子どもに言葉を教えて気づいた。私たちは説明できない日本語を毎日使っている
子どもに話し方について教えている時に、ときどき説明できないことがあります。
「ここは『に』のほうが自然だよ」
そう教えることはできる。
でも、「どうして『に』なの?」と聞かれると、急に説明できなくなるのです。
日本語を何十年も使っているのに、理由は分からない。
そんな不思議を感じていたときに読んだのが、水野太貴さん、堀元見さんの『言語オタクが友達に700日間語り続けて引きずり込んだ 言語沼』でした。
この記事では、「無意識に使い分けている言葉」という視点から、子どもに言葉を教える難しさと、大人になってから学ぶ面白さについて書いてみます。
日本語を話せることと、日本語を説明できることは違う
この本を読んで、最初に感じたのは、
「自分は日本語を知っているつもりだった」
ということでした。
本書は、「ゆる言語学ラジオ」で言語学について語る水野太貴さんと、聞き手の堀元見さんによる一冊です。
「えーっと」と「あのー」の違い、「を」のニュアンス、オノマトペ、音と意味の関係など、身近な言葉から言語学の世界を掘り下げていきます。
扱っているのは、難しい外国語ではありません。
私たちが毎日使っている、日本語です。
それなのに、
「言われてみれば、なぜだろう」
と思うことばかりでした。
子どもに聞かれると、「なんとなく」が通用しない
大人同士なら、
「こっちの言い方のほうが自然だよね」
で終わることがあります。
ところが、子どもに言葉を教えていると、そう簡単には終われません。
「どうして?」
と聞かれるからです。
「そういうものだから」と言えば済むのかもしれません。
けれど、こちらも考え始める。
なぜ、この言葉を選ぶのだろう。
なぜ、別の言い方だと少し変に感じるのだろう。
そこで初めて、自分がルールを意識しないまま、かなり細かく日本語を使い分けていることに気づきました。
『言語沼』は、そんな「分かっているのに説明できないもの」を、一つずつ立ち止まって眺める本でした。
「えーっと」と「あのー」は同じではなかった
特に面白かったのが、「フィラー」の話です。
フィラーとは、「えーっと」「あのー」「そのー」のように、会話の途中にはさむ言葉のことです。
私はこれまで、どれも単なる「つなぎ言葉」だと思っていました。
言葉に詰まったとき、とりあえず口から出てくるもの。
それくらいの認識です。
ところが、どうやら私たちは、ここでも使い分けています。
「えーっと」と「あのー」を置き換えてみる
本を読んで私なりに受け止めたのは、
「えーっと」は、自分の頭の中で考えたり、答えを探したりしているとき。
一方の、
「あのー」は、伝えたいことはあるけれど、それをどう言葉にするか探しているとき。
という違いです。
気になって少し調べてみると、専門的にも、「えーっと」は考えたり言葉を探したりする場面で、「あのー」は伝えたい内容の表現を探す場面などで使われると説明されています。
普段は意識していなかったのに、ちゃんと違いがある。
それだけでも、かなり不思議です。
これを知ってから、自分の会話が少し気になるようになりました。
仕事中の会話でも、家族との会話でも、
「あ、今『えーっと』と言った」
と気づくことがあります。
もちろん、そのたびに文法を分析しているわけではありません。
でも面白いのは、ルールを習った覚えがないのに、それなりに自然なほうを選んでいることです。
本書には、「子どももフィラーは間違えない」という話も出てきます。
子どもは、
「今日は『えーっと』を使う条件について勉強しよう」
などと学んでいるわけではありません。
周りの会話を聞きながら、少しずつ使い方を身につけていく。
言葉を覚えるというのは、私が思っていた以上に複雑なことなのかもしれません。
「を・に・で」の一文字にも、ちゃんと違いがある
もう一つ印象に残ったのが、格助詞です。
「を」「に」「で」。
あまりにも普通に使っているので、普段は意識しません。
ところが本書では、
「山に登る」と「山を登る」。
「壁にペンキを塗る」と「壁をペンキで塗る」。
といった例から、「を」のニュアンスを掘り下げていきます。
どちらも意味は何となく分かる。
でも、一文字変わるだけで、受け取る感じが少し変わります。
ここが面白いところでした。
正しい・間違いだけでは説明できないもの
子どもの国語を見ていると、
「ここは『を』だよ」
「ここは『に』だね」
と、答えを教えることがあります。
そのとき私が見ていたのは、どちらかというと正解か不正解かでした。
