【有料映画批評】濱口竜介『急に具合が悪くなる』いま/ここをGe-stellした涯てにある間延びした辺獄で
0.濱口竜介監督新作『急に具合が悪くなる』ついに公開
2026年6月19日(金)より濱口竜介監督待望の新作『急に具合が悪くなる』が公開されている。『ドライブ・マイ・カー』で国際的に知名度を上げた濱口竜介監督は、三大映画祭で毎回何かしらの賞を掻っ攫っていく大物監督に成長した。また、彼自身、相当なシネフィル監督であり、カイエ・デュ・シネマではジャック・リヴェット映画に対する想いやヴィルジニー・エフィラにロベール・ブレッソンの『ジャンヌ・ダルク裁判』を観せたといったドープな話をしている。
一方でクライテリオンチャンネルではウキウキしながら円盤をバッグに詰めていくお茶目さもあり、映画界のアイドル的存在となっている。
最新作『急に具合が悪くなる』は、哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂による同名の往復書簡を映画化したもので、映画の大半をフランスでロケが行われている作品。一般的にワールドシネマ監督がヨーロッパで映画を撮ると評判が悪くなる傾向がある。実際に今年のカンヌ国際映画祭ではアスガー・ファルハディが『デカローグ』の《ある愛に関する物語》を翻案した『Histoires Parallèles』が上映されたが評判は悪く、SCREENDAILYの批評家星評平均は1.7/4.0であった。日本でも大きく成功した作品は黒澤明『デルス・ウザーラ』ぐらいしか思い浮かばないものがある。かなり不安であったのだが、杞憂であった。
0-1.『急に具合が悪くなる』あらすじ
「ドライブ・マイ・カー」「悪は存在しない」の濱口竜介監督が、パリを舞台に同じ名前の響きを持つ女性2人の魂の邂逅を描いたドラマ。がんの転移を経験しながら生き抜く哲学者・宮野真生子と、臨床現場の調査を積み重ねた人類学者・磯野真穂が交わした20通の往復書簡「急に具合が悪くなる」を原作に、偶然出会った2人の女性の交流と世界に対峙する姿を描き出す。
パリ郊外の介護施設「自由の庭」で施設長を務めるマリー=ルー・フォンテーヌは、入居者を人間らしくケアすることを理想としながらも、人手不足やスタッフの無理解に悩まされていた。そんな中、日本人の舞台演出家・森崎真理と出会ったマリー=ルーは、がん闘病中の彼女が描く演劇に勇気をもらう。同じ名前の響きを持つ偶然に導かれて交流を始める真理とマリー=ルーだったが、あるとき真理は急に具合が悪くなる。真理の病の進行とともに2人の関係は深まり、互いの魂を通わせ合うようになっていく。
「ベネデッタ」のビルジニー・エフィラがマリー=ルー、「ウルヴァリン:SAMURAI」などハリウッド映画にも出演する世界的ファッションモデルのTAOこと岡本多緒が真理を演じ、真理が演出する舞台の出演俳優・清宮吾朗役で「敵」の名優・長塚京三、吾朗の孫・窪寺智樹役で「見はらし世代」の注目若手俳優・黒崎煌代が共演。2026年・第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、ビルジニー・エフィラと岡本多緒がそろって女優賞を受賞。岡本は日本人で初のカンヌ国際映画祭女優賞受賞を果たした。
