日々俳句鑑賞⑧永田耕衣「泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む」
> 泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む
永田耕衣
耕衣がひとり、釣り竿をもって川辺を歩いていたのかもしれない。
あるいは、ただぼんやりと水面を眺めていたのかもしれない。
そのときふと、泥の底から泥鰌(どじょう)が浮かびあがってきた。
水面にちらりと姿を見せて、こう語りかけるように。
> 「鯰もいますよ」
そう言い置くようにして、またすっと姿を消す。
川の水は元の静けさに戻る。
波紋すら残らず、鯰の姿も、結局見えなかった。
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この句をはじめて読むと、多くの人はユーモラスな情景を思い浮かべるかもしれない。
しかしこれは、永田耕衣。禅と対話し、俳句によって「根源」に触れようとした男の作品である。
そう考えると、この句はまるでひとつの精神体験だ。
泥鰌とは、言葉である。
もっと正確にいえば、無意識の底から浮かび上がってくる「言葉の兆し」。
それは、まだ完全な表現にはなっていない。
けれど、そこには何かを知らせる力がある。
> 「鯰もいますよ」
そうささやく泥鰌。
その「鯰」こそが、真実の自己、実体、根源的なものなのだろう。
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詩人は、それをつかみたいと願う。
言葉のひとつが浮かび上がってくれば、そこから真実へたどり着ける気がする。
だが、そう思ったとたんに、言葉は沈む。
そして肝心の鯰――本当の実体は、けっして姿を見せない。
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この句の核心は、「というて」という何気ないひと言にある。
これはつまり、「語ってしまった」ということ。
語ったとたん、波は消える。
言葉の波紋が水面に広がったかと思うと、次の瞬間には静まっている。
そこにあった気配だけが残り、実体には触れられない。
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俳句とは、そういう「消えるもの」と向き合う営みかもしれない。
無意識の底にある何かが、一瞬だけ浮かび、言葉となって水面に現れる。
その言葉を頼りに、本当の何かに近づこうとする。
だが、それはつかもうとしたとたんに、また水底に沈んでしまう。
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泥鰌は語る。
「鯰もいますよ」と。
だが鯰は姿を見せず、ただ句の奥底に、重く沈んでいる。
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語られた言葉の奥に、語られなかったものが沈んでいる。
それを追い続ける者だけが、俳句を詠むのだ。
※引用句:
「泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む」 永田耕衣
(出典:句集『悪霊』(1964年[昭和39年])所収)
本記事における句の引用は、日本の著作権法第32条に基づき、鑑賞・批評の目的で出典を明記したうえで行っています
