風かおる、嵐のあとに〜第一章 その①〜
一、プロローグ
ビョウビョウと、風が吹きつけている。
お木の葉がざわめく音……枝がぶつかり合う鈍い音が、それに混じって聞こえる。
気密性の高いマンション暮らしのほうが長いというのに、音だけでその光景が脳裏に浮かぶのは……もともとが、田舎育ちのためだろうか。
目を向けた窓の外は、すっかり闇色に沈んでいた。
「すごい風ね……」
ようやくキッチンに戻ってきた彼女に、そう声をかける。
「こんな日に呼びつけちゃって……本当にごめんなさい」
彼女は暗い顔のまま、照れくさそうに笑った。
「いいのよ。もう大丈夫そう?」
「たぶん……」
そう言いつつも……まだ残る不安が隠しきれていない。
何か話題を変えようと頭を巡らせていたら……いつか、彼女とお茶をした時のことを思い出した。
「そういえば。ずいぶん前……あなたに、春海を妊娠した時の話を聞いてもらったこと、あったわね」
あの時も、確かこんな強い風の日で……。
「こんなことを言ったらあなたは嫌かもしれないけど。
あの時ね、帰り際にあなたをエスコートする春海を見て……何だか、政晴を見ている気がしたの」
目に焼き付いたまま消えない、あの後ろ姿を思い浮かべたのだが……それは、そのまま思い出し笑いに変わってしまった。
決しておかしかったからではなく、胸をくすぐるようにこみ上げてくるものがあったのだ。
「えぇ?ハルはずっと昔から、政晴さんにそっくりですよ。まるで瓜二つ」
驚きを隠せない声が、すぐに彼女から返ってくる。
「……ずっと昔?」
「ほら……私が初めて出会った、中学の時」
思い出すように首を傾げ、懐かしげに話す彼女の顔は……何だか楽しげで。
だいぶ和らいだ表情にホッとする。
そうしながら……彼女の言う、中学生の春海を思い出そうとした。
一、闇の中
ざわざわと……相変わらず、強く揺さぶるような風の音がする。
春の嵐も……昼間と夜では、様子が違う。
夜は、暗闇で強さを増し、こちらに迫ってくるような気がする。
何の様子も見えないから、不安にもなる。
……そのせいだろうか。
音が妙に気になってしまい、うまく記憶を結ぶことができなかった。
「あのね……」
つぶやいた声は、少しかすれていた。
「気になっただけなんだけど……。春海って、その時……優しかった?」
頭にひっかかっていたそのことを、彼女に向かって問いかけてみた。
今の春海は、いつも当たりがきつくて、何を話すにもけんか腰で……。
どこか自分に似ていて、嫌な政晴にも似ていて……イライラしてしまう。
でもそれは、ずっと昔からそうだった気がしてならない。
恐る恐るのその問いかけに……何も知らない彼女は満面の笑みを返してくれた。
「ハルはずっと変わらず、優しいですよ」
「そう……」
嘘偽りのない声に、ほっとしてしまう。
「昔から……優しいところ、あったのね」
思わずつぶやいたその言葉には、安堵の思いが含まれてしまった。
おなかの中に、命を授かったと知った時。
『政晴みたいな、優しい子に育ってほしい』と……そっと願った。
だからあの時、彼女を車に乗せる春海を見て……胸がなごんだのだろう。
『ようやくその姿を見ることができた』と、そう思って。
「確かに、政晴には似てるんだけど。私……嫌なところばかり似ちゃったなって、ずっと思ってたの」
そう言って、ごまかすように苦笑した。
……その時だった。
「りつ子さん、その言い方やめません?」
不意に差し込まれた彼女の言葉には、少しだけひりついたものが感じられた。
いつも温和な物言いをするのに。
めずらしく、眉間にうっすらしわまで寄っている。
「容姿がどっちに似るかっていうのはいいけど……ハルは、ハルなの。
政晴さんも、りつ子さんも優しいですけど、ハルの優しさが誰かに似てるっていうのは、ちょっと違うと思います」
その口ぶりにも驚いたが……なぜかハッとするものがあった。
「……え?」
何か、引っかかるものがあった。
……先ほど探した自分の記憶の中に、中学生の春海はいなかったから。
——なぜ?
