映画「嵐が丘」現代日本の倫理観をバグらせる( ꒪ཫ꒪)
超名作『嵐が丘』。。。(꒪꒳꒪ )
過去に何度も映画化されてきた歴史は知っている。
しかし、私がこの物語に最も深く触れたのは、美内すずえ先生の名作漫画『ガラスの仮面』における劇中劇である。
漫画では主に幼少時代のピュアで情熱的な魂の結びつきが描かれるため、すっかりそのムードで作品全体の雰囲気を掴んだ気になって劇場へ足を運んだ。
(そして、どちらかというと『嵐が丘』の嵐は、北島マヤの“舞台あらし”の「嵐」の印象すらある。)
そんな私にとって、今回の映画はガラスの仮面ばりに白目を剥く代物であった。( ꒪⌓꒪)

あまりに驚いたので、この内容は原作準拠なのかとAIに聞いたらかなり改変されているということが分かって少し安心をした。。(;´∀`)
1847年に出版された今作。
牧師の娘であった作者エミリー・ブロンテが、こんな奔放ではないとは思いつつ、自分の知らない世界はこんなにも広大なのかと思ったり。
本作は海外の評価でも真っ二つに賛否が割れているという。確かに、原作を深く愛読している人ほど
「こんなの嵐が丘じゃない!」とムキー!と言っている。
ひとまず今回の感想は、まったくプレーンな『嵐が丘』初心者としての視点で書いていく。
本作は、美しい自然と純愛を描いたお行儀の良い文芸映画などではない。
スクリーンを埋め尽くすのは、狂気的な美術と、そこに込められたむき出しの欲望であった。
舞台はイギリス
ヨークシャーの荒野に建つ屋敷「嵐が丘」。
アーンショウ家の主人が、ある日酔っ払って身元不明の孤児の少年を連れ帰ってくる。
ヒースクリフと名付けられたその少年と、令嬢キャサリン。二人は親からの愛情や身分という枠組みを飛び越え、荒野を駆け回りながら、自他の境界線が溶け合うほどに強く惹かれ合って育つ。
しかし時は流れ、大人になった二人を待ち受けていたのは厳しい現実だった。
ギャンブルで没落し、薪にも困るほど貧困にあえぐアーンショウ家。そんな彼らのテリトリーのすぐ側に、莫大な富を築いたリントン家が越してくる。
泥にまみれた野生の愛か、それとも美しく整備された文明の暮らしか。
圧倒的な格差と執着が、彼らを狂気と愛憎の渦へと巻き込んでいくーーー
重ねて言うが、本作はお上品なクラシック映画ではない
監督は『プロミシング・ヤング・ウーマン』のエメラルド・フェネル。
彼女の手によって再構築された本作は、徹底的に「視覚」で観客の倫理観を揺さぶってくる。
荒野の泥臭さ、血の匂い、そして裕福な屋敷に並ぶ異様な装飾の数々、そして絢爛豪華な衣装。
セリフで語る以上に、画面に映るすべての「美術」がキャラクターの異常性を雄弁に物語っている。
圧倒的な映像美とエロティシズムに酔いしれる、唯一無二の劇薬映画である。
とにかく映像のカロリーが高い。
映画冒頭のギシギシと鳴る首吊り台の不穏な音から始まり、タイトルの文字のうねうねと伸びてくる髪の毛。
荒野の吹き荒れる風や泥臭さに対して、リントン家の箱庭のような不自然な美しさ。
大自然と文明の境界線が可視化してくるゾクゾク感たるや。 「古典名作でここまでやっていいの!?」
という戸惑いを軽々と飛び越えてくるキャストたちの熱量(と生々しい色気)に、ただただ圧倒されました。
いやー、、もう、、ほんと、困っちゃう(*ノωノ)
以下ネタバレあーだこーだ
1994年版は兄の話があらすじにあって驚く。( ゚д゚)?
・・・・書く方が恥ずかしくなっちゃう(*ノωノ)
まず、ネタバレ全開で言いたいこと。。。
こんなにエロのヴァリエーション映画でいいの!?(;'∀')
本作を観ていて一番困惑したのは、ヒースクリフとキャサリン、そして周囲の人間たちが繰り広げる性愛のシチュエーションがあまりにも豊富すぎる点だ。
納屋の二階から覗き見た使用人たちのSMプレイに始まり、それを見て元気になったヒースクリフと、更に発情したキャサリンが荒野での自慰行為。
再会した二人が愛に溺れる場面では、荒野、庭、納屋、馬車の中・・・エッチしかしてない!
果ては夫エドガーが窓越しに見ている前でのマジックミラー状況での見せつけ間男プレイ。
しかもキャサリンは妊婦なのが、私の倫理観を抉ってくる
(;´Д`)
極めつけに、ヒースクリフとイザベラの「ワンワンプレイ」である。
時代先取りしてるわぁ。。。
人間関係のドロドロも濃厚なはずなのに、性の喜びがあふれている。。(;'∀')
確認してしまうが、これは1847年に出版されたイギリス文学の金字塔『嵐が丘』である。
精神的な魂の結びつきを描いたはずの原作を考えれば、ファンが怒るのも致し方ない。
うちのチャッピーも、「直接的な表現はありません」と言ってたから、よっぽどよ(;´∀`)
次から次へと繰り出される「不倫は文化」「間男文学」とでもいうべき生々しい描写の数々。
もはや古典文学の皮を被った「性癖のカタログ」であった。
だが、不思議なことに単なるポルノには陥っていない。
絶妙な着衣状態がエロスをあげていないのもあるのだろう。
そして、この過剰なまでの肉欲の描写こそが、彼らの「決して一つになれない絶望」と「相手を飲み込みたいほどの執着」を表現する、監督なりの手段だったのだろうとは思う。(思いたい)
狂気の美術が語る、むき出しの欲望
この過剰な肉欲と狂気を、さらに視覚的に増幅させているのが、悪趣味なまでに作り込まれた「美術」や「衣装」たちである。
圧倒的な大自然の厳しさを持つ「荒野」に対し、人間が自然を不自然なまでに屈服させ、弄んだ「文明」リントン家。
荒廃した茶色の土地から、リントン家が見えたときの色合いの境が露骨に際立っていて凄まじい。
そして、その悪趣味さが端的に表れていたのが、キャサリンが初めてリントン家を覗き込むシーンだ。
綺麗に整えられた庭園。
自然が人間に屈服し、更に執事やメイドたちが金持ちの主に従っている。

