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短編小説|波の音を、まだ覚えてる/シロクマ文芸部/詩のような物語

波の音がした。

ほんとうは、ここに海なんてない。

窓の外にあるのは、夜の道路と、信号機と、眠りそこねた街の灯りだけだ。

それでも、耳の奥で、波が寄せては返していた。

あの日と同じ音だった。

あなたと並んで歩いた、夕暮れの砂浜。

靴の中に砂が入るたび、あなたは少し困った顔をして、それから笑った。

「帰ったら、ぜんぶ出さなきゃね」

そんな、なんでもない言葉を。

私はなぜか、宝物みたいに覚えている。

あのときの空は、もう夜になる直前で。

海は、青というより、灰色に近かった。

風が強くて、あなたの声は何度も波にさらわれた。

聞き返せばよかったのに。

聞こえないふりなんて、しなければよかったのに。

あのとき、あなたが最後に言った言葉を、私は今でも思い出せない。

ただ、少しだけ笑っていたことは覚えている。

さよならを言う人みたいにやさしくて、引き止めてほしい人みたいに寂しい顔で。

思い出せないのに、忘れられない。

おかしな話だと思う。

波はいつも、何かを連れてくるふりをして、結局、何も残してくれない。

足跡も。

約束も。

言えなかった気持ちも。

きれいに消してしまう。

それなのに私は、まだときどき、耳を澄ましてしまう。

遠くから、あなたの声が戻ってくるような気がして。

もう一度だけ、名前を呼ばれるような気がして。

カーテンが揺れた。

海ではなく、夜風だった。

それだけのことだった。

私はそっと目を閉じる。

胸の中で、波がひとつ、静かに崩れた。

会いたい、とは言わなかった。

言ってしまえば、ほんとうになってしまうから。

代わりに私は、息を吐いた。

あなたがいない世界で、今日も朝を迎えるために。

波の音だけを、抱きしめながら。


シロクマ文芸部に参加させていただいています。
小牧部長さま、いつもありがとうございます!
今回のお題
「波の音」から始まる文芸作品です。



【詩のような物語】という、小さな物語たちを紡いでいます。
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