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言葉じゃない何かに撃たれた。「パルプ・フィクション」を見直して。

川添愛さんの『パンチラインの言語学』を読んで、
久しぶりに『パルプ・フィクション』を見直したくなった。

“パンチライン”とは、刺さる言葉のこと。
けれど、見直して私の心を撃ったのは、言葉という形をしていない何かだった。


「“What” では英語を話すのか?」というジュールスのセリフなんて、これっぽっちも覚えていなかった。

高校生のときに一度見たときは、
“スタイリッシュな暴力映画”という印象。

ミア(ユマ・サーマン)は、怪しい美しさがヒトを超えた狂気の人形のようで、
ヴィンセント(ジョン・トラボルタ)は、ガチムチで顎の割れたおじさんという認識だった。

でも、ミアのカマキリのようなダンスと、
あのピースサインで踊る姿が強烈にかっこよく、ずっと覚えていた。


今見たら、まるで別の映画だった。

妙にのほほんとした会話が、かえって不穏で。
ミアが沈黙を嫌う様子に、若さのような脆さがにじんで見えた。

そして何より、ヴィンセント=トラボルタが驚くほどかっこよかった。
歩き方も、会話のリズムも、踊るように軽やかで。
水色の瞳に見入ってしまった。


撃たれるシーンでは、息をのんだ。
パペットのようにトイレの出口へ打ち付けられ、足が宙ぶらりん。

いちばん見慣れていた登場人物が、一瞬でおもちゃみたいに生気を失う。

しかもこの映画は時系列が入れ替わっていて、
撃たれたあとに彼が再登場する。

頭では理解しているのに、心が追いつかず、動悸がした。


最重要の役があっけなく殺される。
その落差に、胸を撃たれたのは私のほうだった。

能天気なTシャツ姿でまた登場しても、
余計に不穏で、体が緊張した。

映像の順序は入れ替わっても、
感情の時間だけは戻らなかった。


高校生のときは、刺激が強すぎて話の筋を追うのがやっとだった。
今は、“話の筋”よりも、“手ざわり”を感じるようになったのだと思う。

パンチラインはセリフの中にあると思っていた。

でもあの瞬間、言葉ではなく、崩れ落ちる身体のポーズに心を撃たれた。
あれが、私にとってのパンチラインだったのかもしれない。


「感情がまだ続いているのに、
物語のほうが先に終わってしまう瞬間」に、
私の心はつかまれたままのようだ。

――とか言って、
本当は、トラボルタが死んでショックだったってだけの話かも。


📚参考:川添愛『パンチラインの言語学』(筑摩書房)
📽参考:映画『パルプ・フィクション』(1994/監督 クエンティン・タランティーノ)

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