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津軽家と皇室 弘前城天守曳戻し

111年振りに天守が戻る日、津軽家の娘が弘前へ帰ってくる

2026年8月21日、弘前城本丸で「ひっぱれ!けっぱれ!弘前城」のオープニングセレモニーが行われる。石垣修理のために2015年に約70メートル移動していた天守が、元の天守台へ戻る。前回この城が曳戻されたのは1915年(大正4年)。111年ぶりの出来事だ。

そのセレモニーに、常陸宮妃華子さまがご臨席される。津軽家15代当主・津軽晋氏とともに、津軽の伝統芸能と武芸の披露、そして天守の曳初めをご覧になる。

単なる「皇族の来県」ではない。


華子さまは、旧弘前藩主・津軽家のお生まれである。つまり今日、この城を築いた家の娘が、皇室の一員として、城が戻るその瞬間に立ち会うことになる。

なぜそういうことになったのか。400年分の話を、少しだけ辿らせてほしい。

城をつくった家系


津軽家のはじまりは、大浦為信という男だ。

17年かけて津軽地方を統一し、1590年(天正18年)、豊臣秀吉から4万5千石の所領を安堵された。このとき大浦から津軽へと姓を改めている。1600年の関ヶ原では東軍につき、徳川家康から2千石を加増されて4万7千石の弘前藩が成立した。

為信は1603年に高岡——現在の弘前——で新しい町割りを行い、築城を計画する。だが翌1604年、京都で客死した。築城は中断する。

再開したのは2代・信枚だ。1609年に工事を再開し、堀越城と大浦城の資材を転用して急ピッチで進め、1611年(慶長16年)に完成させた。

以後260年、この城は津軽家の居城であり、藩政の中心であり続けた。

城を残した家系


転機は明治だった。

1871年の廃藩置県で城は国有化され、1873年の廃城令によって本丸御殿をはじめ多くの建物が取り壊された。全国の城が同じ運命を辿っている。姫路城は23円50銭で競売にかけられ、松本城の天守も落札されて解体を待つ身になった。

どちらも、名前のある個人が救っている。姫路では陸軍大佐・中村重遠が陸軍卿の山縣有朋に建白書を出して修理を実現させ、松本では新聞人・市川量造が落札者に取り壊しを待ってくれと頼み込み、有志と資金を集めて買い戻しに走った。

弘前城が残ったのも、同じ構図だ。1894年(明治27年)、旧藩主・津軽家が城跡の公園化を政府に願い出て許可され、翌1895年、弘前公園として一般に開放された。

1903年頃から桜が植えられはじめる。今、春になると200万人が押し寄せるあの光景の起点は、ここにある。

城を建てたのも津軽家なら、城を残したのも津軽家だった。

1915年、天皇を迎えるために天守は戻された


そして石垣が崩れる。

1894年、1896年と本丸東面の石垣が相次いで崩落した。そのまま放置すれば天守まで崩れる危険があったため、1897年(明治30年)、弘前の大工棟梁・堀江佐吉が天守を西側へ曳屋している。前の記事で書いた、旧弘前偕行社を建てたあの棟梁だ。

ところが、その後の修理は進まなかった。石垣は崩れたまま、天守は仮の位置に置かれたまま、大正4年まで20年近く放置されていたことが市の調査報告に記されている。

事態が動いた理由が、興味深い。

1915年6月から10月の『弘前新聞』には、**陸軍特別大演習に伴う大正天皇の10月の来弘に備え、弘前市が石垣修復と天守の曳戻しをはじめとする弘前公園の整備に力を注いだ**様子が記録されている。

つまり111年前の曳戻しは、天皇を迎えるための突貫工事だった。

そして陸軍特別大演習の舞台になったのは、この街に置かれていた第八師団である。大正天皇は皇太子時代の1908年にも弘前に泊まっている。当時、皇族を泊められる洋式ホテルが市内になかったため、宿舎に充てられたのが旧弘前偕行社——第八師団の将校たちの社交場だった。

軍都だったこの街の事情が、城の姿を決めた。20年動かなかった天守が、天皇の来訪という一点によって元の位置に戻された。

津軽家と皇室が、血でつながるまで


華子さまに至る系譜は、少し込み入っている。

12代当主・津軽承昭は、熊本藩主細川家の出身で、津軽家に養子に入った人物だ。戊辰戦争での軍功により、明治2年に賞典禄一万石を与えられている。

13代・英麿には跡継ぎがなかった。そこで1919年、尾張徳川家の分家・徳川義恕男爵の次男である義孝が、津軽家に養子として入る。義孝の母は承昭の娘・寛子だった。つまり血の上では、津軽家に戻ってきた形になる。義孝が14代当主となり、伯爵を襲爵した。

この津軽義孝という人の周囲が、そのまま宮中につながっている。実兄の徳川義寛は昭和天皇の侍従を半世紀以上務め、侍従長にまでなった。実妹の北白川祥子は香淳皇后の女官長を30年務めている。義孝自身は馬術でロサンゼルス五輪に出場し、戦後は日本中央競馬会に関わった。

その四女が、津軽華子さま。1964年(昭和39年)、昭和天皇の第二皇子・常陸宮正仁親王と結婚された。

弘前城を築いた家柄の血が、皇室に入った。

二度目の帰還


1915年、天守は天皇を迎えるために戻された。

2026年8月21日、天守が戻るその場に、津軽家から皇室に嫁いだ方が、津軽家15代当主とともに立たれる。

同じ天守が、111年の間隔をおいて、二度、皇室と一緒に元の位置へ帰ってくることになる。誰かが企画してそうなったわけではなく、石垣が膨らんだから修理し、修理が終わったから戻す、というだけの話だ。それでも、こういう形に収まるのが歴史というものらしい。

400トンの木造建築を、綱で引く。8月22日から二日間は、抽選で選ばれた市民がその綱を握る。江戸時代に建った天守を、令和の人間が手で動かす。日本にこんな機会はもうしばらく来ない。

動かせるものとして


この街の歴史を調べていて思うのは、弘前という街が、あるものをずっと**動かしながら**保ってきた街だということだ。

城は壊されかけて、旧藩主が願い出て公園になった。石垣が崩れて、棟梁が天守を70メートル横に引いた。天皇が来ると決まって、20年放置されていた工事が動いた。100年経って石垣がまた膨らんで、市民4,000人が綱を引いて天守を動かした。そして今日、また戻る。

保存というのは、凍結ではないのだと思う。動かして、直して、また置く。その繰り返しでしか残らないものがある。

僕は今、この街で古い建物を宿にしようとしている。物件探しは難航していて、候補が決まっては消えるということを、この数か月で三度繰り返した。それでも、空き家を「そのまま残す」のではなく「使いながら残す」以外に道はないと、この街の歴史を見ていると思わされる。

天守だって、400年のあいだに二度も引きずられているのだ。

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**参考・出典**
- 弘前市「弘前城と石垣修理の歴史」「弘前城天守曳戻し」
- 弘前市『史跡津軽氏城跡(弘前城跡)本丸石垣解体調査概報』
- 東奥日報「華子さま ご臨席/21日『天守曳戻し』開幕式典」(2026年8月14日発表)
- 弘前観光コンベンション協会「史跡 弘前城」
- 弘前公園総合情報「東北で唯一の現存天守 弘前城」

弘前の歴史・文化と、この街で宿をつくる過程について書いています。

#弘前城 #弘前 #青森 #津軽 #日本史 #曳家

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