映画『渇きと偽り』 どこまでが想像?
いろいろ映画は観ているんだけど、なかなか感想が書けていない。
平日はいろいろやることあるし、土日も出かけないといけなかったり。
とりあえず、『渇きと偽り』の感想。
オーストラリアが舞台の映画。
なかなか面白いと思った。細かいところでは煮えきらない点もあり。
★★★★★★★☆☆☆
以下、ネタバレあり。
良かったところ
1.乾いている
長く雨の降っていない乾燥した地域。
どこまで乾ききった風景。蛇口からの水も濁っている。農民の苦境。
その渇きが、水で溢れる回想シーンといい対比になっていた。
2.オーソドックスな展開
過去に訳ありの主人公。よそ者を警戒する小さな町の住民たち。その中でも友好的で協力的な人々。あの人とあの人の〇〇が過去に〇〇みたいなややこしい人間関係。真相に迫ったかと思えばそれは間違い。過去の友人とのロマンチックな雰囲気。突然何もかもが不穏になり全員を疑ってしまう疑心暗鬼。抱え続けたトラウマともたらされる癒し。・・・というどこかで見たことのあるモチーフが徹底的に投入されている。
なんというか、とても安心感のある展開だった。
疑問がのこるところ
1.視点の謎
ラストのエリーの死の真相のところ。
回想シーンとして、エリーの不在に気づいた父親が彼女を追いかけ、父親がトドメを刺した(婉曲表現)描写となっている。
鑑賞者には、「これが真相だったのね」と思わせる構成。
・・・このシーン、変じゃなかった?
わたし、「は?何だこれ?」と思ったんだけど。
それまでの全ての回想シーンは、アーロンの視点で、アーロンが経験した事実(と本人が認識しているもの)だけでできている(ついでに言えば、回想シーン以外の映画における現在とされる場面も、基本的にはアーロンの視点だ。常にアーロンの立ち位置の数メートル以内に視点の起点ポイントが置かれている)。
つまりこの映画では、一貫して、アーロン自身が立ち会っていない場面で何が起きていたのかはわからない。
一部、ルーク一家殺害の描写ではウィットラム(校長)の語りが映像になっているが、そのウィットラムの釈明(?)場面にアーロンがいる。
それが突然、「神の視点」が出てきて、エリーと父親だけ(その少し前の場面ではグラントも登場しているが、ラストでは2人だけ)の場面を描写しているのだ。
いや、変だろう。
あるいは、ラストのシーンはアーロンの想像なんだろうか。ただ、それを示唆するものは無かった。なんらかのエクスキューズを見落としているだけかもしれないけど。
映画の構成技法として、最後だけ視点が変わるのはズルいじゃねえか、と思うのだ。
わたしが見落としていなかったら、ということだけど。
2.謝らなくていいんすか・・・?
こんなこと気にする人間はあまりいないのだろうか?
アーロンの捜査(モグリみたいなものだけど)で、アーロンに疑いをかけられながら、結果的に何も関係が無かった人物が何人かいる。
これ、彼らに一言でも謝罪したんだろうか?
そのうちの1人、グレッチェンには謝っていることはわかるのだが。
なんか、妙にモヤモヤした。
正式な警官であるグレッグが(見えないところで)代わりに謝罪してるんだろうか。
それともオーストラリアでは謝罪など必要ないのだろうか。
ま、アーロンはまた町を出ていくことになるので、その後のことまで知らん、という気持ちかもしれないけど。
だけどさ、住民全員が顔見知りであろう小さな町で、あらぬ疑いを掛けられた人間にとってはたまったものではないよな。
そんな感じでいくつか疑問もありつつ、全体としては楽しめる映画だった。
