3枚。正方形の付箋にメモが書いてあった。

 Merry Christmas!
 ゆずと同じピックな
 それで練習しろよ
  by ユヅル

 僕は、何度もメモを読んで、銀色の包み紙に戻し、ギターケースの中にある小物入れに仕舞った。Cコードを、ピックを使って弾く。マスターの言うとおり、弾くたびに音が低くなるので、何回もチューニングしてCコードをピックで弾いた。C、F、Am、Gと、ゆっくりとギターを鳴らす。僕の体がギターと共鳴する。心が震えた。
 帰り際、僕はマスターにお願いしたいことがあったけれど、緊張して言葉に詰まった。
「置いていけ。物置が空いてる」
僕が言葉にする前に、マスターが言った。そして、「お祝いだ。お前にやる」と、年季の入った銀色のカポタストをカウンターテーブルに置いた。ありがとうございます、と2階に戻り、物置に黒いギターケースをそっと置いた。母さんには、ギターを練習していることも秘密にしている。そんな暇があるなら問題集をやりなさい、と言われるのが目に見えているからだ。
 弥勒を出ると、牡丹雪が風に舞っていた。僕はダウンジャケットのフードを被り、路地を抜けた。

9・はじまりの夜

 年が明けて、2000年になった。世界が終わるとか、コンピューターが狂うとか騒がれていたけれど、札幌の街には、いつも通りの雪が降り積もっただけだった。
 1月8日の土曜日。冬期講習のテキストを持って弥勒に行くと、ユヅルの様子がおかしかった。いらっしゃい、の声に力がない。オーダーを二度も間違えて、マスターに小突かれている。バイトが終わって、客が僕だけになったとき、ユヅルは2階の壁側のラウンドテーブルに、どさりと座った。
「……振られた」
「え」
「昨日、電話でさ。『他に好きな人ができた』って。……それだけ。それだけだぜ?」
 ユヅルは無理に笑おうとして、失敗した。
「バンドやってる1つ上の先輩、なんだと。ライブハウスで知り合ったんだって」
 いつも人の輪の真ん中で笑っている奴が、しぼんだ風船みたいに、小さく見えた。
「ゆずの良さも、わかってもらえなかったしな」
「そっか」
 僕は、それしか言えなかった。ぎっし、ぎっしと、マスターが階段を上がってきて、蜂蜜入りのホットミルクを二つ、テーブルに置いた。僕は、いつまでも言葉が見つからなかった。
 弥勒を出て、じゃあな、と路地を抜けたところで、別れた。
 狸小路を抜けて、地下街ポールタウンに降りる。大通駅から地下鉄に乗る。家に着くまで、僕はずっと考えていた。模試の順位が下がって僕が沈んでいるときも、ユヅルはいつだって笑わせてくれた。カラオケに連れ出してくれた。初めての、友達になってくれた。なのに僕は、「そっか」だけだ。
 言葉が、見つからない。——歌えば、いい。
 僕らを繋いだのは、最初から、言葉じゃなくて歌だった。

 次の土曜日。1月15日。
 いつものように予備校の帰りに弥勒に行って、ギターの練習。ユヅルは今日は、弟をスキーに連れて行くことになっていて、バイトを休んでいる。マスターに、また後で戻ってきます、と伝えて、買ったばかりのギターを持ち出した。
 午後9時。狸小路2丁目の商店街はすでにどの店もシャッターが降りている。僕はギターケースを開けた。2丁目と3丁目を区切る交差点そばの、靴屋のシャッターの前。アーケードのオレンジ色のランプの下で、僕はギターを取り出し、かじかむ指に息を吹きかけて、チューニングをする。コートのポケットには、いつものMDウォークマン。小さなステレオマイクを録音端子に繋げて、ギターケースの縁に立てた。
 夏休みに一緒に見た、あの伝説のビデオの中で、二人は路上で唄っていた。誰に頼まれたわけでもなく、ただ、届けたい人たちのために。僕も、同じ気持ちだった。
 小雪が、散らつき始めた。
 録音ボタンを押す。赤いランプが灯る。
 銀色のカポを、3フレットに取り付ける。左手で、Cのコードを押さえる。大きく息を吸って、右手を振り下ろした。
 じゃん、と鳴った六本の弦が、夜のアーケードに響き渡った。
 夏色。真冬の夜に、僕らの始まりの曲。
 ピックを持つ指が震える。通りかかった酔っ払いのおじさんが、足を止めて僕を見た。構わず、唄った。5曲、続けて唄った。
 唄い終わると、拍手が、一つだけ聞こえた。弥勒のマスターが、交差点近くの柱を背にして立っていた。何も言わずに、使い捨てのカイロを一つ、放ってよこした。
「風邪、ひくなよ」
 それだけ言って、マスターは店に戻っていった。