初めて、それを疑問に思った。
春海は……何かと大変な子だった。
それは、紛れもない事実だ。
生まれる前から大変で、生まれる時も大変で……。
育児は……比較にはならないほど。
だから、ハルが退院してからの日々の嵐は……嵐は嵐でも、今の外と同じ。
……夜の嵐だ。
——全く、先の様子もわからないような嵐だった……。
妊娠も、出産後の日々も、一次的なゴールのような目安があったが……育児は違った。
どんどん難易度が上がり、苦しい中……日々はどこかに向かって続いていく。
——少なくとも、私にとっての春海の育児はそんな感じだった。
闇雲に突き進むうちに、少しずつ日は暮れ、目の前に帷が降りていくように……だんだんと、春海のことが見えなくなっていったように思う。
その時に、目印のように貼り付けられた『手がかかる、大変な子』というレッテルだけが、今も思い出の中の春海を形どっている。
——だから私は、あの頃の春海を思い出せないのかもしれない……。
暗い穴をのぞくような思いで、そんなことを思ったのだった。
「やだごめんなさい。私……まだちょっと不安定かも」
一方の彼女は、バツの悪そうな顔になっていて。再び曇らせた顔を、両手で覆う。
そんな彼女に慌てながら、私は言った。
「ううん、謝らないで。今ね……あなたのおかげで、大事なことを思い出せそうな気がする」
……衝撃を、感じていた。
一、気づき
「……私、何か飲みたくなっちゃったな。りつ子さんもどうですか?ひと段落したし、まだ風も強いし。もう少しだけ、付き合ってくれません?」
今も強く吹きすさぶ風の音を、朗らかな彼女の声が優しくかき消した。
「……いいの?甘えちゃうけど、大丈夫?」
「もちろんです。あ、でもこんな時間だし……紅茶にしようかな。紅茶は……あっちの段ボールに入ってた気がする。
ちょっと向こうの様子を見がてら、持ってきますね」
パタパタと遠ざかっていくスリッパの音に向かって、ありがとうとつぶやいた。
違う見方からの指摘をされて、ようやく気づくことができた気がしていた。
春海のことを大変な子だと決めつけて。
それを前提にした目線で、春海という子の存在を見ていたような気がする。
政晴に似てほしくて、自分に似て欲しくなかったのは……あの頃、自分のことが嫌いだったからだ。
だから……春海の中の、自分や政晴ばかりを探していたのかもしれない。
まるで、間違い探しのように……。
だから時々、自分の知る春海と、今の春海。そして彼女の話す『ハル』が、まるで別人のように感じてしまうのだろう。
キッチンの椅子に座り、灯りの消えたリビングをぼんやり眺める。
家具はどれもがらんと空っぽで、床には段ボールの箱が整然と並べられていた。
今日は、彼女と交代で美羽の相手をしながら、荷造りをして過ごしたのだ。
段ボールには、棚や引き出しの中身が、大切な思い出と共に詰め込まれている。
——いったい春海は……どんな子だった?
