壁の向こうの隣人
三十歳独身の佐伯にとって、そのアパートは願ってもない掘り出し物だった。
駅から徒歩十分。近くにコンビニがあり、東側は児童公園に面している。二階の端部屋、二〇一号室。家賃は相場よりかなり安かった。
理由は「事故物件」。
以前の入居者が、この部屋で亡くなったという。
佐伯は少し迷ったが、孤独死くらい珍しくない、と契約した。
西隣の二〇二号室には、女が一人で住んでいるらしかった。だが、一か月経っても顔を合わせることはなかった。生活音すらほとんど聞こえない。
異変が始まったのは、引っ越して一か月ほど経った頃だった。
毎晩、午前二時ちょうどに目が覚める。
そして、東側の壁から女の声が聞こえてくる。
低く、くぐもった声で何かを唱えている。
「……南無……」
経文のようだった。
最初は公園に若者でもいるのだと思った。しかし耳を澄ますほど、声は壁の向こうではなく、壁そのものの中から響いているように感じられた。
十五分ほどで、声は消える。それが四日続いた。
五日目の夜、佐伯は外へ確かめに出た。公園には誰もいない。
東側の壁にも、もちろん誰もいない。外へ出ると経はまったく聞こえなかった。
佐伯が二階へ戻ると、ちょうど二〇二号室のドアが開いた。
そこに女が立っていた。
白いカーディガンに長い黒髪。三十歳前後だろうか。顔色は異様なほど白かった。
「隣の、佐伯です」
女は答えず、佐伯を見つめた。
「……聞こえますか?」
「何が?」
「二時の経です」
佐伯は息を呑んだ。
「あなたにも?」
女は頷いた。
「でも、東側から聞こえるでしょう?」
「ええ」
「違います」
女は静かに言った。
「あれは西側から聞こえているんです」
「西側?」
「私の部屋から」
佐伯は眉をひそめた。
「でも、僕の部屋では東の壁から……」
「そうでしょうね」
女は微笑んだ。
「この建物では、そう聞こえるんです」
「どういう意味です?」
女は二〇二号室の奥を見た。
「この部屋では、三年前に人が亡くなりました」
「……事故物件?」
「はい」
佐伯は思わず身を引いた。
「でも、不動産屋から聞いた話では、僕の部屋が事故物件だと――」
女は首を振った。
「違います。亡くなったのは私です」
佐伯の背中を冷たいものが走った。
女の足元を見る。影がなかった。
「私は三年前、ここで殺されました」
女は淡々と続けた。
「犯人は、まだ見つかっていません」
「……じゃあ、なぜあなたがここに?」
「私を殺した人が、今もこの建物にいるからです」
佐伯の喉が鳴った。女は一歩近づいた。
「だから、お寺の人が毎晩二時に経を唱えているんです。私が外へ出ないように」
「あなたを……閉じ込めている?」
「そうです」
女は微笑んだ。
「でも、経には一つ問題があるんです」
「問題?」
「建物の中に、新しい人間が入ると……」
女の顔から笑みが消えた。
「経の力が、その人に移るんです」
佐伯は意味が分からなかった。
「あなたが越してきてから、経が少しずつ弱くなっている」
女が囁いた。
「だから、もうすぐ私は自由になります」
佐伯は反射的に自室へ駆け込んだ。鍵を掛け、チェーンを掛ける。
時計を見る。02:18。
東側から聞こえていた経は、今夜はひどく弱かった。
そして――
02:20。
ぴたりと、経が止まった。静寂。
佐伯は息を殺した。
そのとき、西側の壁から、
トントン。
小さなノックがした。
「佐伯さん」
女の声だった。
「開けてください」
佐伯は動けなかった。
「もう、経は終わりました」
トントン。
「これで私は、ここから出られます」
その瞬間、佐伯のスマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。恐る恐る出る。
『佐伯さんですか?』
男の声だった。
『管理会社の者です。大変申し訳ないのですが……』
佐伯は黙って聞いた。
『二〇二号室には、三年間ずっと誰も住んでいません』
全身から血の気が引いた。
『それと、もう一つ確認したいことがあります』
男の声が震えていた。
『あなたが契約したのは二〇一号室ですよね?』
「……はい」
『それなら……おかしいんです』
「何がです?」
『二〇一号室は、三年前の事件で取り壊されているんです』
佐伯の手からスマートフォンが滑り落ちた。
その瞬間――
西側の壁が、ゆっくりと内側へ膨らんだ。
壁紙の下から、人の指先が一本、突き出てきた。
そして、女の声がした。
「やっと思い出した?」
佐伯は壁を見つめた。
その声には、初めて聞くはずなのに、なぜか聞き覚えがあった。
女が笑う。
「三年前、あなたが私を殺したのよ」
東側の壁から、最後の経が一声だけ響いた。
そして二〇一号室の部屋番号が、玄関の外で――
ゆっくりと、
二〇二号室に変わった。
(了)
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