 翌日。冬休みの、最後の日。夕方、バイト中のユヅルに、僕はMDを一枚、押しつけるように渡した。
「……MD?」
「あとで聴いて」
 ユヅルは首をかしげながら、ラベルのないMDをエプロンのポケットにしまった。僕は、今日は早めに帰らないと、と言い訳にならない言い訳をして弥勒を出た。

 始業式の朝、下駄箱のところで、ユヅルが待っていた。
「なあ、ショーマ」
「うん」
「……ヘッタクソだな、お前のギター」
「うるさいな」
「でも」
 ユヅルは、洟をすすって、笑った。
「サンキューな」
 教室に向かう廊下で、ユヅルはいつもの調子に戻って、僕の肩をばしばし叩いた。その痛さが、嬉しかった。

10・黒のキャスケット、紺のキャスケット

 3月1日は高校の卒業式だった。3年生が勉強監獄から解放されたあと、2年生の修学旅行があるので、1年生は一足早く春休みになる。春季講習という、勉強監獄のメニューが残っているけれども。
 春休みの最初の土曜日。バイト上がりのユヅルと一緒に、いつものように弥勒の2階でギターの練習をしようかと、物置から黒いギターケースを取り出した矢先。ユヅルがリュックに手を入れて何かを取り出した。タンバリンだった。
「バイト前に、4丁目の楽器店で買ってきた。いっちょ、やってみないか?」
 ニヤリと笑うユヅルに、僕もニヤリと返した。
「もちろん、オッケーだよ」
 こうして、僕らの「路上ライブ」が始まった。
 毎週土曜日、午後9時から10時まで。場所は、狸小路2丁目。あの交差点。ユヅルのバイトが終わるのを待って、弥勒の2階からギターを降ろす。マスターは、カウンターの奥で、カップを磨いている。
 顔は、隠すことにした。なにせ僕らは、大学受験至上主義の名門、勉強監獄の囚人だ。路上ライブなんて見つかったら、停学どころじゃ済まないかもしれない。狸小路1丁目の古着屋で、ユヅルは黒、僕は紺のキャスケットを買って、目深に被るようにした。靴屋のシャッターの前に座り、ギターケースを開いて、僕らはあの二人のように、唄い合った。

 4月になり、僕らは2年生になった。ユヅルは文系クラス、僕は理系クラス。教室が分かれて、廊下ですれ違うだけの日も増えた。
「おう」
「よう」
 それだけでも、十分だった。週末土曜の夜9時に、弥勒から必ずあの交差点に向かい、一週間分の距離が、ゼロに戻るから。
 レパートリーは、ゆずの曲を片っ端からコピーした。シングルも、アルバム曲も、カップリングも。僕がギターと岩ちゃんパート、ユヅルがタンバリンと悠仁パート。ハモリがぴたりと決まった夜は、二人とも、ニヤニヤしながら家路についた。
 客なんて、ほとんどいない。すすきののはずれに向かう酔客が、時々足を止めて、冷やかし半分の手拍子をくれるくらい。それでも、札幌まつりの夜、浴衣姿のカップルが最後まで聴いてくれて、五百円玉をギターケースに入れてくれたことがあった。唄うのは、お金のためじゃない。でも、嬉しい。何のために唄うのか、と聞かれたら、困るけれど。
「気持ちいいから、でいいじゃん」
 ユヅルはそう言って、タンバリンをアーケードに向かって振った。シャン、という音が、アーケードの天井に吸い込まれていった。

 夏休みが終わる頃には、常連もできた。二人組の、お姉さんたち。たぶんどこかの大学生。いつも少し離れたシャッターの前に並んで立って、最後の曲まで聞き終わると、そのまま拍手だけ置いて帰っていく。
 季節が巡る。文化祭も終わり、次第に日が短くなって、吐く息が白くなる。灰色の一週間。その週末だけ、カラフルになる。いつまでも、この時間が続くと思っていた。このまま続けばいい。そう願っていた。

