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息子へ。11年間、本当によく頑張ったね。


息子が小さい時です。

苺を出したら、
「何個までいい?」と聞く様な
遠慮がちな性格でした。

そんな時は、決まって私はこう言います。

「何個でもいいよ!食べたいだけ食べて」

今から書くお話は、数年前の話になります。

息子が野球を始めたのは、小学2年生でした。

最初の結婚の元夫は、プロ野球中継を一緒に見ながら、ルールやスコアの付け方を教えてくれました。

休日にはキャッチボール。

長年、少年野球のボランティアコーチとして子どもたちを指導し、土日も夏休みも野球中心の生活でした。

家族でゆっくり過ごせるのは、お正月くらい。

そんな環境の中で、息子は野球の楽しさを覚え、白球を追いかけるようになりました。

息子はもともと左利きでした。

けれど、少年野球では別のコーチの勧めもあり、右投げでプレーするようになりました。

当時はそれが良いことだと思っていましたが、今振り返ると、「左投げのままでもよかったのではないか」と思うことがあります。

左投げという大きな武器を、そのまま伸ばしてあげられたかもしれない。

今となっては答えは分かりませんが、親としてそんな思いが残っています。

私もまた、かなり厳しい母親でした。

「今日は素振り○○○回。」

そう決めたら、手に豆ができても、つぶれても最後までやり切らせました。

わたしは、息子の成長のために、本当は心を鬼にしてやっていました。

息子は泣き言も文句も言わず、必死についてきてくれました。

野球が好きだからです。

小学生の頃には、スポ少地域大会で優勝。

息子はエースとしてマウンドに立ちました。

後から、「〇〇小のダルビッシュ」と呼ばれていたと聞いたときは、本当にうれしかったことを覚えています。

野球を続けた11年間は、決して楽しいことばかりではありませんでした。

親には当番があり、朝早くから夕方までグラウンドで過ごす日々。

土日は毎回潰れます。
練習試合もあり、サッカー部とグランドが共同でしたので、
行くばかりで、ガソリン、お昼は外でとか、
朝早いので、モーニングに行くこともありました。

保護者同士の付き合いもあり、
気の重い集まりもありました。

高校では、保護者同士の人間関係がうまくいかず、特定の保護者が仲間外れにされる場面もありました。

結果、その方は、辞めてしまわれました。

私は、仲間はずれにしたり、無視をするなど、その輪に加わることはしませんでした。

誰かを無視したり、陰口を言ったりするために球場へ来ているのではありません。

やがて、その矛先が私へ向くこともありました。

それでも私は気にしませんでした。

私が球場へ行く理由は、ただ一つ。

息子を応援するためです。

意志は強かったです。

負けた試合のあとには、「ピッチャーのせいだ」と陰で息子の名前が出ていることも、
何度も何度も耳にしました。

父兄が言うこともありました。

そのたびに思いました。

野球は、一人でするスポーツではありません。

勝つ日もあれば、負ける日もある。

チーム全員で戦い、チーム全員で喜びも悔しさも分かち合うものではないでしょうか。

中学のときです。
周りが1人のミスで負けたと言っている中、
私も知りませんでしたが、息子がその子に、
温かい言葉をかけた様です。
後日、親御さんから聞きました。

○○に救われたって。

悔しい思いも何度もしましたね。

高校では、忘れられない事故もありました。

ウェイトトレーニング中、
100キロ弱の重りが利き手である左手の指に落ち、大けがを負いました。

仕事終わりの時間に、連絡を受け
慌てて病院へ駆けつけたときには、すでに手術が始まっていました。

私はただ、ただ、待合室で

「どうか無事でいてほしい。」

それだけを祈りました。

成功と言えたのでしょうか?
指を見てショックすぎました。
指がもぎ取れるような状態でした。

医師からは、皮膚が再生しなければ
難しいと言われました。

毎日のように神社へ通い、回復を祈りました。

消毒は、大人でも泣くほど痛かったそうです。

リハビリにも通いましたが、酷いと4時間待ちという病院。

厳しい先生で、熱があっても野球は休ませてくれません。
早退も許されないので、
今は考えられませんが。

リハビリも、途中までしかいけなくなりました。

息子は、以前のようなコントロールは戻りませんでした。

ケガ当時、ハンドルを握ることもままならず、自転車通学のため、自転車を押して一時間弱、学校へ通いました。

私は当時車もなかったので、
送り迎えすらできませんでした。

当時、息子が言いました。

「もう野球をやめる。」

文化部へ移ることも考えていたようです。

それでも最後に選んだのは、やっぱり野球部に残ることでした。

野球が好きなんだと思いました。

思うようにプレーできなくても、
仲間を支え、道具の準備や練習の手伝いなど、マネージャーのような役割も引き受け、最後までチームの一員としてやり抜きました。

最後の県大会。

マウンドに立つ息子は、家で見る息子とはまるで別人でした。

堂々とした姿が、本当に誇らしかった。

試合は優勢に進んでいました。

指も完全ではありませんが、
投げれる様になっていて、
コントロールもまずまずでした。

途中でピッチャー交代が告げられ、結果は敗戦。

あのときの私は、「あのまま投げていたら結果は違ったかもしれない」と悔しい気持ちでいっぱいでした。

もちろん、それは親である私の思いです。

監督には監督の考えがあったのでしょう。

それでも、忘れられない試合になりました。

試合終了の瞬間、涙は出ませんでした。

ただ、ただ、呆然として、グラウンドを見つめていました。

周りには笑顔で話している選手もいて、「悔しくないのかな」と感じたことも覚えています。

でも家へ帰り、一人になった瞬間。

11年間の思い出が一気によみがえり、涙が止まりませんでした。

今でも思い出すと、胸が熱くなります。

11年もの間の思い出。

みんなが遊んでいる休日も、
出かけることもせず、
息子は練習を選びました。
また、誰より家で、練習など努力していました。

暑い日も寒い日も、白球を追い続けました。

大けがにも負けませんでした。

左手の指は完全には元どおりにはなりませんでした。

医師からも、「これ以上の回復は難しい」と言われました。

それでも、皮膚が再生し、指を残すことができた。

それだけで十分ありがたいことでした。

11年間。

楽しいことも、苦しいことも、本当にたくさんありました。

親として学んだことも数えきれません。

息子が投げている姿を見るのが好きでした。

私も息子が大好きな野球を支えるため、
途中から、シングルマザーでしたので、
それを理由に、野球部をやめさせたくなくて、
平日の派遣の仕事のほか、週末に
ダブルワークをして、
不自由ない様に、がんばっていました。

最後に、息子へ伝えたいことがあります。

11年間、本当によく頑張ったね。

勝ったことも、負けたことも、
大けがを乗り越えたことも、
最後まで仲間と歩み続けたことも、すべてがあなたの財産です。

あなたは、野球を通して努力すること、
諦めないこと、
仲間を思いやることを教えてくれました。
また、息子の自信にもつながったと思います。

私は、そんなあなたを心から誇りに思っています。

そして、たくさんの感動をありがとう。

あなたと歩んだ11年間の野球人生は、私にとっても一生の宝物です。

最後の大会前にチームで作る
オリジナルTシャツ👕の案を考える際に、

みんながああしたい、これを入れたいという中、他父兄より聞きましたが、
息子だけは、何も言わなかった様です。

あれこれ入れたら、親である私に負担がかかると思ったのでしょうね。

あれから時が経った今も、あなたはあの頃と変わらない優しい息子のまま。

その優しさを、どうかこれからも大切に歩んでいってください🩵

本当にありがとう。

親バカでごめんなさい。

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