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『冬のなんかさ、春のなんかね』の別れ話とシェイクスピアのソネット

本の片づけをしながら「冬のなんかさ、春のなんかね」第4話を観ていました。別に楽しみにしている訳ではないのですが、なんだかんだで毎週観ています。

今泉力哉監督作品では、『愛がなんだ』、『街の上で』あたりはけっこう好きです。「男にとって都合が良い話なんだよな~」とというのは、彼の作品を観ていて時々感じることですが、男のダメさの肯定するみたいなところは、個人的にはちょっと受けつけません。成田凌なんかがダメ男をやる(『愛がなんだ』)とカッコいいのはまぁ、仕方ないですね。

第4話のストーリーの中心は別れ話でした。もっとも文菜は、別れては付き合いの繰り返しですが……。

二胡のデリカシーのない感じが、「よ! 色男の鏡!」的な感じで肯定されているのが、私はどうも受けつけないのですが、文菜と二胡が別れ話をするシーンは面白かったですね。二胡はクズなのかクズじゃないのかちょっとよく分からないし(観る人によっては明らかにクズなのかもしれませんが)、文菜も怒っているのか怒っていないのか、正直よく分からない。極めて今泉力哉的。

「なんだこの野郎!」とか、「〇ねこのくそビッチ!」とか、そんな下品なセリフは今泉力哉の作品には出てきません。人生経験がそこまで豊富ではないので、偉そうなことを言える立場にはないのですが、別れ話には罵詈雑言が必須とまではいかなくても、別れ話ってもうちょっと緊張が走る瞬間があって然るべきというか。
ある意味とても「フィクションらしいフィクション」を見せられた気がします。水曜夜のドラマに誰も修羅場なんて求めてないですしね。

「俺が文菜と別れたいと思ったのは、一緒に成長出来る関係がじゃないと思ったから」というようなことを言っていましたが、本人も認めているように二胡は彼女の才能に嫉妬していたのですね。

自己満足な小説を書いていた二胡にとって、最初に書いた小説が新人賞で最優秀賞と獲得するような文菜の存在は、もはや同じ小説家としては遠いところにいる存在のように思えたことでしょう。

別れてから、二胡はある意味殻を破って大衆受けする(=売れる)小説家になり、文菜は下北沢でバイトをしながら彼女なりの小説を書き続けている。二胡が現状に満足しているのであれば、彼らが関係を解消したことは、少なくとも二胡にとってはプラスのことだったのかもしれない。
でも、数年後、二胡のほうは虚しくなって、一切書けなくなってしまう……。そんな世界線も想像してしまいました。

天才的な作家、カート・ヴォネガットの小説『スラップスティック』で引用されているシェイクスピアのソネットがあります。別れ話をしていた分菜と二胡にピッタリな気もするので、これを引用して結びとしたいと思います。

君が私のよりよい部分であるなら ああ どうして
私は 君の真価をつつましく歌うことができようか
自分自身を賞賛したとて 何になるものでもないが
私が君をほめるのは 自己賞賛でなくて何であろうか
だからこそ われわれは 別れて生きようではないか
われわれの愛は一つ と呼ぶことをやめようではないか
この別離によって 君はほんらい君ひとりに所属すべき
君の当然の持ち物を 確保することができるのだ

カート・ヴォネガット『スラップスティック』(朝倉久志訳 ハヤカワ文庫)より
※ソネットの訳は中西信太郎による

「私が君をほめるのは 自己賞賛でなくて何であろうか」
ーーうーむ、深い。文菜をほめる二胡の姿が重なります。劣等感を認めている自分を認識した上で、文菜の才能をほめる。その自傷行為的な言動はほぼ自己賞賛に近い気がします。

しかし、二胡もそんな自傷行為を続けるようなメンタルは持ち合わせていない。そういうことなのでしょう。二胡だって認められたいと思っているし、何より文菜にももっとも自分の才能を認めて欲しかったに違いない。最初は自分を厳しく批評してくれる文菜に惹かれつつ、次第にしんどくなっていった。

精神的に「対等」になれなかった二胡が、殻を破って大衆受けする小説を書くようになったのも納得です(それも才能だと思いますが)。人は結局、誰かに認めてもらいたい生き物なんですかね。



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