11・それぞれの冬へ

 11月5日、日曜日。全国模試があった。高2の秋の模試から5教科受験になり、志望校の合格判定が付く。
 文化祭が終わった頃から、ユヅルは土曜日の交差点に遅れてくるようになった。バイトの後、店に残って勉強するから先にやっててくれ、と。一人で唄う時間が、少しずつ、増えている。
 模試から2週間後、結果が返ってきた。
 僕は53位。母さんは成績表を一瞥して、「ゴミね。ひどい成績」と、それだけ言った。冷たい言葉のはずなのに、僕の心は、たいして動かなかった。
 その週の土曜日。いつまで待っても、交差点に、ユヅルは来なかった。10時を過ぎて、僕は弥勒に戻った。ユヅルは、閉店後の店のカウンターに、一人で座っていた。目の前には、折り畳まれた成績表。
「……悪い。今日は、やめた」
「うん。いいよ」
 僕は隣の丸椅子に座った。マスターはホットミルクを二つ置いて、カウンターの奥に座った。
 ユヅルの学年順位は、19位だった。入学以来、ずっと一桁だった奴の、初めての二桁。しかも、あと一つ落とせば20位台という際どさだった。W大政経の判定欄には、Eの文字。
「言い訳のしようが、無い」
 ユヅルは、成績表を見ないまま言った。
「バイトして、路上ライブして、それでも何とかできる、って思ってた。けど、周りが本気になったら、あっという間だな。……ショーマ。オレ、なんのために、この監獄に来たんだっけな」
 弟のため。お母さんのため。借金で困っている人を助ける、弁護士になるため。全部、ユヅル自身の口から聞いてきた。だから僕は、何も言わなかった。
「バイトは、日曜だけにする。伯父さんには、もう話した。それとさ」
 ユヅルは、初めて僕の顔を見た。
「お前の予備校の冬季講習に、オレも申し込む。入学金のために貯めてたバイト代、少しだけ使う。なあ、悪くない使い道だろ」
「うん。一緒に勉強できるの、嬉しいよ」
 本心だった。だけど。ユヅルの次の言葉に僕は言葉を失った。
「ショーマ。オレさ、お前と唄うの、ほんとに好きなんだ。お前は、大親友だ。それは一生、変わんねえ。……でもな、今のオレ、お前と一緒にいると、ダメになる。覚悟が、鈍るんだ」
 積み重ねてきた土曜の夜が、頭の中を駆け抜けていった。
 責められているんじゃない。それは、わかっていた。ユヅルは、誰よりも真剣に、自分の夢と向き合っている。手放すべきものを、ちゃんと手放せる強さ。僕には、無い。
 無音。
 しばらくして、僕も、初めて自分の内側にある言葉を口にした。
「僕は、まだ、何がやりたいのか分からない。母さんは医者になれって言うけど、なりたいわけじゃない。勉強する意味も、正直、まだ分からない。でもね、ユヅル。僕は、君と唄ってるとき、ここにいていいんだ、って初めて実感できたんだ。誰かに言われたからじゃなくて、僕が僕として、ここに立ってるんだ、って。ユヅルと一緒に立つ、あの場所が、僕の居場所なんだって」
 ユヅルは、何も言わなかった。ただ、ホットミルクのカップを、両手で包んでいた。
「うん。僕は続けるよ。土曜の夜に。あの場所で」
「……そっか」
 ユヅルは、笑った。泣き笑いみたいな、へたくそな笑顔だった。

 冬期講習が始まった。平日も土曜日も、僕らは予備校の自習室に、並んで座った。ユヅルの集中力は、鬼気迫るものがあった。隣のブースから、シャーペンの音だけが響いてくる。夜10時の閉館まで、一度も顔を上げない日もあった。
 ただ、土曜日だけ。
 午後8時になると、僕は静かに参考書を閉じて、席を立つ。
 ユヅルは、ちらりと僕のほうを見る——。

12・僕は歌い続けるのさ

 最後のストロークが、アーケードの天井に吸い込まれていく。じゃらん、と余韻を残して、六本の弦が鳴りやんだ。
 真冬に響いた、夏の、始まりの曲。
 弦が急速に冷えて、指先の感覚がない。カイロのぬくもりは、とっくに無くなっていた。僕はキャスケットの庇を少し上げて、誰もいない交差点を見渡した。2丁目と3丁目を区切る、この場所。すすきのへ流れていく酔客の笑い声が、遠くで一度だけ弾けて、消えた。

 あれから、一年。
 あいつを励ましたくて、ここで唄った。ただそれだけの理由だった。
 今は、たぶん、僕のために唄っている。
 僕は、ピックを握り直す。角の擦り減った、おにぎり型のピック。去年のクリスマスに、あいつがくれたもの——。

 5曲目を歌い終えたとき、二人組の女性が、遠慮がちに近づいてきた。
「あの、私たち、いつも、聴いてました」「リクエストって、いいですか」
「あ……はい。ゆずなら、たぶん」
「じゃあ、『いつか』をお願いします。私、この曲、大好きなんです」
 一人で唄うのは、少しだけ勇気がいる。冬の歌だけれど、夏の暑い日に、あいつと一緒に唄ったことを思い出す。いつかまた……。そんな想像をしながら、二人のために、僕は唄った。アーケードのオレンジ色のランプが、僕らを照らしていた。

 僕は、ここで、まだ、歌い続ける。


あとがき


みのるの編集飛後記

 ここまで読んでいただきありがとうございます。
 どうか、あなたの16歳の頃の話も、聞かせてください。ご感想、心よりお待ちしています。

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 st.ミュージシャン
 作詞・作曲 みのる
 歌 くつひも

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