第二巻-11・第23話:楽器は相棒じゃない、肉体の一部なんだ ―バッハ先生とトゥーツ・シールマンス―
アンサンブル室の窓の外では、さっきまでの西日が嘘のように引き、紫がかった夕闇が刻一刻と教室の隅々まで侵食していました。スピーカーから流れてきたのは、夜の帳(とばり)をそっとめくるような、繊細で、研ぎ澄まされているのに温かいハーモニカの音色。
ビル・エヴァンスとの共演、『The Other Side Of Midnight (Noelle's Theme)』。
カオリは、手のひらに収まるほどの楽器から溢れ出す、圧倒的な情感に打ち震えていました。
「……先生。これ、本当にハーモニカなんですか? 歌声よりも生々しくて、まるで誰かの溜息がそのまま音楽になったみたい……」
バッハ先生は、深く椅子に身を沈め、その銀色の音の粒を慈しむように目を閉じていました。
「んだ。こいつぁベルギーの至宝、トゥーツ・シールマンスだじゃ。……いいが、カオリ。トゥーツにとってハーモニカだば、ただの『道具』じゃねぇ。脳、心臓、肝臓、肩甲骨、リンパ節……。こいつにとっては、ハーモニカは自分の『肉体』そのものだったんだじゃ」
その時、ピアノの横に、おどけたような笑みを浮かべ、首から銀色のハーモニカを下げた老紳士が座っていました。トゥーツ・シールマンスです。
「……バッハさん、買いかぶりすぎだよ。僕はただ、自分の呼吸をこの小さなリードに預けているだけさ。……お嬢さん、ビルの弾くフェンダー・ローズの音を聴いてごらん。なんて官能的で、なんて深い響きなんだろうね」
カオリがハッとしたように、エヴァンスの奏でるエレピの音に耳を澄ませます。
「ビル・エヴァンスのエレピ……。アコースティック・ピアノの時よりも、どこか優しくて、幻想的ですね」
バッハ先生が、待ってましたと言わんばかりに身を乗り出しました。
「んだべ! 世の中の分からず屋はな、ビルのエレピば『ピアノの代用品』だと思って下に見る奴がいるが、そんなのは耳が腐ってら! ビルはな、エレピ特有の倍音と、指先から直接回路さ伝わる電気の震えに、新しい『愛』を見出したんだじゃ。あの潔癖なビルが、この電子の海さ身を投げた意味……。トゥーツの『内臓の音』とこれ以上ねぇほど溶け合ってらべ?」
トゥーツが優しく、ハーモニカに唇を寄せました。
「ビルは言っていたよ。僕がどうやってハーモニカでそんなメロディを吹くのか、誰にも分からないって。……でもね、僕にはこれしかないんだ。ジャコも、そう言ってくれたね」
バッハ先生が、別のレコードをかけました。ジャコ・パストリアスの『Three Views of a Secret』。
あの天才ベーシスト、ジャコが、自身の最も私的で究極のアンサンブルのために選んだのは、トゥーツのハーモニカでした。
「ジャコはな、この曲のメロディは『トゥーツの音でなければならない』と執着したんだ。ウェザー・リポートの派手なステージじゃねぇ、自分の魂の奥底にある三つの景色(3 Views)を描き出すために、トゥーツの『血の通った音』が必要だったんだじゃ」
トゥーツの吹く主旋律が、ジャコの歌うようなベースと絡み合い、天上のアンサンブルで満たしていきます。
曲が終わり、静寂が戻ったとき、バッハ先生はピアノの前で硬直していたコウタに向かって、雷のような声を落としました。
「コウタ、おめぇだじゃ! ピアノが木と鉄の塊であるうちは、まだ本物じゃねぇ。楽器を極めるってのはな、自分と楽器の間の境界線ば消すことだじゃ。ピアノがおめぇの骨の一部になり、指先の神経と繋がったとき……、初めておめぇの『命』が音になって世界さ溢れ出すんだ。……道具ば、おめぇの『肉体』の一部さする覚悟、持てじゃ!」
コウタは、闇に沈みかけた巨大なグランドピアノを見つめました。いつかこの黒い塊が、自分の心臓と直結する日を、魂の奥底で願いながら。
窓の外では、夜の風がトゥーツのハーモニカの余韻を飲み込むように、静かに吹き抜けていきました。
【後記】
この物語に登場する「津軽弁のバッハ先生」は、著者・碧乃オトの音楽に対する情熱と思索が結実した分身(アバター)です。巨匠たちの言葉を通じ、サブスク時代の海図なき航海に、ひとつの「羅針盤」を提示したい。それがこの連載の願いです。
