【佐渡旅行予習】磯部欣三「佐渡金山」を読む
こんにちは、チェ・ブンブンです。
みなさん、ゴールデンウィークはどこへ行きますでしょうか?
わたしは、世界遺産検定仲間のNao.U(なおゆー)さんと佐渡金山へ行きます。佐渡金山は2024年に開催された第46回世界遺産委員会にて世界遺産に登録されました。日本として26番目の世界遺産登録となります。
17世紀、世界最大の金の生産地であり、手工業による独自の金生産システムで知られている佐渡金山。
当初は以下5つの基準での登録を目指していました。
(ⅱ)文化の価値観の相互交流を示す遺産である。現在は、異文化及び同一文化圏内の文化相互交流を重視している。
(ⅲ)文化的伝統や文明に関する証拠を示す遺産である。人類の化石遺産などもこの基準に含まれる。
(ⅳ)建築様式や建築技術、科学技術の発展の段階を示す遺産である。代表的な段階が重視される。
(ⅴ)独自の伝統的集落や人類と環境の交流を示す遺産である。農業景観や文化的景観が特徴の遺産も含まれる。
(ⅵ)記憶の場所など人類の歴史上の出来事や伝統、宗教と強く結びつく遺産である。他の基準と併せての適用が望ましい。
しかし、ICOMOSによる勧告では登録基準(ⅳ)での登録が望ましいとされ、世界遺産委員会でもそれに準じることとなった。登録基準(ⅳ)は姫路城や厳島神社など、伝統的な建築にまつわる遺産にて認定されるイメージがあり、一見すると佐渡金山で認められることに違和感を抱く方もいるだろう。
世界遺産アカデミー主任研究員の宮澤光氏によれば、佐渡金山の顕著な普遍的価値は世界最大級の金の産地だったことではなく、西三川砂金、相川鶴子金銀山と地形に併せて最適された採掘・精錬方法が採用された科学技術の側面によるものだとのこと。

実際に類似の例としてボリビアの世界遺産「ポトシの市街」がある。16世紀に世界最大の銀山として栄えた場所であるが、フェリペ2世が総督フランシスコ・デ・トレドを派遣し、ダムや水道のインフラを整備し、当時としては最新のアマルガム法を取り入れた精錬方法によって世界の銀産出量の半分近くを算出したことが評価され、登録基準(ⅳ)が認められています。
今回、佐渡金山が世界遺産登録されるにあたり、世界遺産委員会からいくつか勧告を受けました。
a)相川鶴子金銀山の緩衝地帯全体を重要文化的景観に指定することにより保護を強化する。
b)プロジェクトの規模ではなく、顕著な普遍的価値の属性への潜在的な影響に基づいた遺産影響評価メカニズムを景観計画に統合する。
c)将来の考古学研究が首尾一貫した情報に基づいた方法で行われるようにするための長期的な考古学戦略を策定する。
d)地下考古学への影響を最小限に抑えるための森林管理ガイドラインを策定する。
e)採掘の全期間を通じて、敷地全体の歴史をサイトレベルで包括的に扱う解釈とプレゼンテーションの戦略と施設を開発する。
f)観光客の増加が資産に悪影響を与えないように、収容能力調査と訪問者管理を開発する。
g)総合管理計画の前に採択された計画を見直し、その規定が顕著な普遍的価値を長期的に保護するという目的と一致していることを確認する。
h)将来的には、明確に特定された旧鉱山地域を国指定史跡に指定することを検討する。
勧告のeに関しては、以前から過酷な労働が行われた佐渡金山の歴史をどのように伝えていくかが問題になっていると知っていました。
ちょうど、いい機会なので予習として佐渡金山の歴史をフィールドワークベースでまとめた磯部欣三「佐渡金山」を読んでみた。最初の2章が興味深かったのでまとめていく。
①廃墟の文化史
鉱山のある相川という街は、ひとがたくさん住んだので、人間の性と死が残酷なほど鏡にうつし出される。
このような書き出しから始まる最初の章では、鉱山町と死の関係性について語られている。鉱山の他に町を支える経済基盤がなかった佐渡金山では多くの労働者が集まり、劣悪な労働の中で死んでいき、資源の衰えとともに人々は去っていった。墓こそ多いものの、風雨にさらされてメンテナンスされていない墓も少なくなく、また貧しい者は墓すら作られなかった。佐渡を歩く中でさり気なく見える墓から、土地の歴史が浮かびあがっていくのである。
先述した宮澤光氏による言及からもわかるとおり、佐渡は場所によって土地の特徴が変わる傾向がある。相川では子どもの墓が多いのだ。墓には「幻春」「桜花」などといった季節にちなんだ名が彫られている。また「孩子」「童女」などといった年齢がわかるような名が彫られたケースもあるとのこと。
この章では、相川の鉱山としての歴史が語られる。一般的に関ケ原の戦い後の慶長6年(1601年)に徳川家康の所領となったことから始まったとされるが、それ以前に「金山」と語る資料が見つかっており、少なくとも家康以前から鉱山の歴史は始まっていたとされる。
相川に集まる労働者は、一向一揆で信長や家康から追われた北陸出身の真宗門徒が多く、肉体労働者だけでなく桶屋や床屋などといった職人もこの地へたどり着いたとのこと。
商売の町としても栄え、伊万里焼を始めとする瀬戸物が入ってくるが、商品の出入りは厳しく管理されていた。港に番所が設けられており、取引金額の1割を確実に徴収するためであった。
佐渡金山史の初期は、長崎に近い貿易町として発展していたことが廃墟や出土品から確認できるのである。産業が栄えると、自ずと文化も栄える。相川では、人形浄瑠璃や旅芸人、歌舞伎などといった娯楽も豊富であった。
②地底の水替
しかし、18世紀頃から佐渡は流刑地としての役割を担うこととなる。勘定奉行である石谷清昌が、島送りのアイデアを思いつく。佐渡の奉行として鉱山運用の改革で業績をあげた彼は、鉱山労働者の確保案として無宿者に目をつけた。大工や穿子には技術がいるが、水替なら体力さえあれば勤まる。20~30代の丈夫な無宿者を捕らえ、鉱山に送り込むことで労働力としていたのである。これは明治時代まで100年近く続いていた。
犯罪を抑圧する見せしめのため、鉱山へ送る際には手鎖や足かせで縛った無宿者を町中で行進させる非人道的なアプローチが採用された。ただ、一方で食事に対する待遇は酒を除けば警護役人と同等となっていた。これは脱走された場合の復讐に対する恐れと、変えるところがない無宿者への憐れみがあったと解釈されている。
江戸幕府における刑罰の考え方から見ると、佐渡への流刑は特別な役割を持っていた。当時の江戸幕府には、犯罪者を島送りにする遠島刑が存在していたものの無宿者は犯罪に手を染めているわけではないので、遠島刑を行使しては、市民からの支持を得ることができない。だが、江戸の治安は守りたい。無宿者が江戸へ増えている中、どうにかして無宿者の人口を移譲できないかといった思惑があった。そこで、佐渡で労働に従事させ更正したら江戸や出身地へ返すといった就労移行支援的な役割を全面に押し出すことにしたのである。当然ながら実態は、過酷な重労働を課す徒刑そのものだった。また、無宿者に課される仕事は坑内で水を汲み上げるだけのものだったため、たとえ釈放されたとしても、鉱山生活で得たノウハウは肉体労働以外に使う場所がなかったのである。
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