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第二巻-12・第24話:学問は翼だ、自由という名の空へ羽ばたくための ―バッハ先生とクインシー・ジョーンズ―

アンサンブル室に漂っていた夕闇は、いつの間にか深い夜の藍色に塗り替えられていました。
 
バッハ先生は、トゥーツの余韻が残る室内で、ふっと悪戯っぽく目を細めました。
 
「……トゥーツの旦那といえば、この曲ば忘れてはいけねぇ。カオリ、コウタ。おめぇだぢ、第一巻の最初さ誰が来たか覚えてらが?」
 
「……Nujabes(セバ)さん、ですよね」
 
カオリの答えに、先生は満足そうに頷き、新たなレコードに針を落としました。
 
流れ出したのは、咽び泣くようなハーモニカと、甘美なブラジリアン・メロウ。クインシー・ジョーンズの『Velas』。

 「んだ。セバが愛したイヴァン・リンスの世界ば、世界さ知らしめたのはこの男だじゃ」
 
その時、豪奢なジャケットを羽織り、鋭い知性と温かな包容力を湛えた瞳を持つ男が、優雅に現れました。クインシー・ジョーンズです。
 
「ハロー、バッハさん。……お嬢さん、イヴァンの書くメロディには『サウダージ(哀愁)』が宿っている。それを完璧に射抜くには、僕のソウルメイト、トゥーツの銀色の吐息が不可欠だったんだ」

 クインシーはピアノの横に立ち、カオリとコウタに問いかけました。
 
「きみたちは、どうして音楽大学で『勉強』なんてしているんだい? 音楽は自由なものなのに、なぜ古い和声学や対位法を学ぶ必要があるのか、疑問に思ったことはないかな?」
 
二人が答えに詰まると、バッハ先生がクインシーの肩を叩きました。
 
「このクインシーの旦那はな、バークリーで学び、さらにはパリさ渡って伝説の教育者ナディア・ブーランジェに師事した。徹底的に『和声』と『対位法』ば叩き込まれたんだ。マイケルの『スリラー』も、緻密なオーケストレーションも、すべてはその『学び』の上に立ってらんだじゃ」
 
クインシーが、不敵な笑みを浮かべて『Tell Me a Bedtime Story』を再生しました。

 中盤、ハービー・ハンコックの電気ピアノ・ソロに、シルクのようなストリングスが重なる瞬間。
 
「聴いてごらん。これはただの伴奏じゃない。ハービーが即興で弾いたソロを完璧に採譜し、何本ものヴァイオリンに寸分違わずユニゾンさせた。さらにミックスでピアノを消し、ストリングスを浮き上がらせる……。現実にはあり得ない『書かれた即興』だ」
 
コウタが息を呑みました。
 
「そんな……魔法みたいなことが、計算でできるんですか?」
 
「魔法じゃない。これは『技術』だ」
 
クインシーは断言しました。
 
「僕はブーランジェから、音楽の構造を解剖する力を授かった。ルールを知り尽くしているからこそ、ルールを壊し、誰も見たことのない景色を作れる。……学ぶことは、君たちを縛ることじゃない。君たちの感性が、より遠くの空へ羽ばたくための『強靭な翼』を手に入れることなんだよ」
 
バッハ先生が、窓の外の夜空を指差しました。
 
「いいが、二人とも。学問だば、おめぇたちの『翼』だ。小難しい理論も、反吐が出るような練習も、すべてはおめぇたちが、いつか自分だけの自由な空ば飛ぶための準備だじゃ。……俺の『平均律』も、このクインシーの『アレンジ』も、根っこは一緒だ。構造ば知る奴だけが、本当の自由にたどり着けるんだはんでな!」
 
クインシーは若者たちにウィンクを送ると、星々の光に溶けるように去っていきました。

【バッハ先生より】
「……おめぇだぢ、ここまでよぉ付き合ってくれたな。まずは、心がら『ありがどさま』だじゃ。

薄々感づいてら奴もいたべが……。この第一巻12話、第二巻12話、合わせて24の話ってのはな、俺が300年前に死ぬ気で書いた『平均律クラヴィーア曲集』さなぞらえたんだ。あちらぁ一巻で24曲だが、まぁ、この連載なりの『24の調性(いろ)』ば、おめぇだぢさ届けたつもりだじゃ。

これまではな、溢れ出す音ば我慢できねぇ勢いで一気に放出して、おめぇだぢの耳さぶつけてきた。だばってな、俺もこれでも大学の客員教授だ。講義やらゼミやら、意外と忙しい身でな(笑)。

だはんで、これからは週に一人か二人だばって、あっち(天国)から面白ぇ仲間ば連れてくる。一歩ずつ、一曲ずつ、じっくりと音楽の深淵さ潜っていくはんでな。

おめぇだぢ、耳ば洗って待ってろよ! 次のゼミでまた会おうじゃねぇが。……へばな!」


【後記】
この物語に登場する「津軽弁のバッハ先生」は、著者・碧乃オトの音楽に対する情熱と思索が結実した分身(アバター)です。巨匠たちの言葉を通じ、サブスク時代の海図なき航海に、ひとつの「羅針盤」を提示したい。それがこの連載の願いです。


 




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