0-1.カンヌ国大映画祭女優賞も納得なヴィルジニー・エフィラの日本語
まず、本作はカンヌ国際映画祭で主演のヴィルジニー・エフィラと岡本多緒が女優賞を受賞している。観ると確かに今回のカンヌ国際映画祭の女優賞は彼女たち一択であることがわかる。どちらも日本語とフランス語を交えながら流暢に親密で繊細で複雑な哲学を語っていく。日本人の私からするとヴィルジニー・エフィラの日本語が恐ろしい程に自然で驚かされた。
ヴィルジニー・エフィラ演じるマリー=ルー・フォンテーヌがトラムに乗っていると知的障碍者と思しき青年が走っているのを目撃する。彼女は駅を降りて彼を追っていく。すると彼はぐったり気味に座り込んでいる。そんな彼に対して突然、日本語で話しかける。濱口竜介監督は連続的なイメージの中に異物たる言葉を挿入することで空気を変容させるテクニックを得意としているのだが、あまりにも唐突にそれが始まり驚かされる。そして、岡本多緒演じる森崎真理との親密な対話が始まるのだが、ヴィルジニー・エフィラはまるで日本語を母語のように自分の言葉として操り、『平成狸合戦ぽんぽこ』の話から贈与論、資本主義論へと繋げる長い長い語りを展開していくのだ。これにまず驚かされる。
0-2.3時間あっという間の豊穣な議論
そして、本作は196分休憩なしといった長尺の中で、中間管理職が抱える板挟みの葛藤や資本主義の問題、戦争はどうして起きるのかといった議論が延々と続く。濱口竜介監督による白熱教室であるのだが、飽きさせることのないものとなっている。カンヌ国際映画祭で上映された時の批判的意見として「延々とTEDを観せられているようだ」といったものがあったが、後述するようにフレデリック・ワイズマン的ショットから始まり構造を深く理解した上での往年の映画からのリファレンスの面白さから始まり、ギョーム・ブラックの右腕撮影監督アラン・ギシャウアによるバキバキに決まったショットの気持ち良さと《映画》である必然性を有していたため気にならなかった。特に後者に関しては、京都にやって来る2人が日本家屋にて非日常的でありながら日常的な生活を送る場面をロングショットで捉えている場面が素晴らしく、夜が近づき青い世界の濃度が上昇し闇へ包まれる中で微かに開かれる光。その刹那に日常の囁かな安らぎを見出そうとする様に感動した。
さて、いよいよ本格的に『急に具合が悪くなる』についてネタバレありで批評していこう。本作は結論から言えば「ミイラ取りがミイラになったような隙だらけの映画」である。『親密さ』『ハッピーアワー』『ドライブ・マイ・カー』など、濱口竜介作品は完璧を追及した隙のない映画を撮るイメージがある。しかし、本作は超絶技巧の演出ながらも展開されるロジックやストーリーテリングにおいて多くのツッコミどころを残している。その中には致命的なものもあるのだが、それは映画でマリーが自分の限界を認識した上で人生を歩もうとするのと同様に映画の限界を認めつつ観客と虚構を通じて《いま/ここ(now/here)》にある問題について対話しようと試みているように思えた。故に本作は盲目的に絶賛するのではなく、激しく批判されることを望んでいる作品といえる。
世界三大映画祭の一つであるカンヌ国際映画祭において、岡本多緒さんが、濱口竜介監督作品『急に具合が悪くなる』で女優賞を受賞されました!