でも『言語沼』を読むと、その一文字の後ろにあるものが気になります。
なぜ「を」だと、こちらの感じになるのだろう。
なぜ「に」に変えると、焦点が少し変わって感じるのだろう。
それは、テストの丸付けとは別の問いです。
そして私は、こちらの問いのほうが好きかもしれないと思いました。
答えを覚えるのではなく、
「なぜ、そう感じるんだろう」と眺めてみる。
子どもに言葉を教えていたはずなのに、気づけばこちらが日本語を学び直していました。
「役に立つ」の物差しを外してみる
会社員になってからの勉強を振り返ると、私はつい「役に立つか」で考えてしまいます。
仕事に使えるか。
資格につながるか。
知っておいたほうが得か。
限られた時間で学ぶなら、それも当然だと思います。
仕事があり、家事があり、子育てもある。
使える時間は多くありません。
だから「何を学ぶか」に効率を求めたくなります。
でも、『言語沼』を読んでいる時間には、その物差しがあまり出てきませんでした。
「えーっと」と「あのー」の違いを知ったからといって、明日の仕事が劇的に変わるわけではありません。
「を」の研究を知って、家事が早く終わるわけでもない。
それでも、
「そんなところにも違いがあったのか」
と思った瞬間は、かなり楽しい。
この感覚を、私は少し忘れていた気がします。
大人の学び直しは、「疑問を増やす」ことでもいい
子どもの勉強を見ていると、つい「分かるようになること」に目が向きます。
漢字を覚える。
計算ができる。
文章題が解ける。
もちろん大切です。
でも大人になった今、もう一つの学び方があることに気づきました。
分からなかったことが分かるだけでなく、今まで疑問にすら思わなかったことを「不思議だ」と思えるようになること。
これも学ぶことなのだと思います。
『言語沼』を読んで増えたのは、答えよりも疑問でした。
なぜ、この言い方が自然なのか。
なぜ、この音からこんな印象を受けるのか。
子どもはどうやって、誰にも説明されていない言葉のルールを覚えていくのか。
以前なら通り過ぎていたものに、少し立ち止まるようになりました。
ポイントは、最初から勉強しようとしなくてもいいことです。
「なんでだろう」
が一つあれば、そこから十分に学びは始まります。
親も一緒に迷っていい
以前なら、子どもから言葉について聞かれて分からないと、
「ちゃんと説明できないといけないな」
と少し焦っていました。
でも今は、少し受け止め方が変わりました。
分からなければ、
「確かに。なんでだろうね」
から始めてもいい。
親がすべて知っている必要はありません。
むしろ、一緒に考えてみる。
同じような言葉を並べてみる。
声に出してみる。
「こっちは自然だけど、こっちはちょっと変だね」と話してみる。
そうやって言葉を眺める時間も、学びなのだと思います。
子どもの「なんで?」が、自分の学び直しにつながる
子どもの「なんで?」は、ときどき答えるのが難しいものです。
時間がないと、
「そういうものだから」
で終わらせたくなることもあります。
それでも、少し余裕がある日は、その問いを一緒に持ってみる。
すぐに答えが出なくてもいい。
「お父さんも分からないから、ちょっと調べてみようか」
そんなやりとりがあってもいいのだと思います。
子どもに何かを教えることと、自分が学ぶことは、別々ではないのかもしれません。
知っている世界にも、まだ知らないことがある
『言語沼』を読んだからといって、日本語を説明できるようになったわけではありません。
むしろ、
「こんなことも知らなかったのか」
と思う場面が増えました。
でも、それが嫌ではありませんでした。
毎日使っている言葉でさえ、知らないことがたくさんある。
そう思うと、学ぶものはまだ身の回りにいくらでもあります。
新しい資格を取らなくても。
難しい専門書を開かなくても。
子どもとの何気ない会話の中にも、学び直す入口はあります。
「えーっと」と「あのー」。
「を」と「に」と「で」。
昨日まで何も考えず使っていた一文字や一言が、今日は少し違って見える。
学ぶ楽しさとは、世界に新しい知識を足すだけではなく、いつもの景色の見え方が少し変わることなのかもしれません。
次に子どもから「なんで?」と聞かれたとき。
すぐに答えられなくても、その疑問を少しだけ一緒に眺めてみたいと思っています。
そこからまた、一つ新しい「沼」が始まるかもしれません。
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