薄暗い部屋を見つめながら、そう思った。
一、思い出話
「美羽(みはね)はどうだった?」
お茶を入れてくれる彼女に向かって、問いかけてみた。
「いつも通りぐっすり眠ってました。……多分、もう朝まで大丈夫だと思います」
春海の子ども……生まれた孫は、かわいらしい女の子で。もうすぐ一歳という節目を迎える。
「相変わらず夜はよく眠るのね。もうすぐ誕生日だし……もう心配ないわよ」
「なら良いけど……今日の泣きは何だったんだろう。本当に困ったから、りつ子さんが来てくれて助かりました」
「美羽は、生まれたときから手がかからない子だもの。こんな日もあるわよ」
彼女がこまめに連絡をくれるおかげで、その成長は何だかんだ間近で見ることができている。
妊娠報告を受けたと思ったらもう出産。ついこの間、ようやく生まれたと思ったのに……月日が経つのは、本当にあっという間だ。
——春海の時は、あんなにも永遠のように思えたのに……。
ふと視線を移すと……目の前で、うっすら白い湯気が揺れていた。
暗い薄衣がかかった遠い思い出でも……容易に思い出せることはある。
「やっぱり春海とは全然違うわね。春海の夜泣きは大変で……本当にずっと、泣いていたから」
彼女が入れてくれた紅茶からは、爽やかな風のような香りがただよっていた。
自分でも不思議なのだが……あの、嵐のような育児の日々を話したいと思った。
……いつかの荒れ果てた我が家のように、まだぐちゃぐちゃしたままだけれど。
彼女に聞いてほしいと……そう思えたのだ。
手のひらで包みこんだマグカップはあたたかくて。
まるで、心までほどけていくようで。
——私もそろそろ、整理をしなくちゃ……。
ぼんやりと、そう思って。
何から話そうか……頭をめぐらせていたはずだったのに。
「退院してからは、本当に地獄だったわ」
本音が先に、こぼれ落ちてしまった。
一、退院後の暮らし
春海が何とか退院となり、ようやく親子三人での生活が始まった。
それは、幸せの始まりのはずだったのに……全く、そうではなかった。
NICUの時からよく泣く春海ではあったが、退院してからも泣いてばかりで。
オムツを変えても、ミルクをあげても、ゲップをはかせても……落ち着くのはほんの一時だけ。
ぐずぐずは日中だけかと思ったら、それは夜も変わらずで……。
またすぐに泣きはじめる春海に、ただただ途方に暮れた。
「へぇ……そういうものなのか。なんで泣いているのか、母親ならわかるんだと思ってた」
早々にかけられた政晴からの何気ないひと言は、鋭利な刃物となって心の奥に突き刺さった。
やっと泣き止んだと思うと、たいてい泣き疲れて眠ってしまっているだけで。
そっと布団に寝かせようとすると、またスイッチが入ったように春海は泣き出す。
いろいろ自分なりに調べ、あれやこれや工夫をし、試してはまた調べ……。
それでも、春海の様子はいっこうに落ち着く気配が見えなくて。
いや……成長と共に、泣き声は確実に大きくなり、だんだんかわいらしさを失っていった。
何が気に入らないのか、布団に寝かせると、よりいっそう激しく泣く。
そのため、私は一日のうちのほとんどを、春海を抱いて過ごすしかなくなってしまって……常に寝不足の状態で。
程なくして、手首に腱鞘炎の症状が現れるようにもなった。
春海のために用意したベビーベッドは、いつの間にか物置になっていた。
『カンの虫封じ』の祈祷に行こうかと……真剣に思うまでになっていた、そんなある日のことだ。
「いい加減、手をかけすぎじゃないか?」
突然、深夜に帰宅した政晴に、そう言われた。
「りつ子の好きにさせようと思っていたけど、家はどんどん荒れていくし……。いくら何でも春海に構いすぎだよ。
どんなに泣いてても、放っておけばそのうち寝る。それが赤ちゃんだろ?」
瞬間、カッと目の前に閃光が走った気がした。
「何も手伝ってないくせに、そんな当然みたいな言い方しないでよ!あなたは春海のこと、何もわかってない!」
気づいたらそう叫んでいた。
……でも。心からの叫びだった。
母親なのに、春海のことがわからなくて苦しくて。
それをそのまま言葉にされたようで。母親失格と言われたような気がして。
それが他の誰でもない、政晴からの言葉だったからよけいに傷ついたのだ。
ずっとそう思われていたということが、何よりもショックだった。
「手を出す気がないなら、口も出さないで!私にもう何も話しかけないでっ!」
ずっと……壊したくないと思って目をそらし続けていたことが、ついに浮き彫りになっていく。
『手伝って欲しい』と言えなかったのは……自分なのに。
「大っ嫌い!」
ガラガラと、何かが音を立てて崩れ……唯一の味方を、失った気がした。
