壁の向こうの隣人
ミナミの喧噪をひとつ曲がった法善寺の路地に、その古い木造二階建てのアパートはあった。
男は、戎橋近くの地下にあるバーでバーテンダーをしている。夜の街で働く者ばかりが住むアパートは、昼間よりも夜のほうが静かだった。
男自身も、いつからか生きていくことに少し疲れていた。
何年か前まで、付き合っていた女がいた。
別れた理由を、男はいまだにうまく説明できない。嫌いになったわけでもない。ただ、二人の間にいつの間にか薄い壁ができ、それを壊すことも越えることもできないまま、別れてしまった。
そんなことを思い出すのは、決まって仕事を終えて部屋に戻った夜だった。
午前三時。
古びたコートを脱ぎ、畳に横になる。
すると、南側の壁の向こうから、かすかな声が聞こえてくる。
「死んでまで、あんたと一緒におるなんて、うちはいやや」
女の声。
「そんなこと言わんといてくれ。なあ、ここで仲よう休もうや……」
男の声。
夫婦らしい。
しかし、男は知っていた。
南側には、もう部屋などない。
ここはアパートの南端の角部屋で、壁一枚を隔てた先は千日前通だった。
だから、壁の向こうから聞こえる夫婦の言い争いが、この世のものではないことも分かっていた。
男は怖がるより、なぜかその声を聞いているのが嫌ではなかった。
むしろ、自分の知らない誰かの人生が、壁の向こうでまだ続いているような気がした。
ある秋の午後、男は法善寺へ向かった。
水掛不動尊の前で手を合わせていると、境内を掃除していた住職が声をかけてきた。
「何か、お悩みですかな」
男は少し迷ってから尋ねた。
「人は死んでも、嫌になった相手を嫌い続けるもんでしょうか?」
住職は微笑んだ。
「亡くなられた方が、この世にいたときと同じ心のままとは限りませんよ」
そして、こう続けた。
「『倶会一処』という言葉があります。念仏を申す者は、亡くなってから極楽で再び会う。そこで長い時間をかけて、心も変わっていくのです」
住職は境内の案内板に目をやった。
ここ千日前の地は、かつて「千日墓地」と呼ばれ、大坂七墓の一つだったという。
「昔から、たくさんの人がここで眠ってきたんです。人の心も、土地の記憶も、長い年月の中では少しずつ変わります」
男は静かに水掛不動尊へ水をかけた。
「……そういうもんですかね」
「ええ」
住職は笑った。
「渋柿が甘柿になるように」
その夜、午前三時。男がベッドに横になると、やはり南側の壁から声が聞こえた。
「死んでまで、あんたと一緒におるなんて――」
いつもの女の声だった。男は目を閉じた。
すると、今夜は男の声が重なった。
「そやけど……ここで一緒におるのも、悪うないんやないか」
しばらく沈黙が続いた。
やがて女が、小さく笑った。
「……あんたは、ほんま変わらんなあ」
「そうか?」
「うん。でも……」
女の声が、少しだけ柔らかくなった。
「ここ、静かやな」
「そやな」
それきり、声は聞こえなくなった。
男は天井を見つめた。なぜか胸の奥が、少しだけ軽くなっていた。
翌日の昼下がり、男は再び法善寺を訪れた。
水掛不動尊の前に立ち、柄杓で静かに水をかける。
苔に覆われたお不動さんを見つめていると、その口元がほんの少し笑ったように見えた。
男は目を細めた。そして、誰に言うともなく呟いた。
「……仲ようなれたんやな」
返事はなかった。ただ、千日前の路地を秋の風が吹き抜けた。
その夜。
男が部屋に戻り、南側の壁に耳を澄ます。何も聞こえない。
午前三時を過ぎても、いつもの声は聞こえてこなかった。
男は少し寂しくなり、壁に手を触れた。冷たい壁だった。
その向こうには、もう誰もいない。やがて男は手を離し、明かりを消した。
暗闇の中で、ふと昔の女の顔が浮かんだ。
男は目を閉じた。もう、それでよかった。
窓の外を、夜のミナミを走る車の音が流れていく。
その音に紛れて――
「おおきに」
かすかな女の声がした。
男は振り返らなかった。ただ、静かに目を閉じた。
千日前の夜は、深かった。
(了)