— 高市早苗 (@takaichi_sanae) May 24, 2026
同作で共に主演を務めたビルジニー・エフィラさんとの同時受賞で、日本人初の快挙です。…
ちなみに、我が国の狂人独裁者な総理大臣はすかさず本作に賛美の声を挙げていたがあまりにも「お前がそれを言うか」ってぐらいに苛立たせるものがあった。このような総理大臣の態度すら想定されたかのような現代の病理についての196分、しかと受け止めたので以下から有料部分でガッツリ書いていく。
1.原作との比較
まず、原作から踏まえてみよう。本作の原作はなんと哲学的な往復書感である。ガンを患った哲学者である宮野真生子が、突然病状が悪化して死ぬかもしれない将来への不安を抱えながら人類学者の磯野真穂と往復書簡を交わすことで心のモヤモヤを言語化していくといった内容である。エッセイ調のライトな書き方である一方で、思索はハイデガー等を引用し深淵まで潜っていく。この豊かな思想は、ガンを患っていないものであっても、コロナ禍、戦争、独裁政治と経済不安で、世界が滅亡へと向かっているようで間延びした日常に生かされ、たとえ滅亡を臨もうとも遅々として訪れない様に絶望する社会を生きるヒントが隠されている。
映画では現代医療の現場にある確率論を装った弱い〈運命論〉の挿話を軸にしているように思える。磯野真穂は、正しい情報に基づく、患者さんの意思を尊重した支援を行うことができるのかといった問いを立てる。医療現場ではエビデンスに基づくリスクを提示する。患者は与えられた選択肢を前に悩む。だが、それは医療現場によって選択肢を狭めてしまっている。患者は、不確定な未来を背負いきれず誰かに運命を示してほしいと想っている。この関係性の中で作られる選択肢は、患者の人生の道を狭めてしまっているのではないか。医療現場における正しい情報は現実を不可視にさせてしまうのではないかと疑い、「かもしれない」といったフレーズの運用に警鐘を鳴らす。この言及に対して哲学者である宮野真生子ですら医師の語りが運命を誘導していたことにハッと気付かされる。そこからそもそも「選ぶ」ってなんだろうと考えるようになる。
映画では、医療現場において持続可能な運用のため、ステークホルダーに成果を提示するため、徹底してリスクを排除しようとする。現場レベルでは、新しい療法により利用者に悪影響が遭った場合の責任リスクを追うより短絡的な持続を維持しようと保守的になる。それが患者の選択肢を狭めてしまうのだ。最初のショットで、介護施設にもかかわらず、身体に悪いタバコを美味そうに吸う老婆が映し出される。介護施設が利益のために、利用者をものとして施設に押し込め制御された選択肢を与える様へのアンチテーゼを最初に提示した上で資本主義におけるリスク回避がもたらす問題を扱っているのである。
2.構造的映画演出の援用の妙について
本作の面白いところは、シネフィル監督として膨大なマニアックな映画からのリファレンスの影を感じるところにある。それらはシネフィルホイホイな安直なリップサービスではなく、そのすべてに明確な演出意図が張り巡らされているといえる。1回観ただけでは気付けない部分も多いのだが、私が気づいた範囲で分析していくとしよう。
2-1.フレデリック・ワイズマンからニコラ・フィリベールまで
2-1-1.フレデリック・ワイズマン的シビアでシステマティックな議論
本作は介護施設「自由の庭」での問題を中心に物語が展開されていく。面白いことに前半での介護施設の描写はフレデリック・ワイズマンタッチで描き、終盤はニコラ・フィリベールタッチ、特に『すべての些細な事柄』の構成を援用する演出となっている。この差について考える事から始めたい。フレデリック・ワイズマンは大学や図書館、市庁舎などといった特定の領域に対して役割を受容する人々のシステマティックな運動や議論を通じて社会を捉えようとしている監督である。そして多くの作品においてシビアなビジネスの話が付きまとう。
たとえば『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』では、限られた予算の中で話題書を購入すべきか高額な専門書を取り入れるかといった議論がなされる。『大学 At Berkeley』では、経営層による会議から話を始めており、カリフォルニア州からの補助金が削減されている中、どのように中産階級から寄付金を回収し、低所得層へ支援していくかが議論される。
『急に具合が悪くなる』も同様に、人間らしさを取り戻すユマニチュード療法の研修や住み込みによる勤務形態を導入し構造改革しようとする施設長マリーが現場からのハレーションや経営層に対するオンライン会議での調整といったシビアな組織運用の話を展開するところから始まっている。
ここから先は

チェ・ブンブンの有料映画批評
賛否両論が極端に分かれている作品や、ちゃんと届くべき人に読んでほしい映画評やコラム、裏話を有料で販売しています。
この記事が参加している募集
映画ブログ『チェ・ブンブンのティーマ』の管理人です。よろしければサポートよろしくお願いします。謎の映画探しの資金として活用させていただきます。