真っ白なテーブルに供されるのは、自然界には存在し得ない「サッカーボールほどある巨大な苺」。
熟れて大きくなった真っ赤な果実。( ͜🍓 ・ω・) ͜🍓
途中で出て来た、まるごと一匹が閉じ込められた「ゼリー寄せの魚」料理。
キャサリンがその魚の口に指を突っ込み、じゅぽじゅぽ音を立てて弄る姿は、誰がどう見ても直接的な性描写の暗喩よね。

https://bcij.jp/ctg/film/32515.html
上品な貴族の皮を被った、むき出しのエロティシズム。
食卓の絵は見ていて興味が尽きない。
リントン家という空間の異様さが完璧に表現されている。
白と黒のヴェールが描く皮肉な対比
リントン家へ輿入れする際、荒野の強風に大きくたなびく純白のウェディングドレス。

ポスターでも使われるその姿は、泥まみれの「野生」から、整備された「文明」へと彼女が境界線を越えたことを示す、象徴的で美しい姿だった。
しかし、その神聖さは中盤で見事に裏切られる。
父親の葬式という死の儀式の場で、彼女は黒い喪服のヴェールを被りながら、その見えない下でヒースクリフと密かに手を取り合い、背徳的なイチャコラへと堕ちていくのだ。

純白のヴェールで表向きの「文明の結婚」を飾り、漆黒のヴェールという死の影の中で「本能の結びつき」を成立させる。
この色彩の強烈な対比もまた、計算し尽くされたフェネル監督の美学を感じる。
キャサリンの部屋
夫のエドガーがキャサリンのために作らせたという部屋。
彼女の肌の色に合わせたという、ピンクの皮張りの一見ファンシーな部屋。
ご丁寧に、彼女のそばかすを模した黒いシミまで再現されたその空間は、愛妻家を通り越して執着の極みであり、不気味だ。

映画『嵐が丘』ロケ地ブロンテ・カントリーにキャサリンの寝室が期間限定でAirbnbに登場
・・・冷静になってみると、シミっていうより、その血管みたいな線はなんだい?みたいな部屋。。。
怒張した、ち●こを想像させるのは私が「嵐が丘脳」だからでしょうか。
欠点にみえるシミでさえ、夫エドガーにとっては「痘痕もエクボ」というポジティブさにも見えてたけど、やっぱり頭がおかしかった。

作中で良心の塊のようなキャラクター造形がされているエドガーのことは掴みにくかったのに。
彼がもっと嫌な男であれば、ヒースクリフを応援したくなるのだが、、、原作はどうなのだろう?
そして終盤、敗血症で倒れたキャサリンの股間からありえない程の大量の血が噴き出し、ベッドから垂れ、部屋を染め上げる俯瞰ショット。
あのピンクの部屋そのものが、彼女を閉じ込める巨大な「肉」や「男根」であり「子宮」のメタファーであり、その檻に捕まるという意味でもあるのだろう。
古典のコルセットを引きちぎる、美しき破壊
こうして振り返ると、エロスも美術がすごいのは分かった。でも、結局この映画は何が言いたかったの?と考えてしまう。
倫理的に考えれば夫のエドガーの方が圧倒的に「まっとうで良い男」である。
ヒースクリフなんてDV男で関わってはいけないクズ男だし、リントン家の文明的な暮らしの方が絶対に幸せになれる。
私自身の現代的な日本の倫理観が正常すぎるのか、
「なぜそこまでして破滅の道(荒野)を選ぶのか?」
と首を傾げたくなる瞬間もあった。
一応、他の作品でも学んだ部分から想像すると、欧米文学における「荒野」や「湿地」とは、人間の理性が及ばない「コントロール不可能な本能と欲望」の象徴といわれる。
監督は、リントン家という「文明」を、高く囲まれた塀、整然とした庭、巨大な苺やピンクの部屋といった人の造り出すものを、不自然で悪趣味な檻として描くことで、社会のルールや道徳がいかに人間の本能を息苦しく縛り付けているかを視覚化したのだろうと想像する。
1847年に出版された『嵐が丘』は、当時から「不道徳だ」と批判された問題作でもある。
直接表現がないのに!と思ってしまうが、神に誓ったのにも関わらずに想い続けることはアウトだろう。
そう思うと、本来不道徳なものに挑戦したハズの今作が、何度も舞台や映画化されているが、今ではロマンチックの方にしか目が向かない作品になってしまったのかもしれない。
レビューの冒頭から「古典の名作なのに!」と戸惑ったことは、フェネル監督的には大成功✨なんじゃないだろうか。
現代人がいつの間にかこの作品に着せてしまった「お行儀の良い古典文学」というコルセットを、監督は暴力的に引きちぎってみせた。
「倫理的に正しい生き方」など知ったことかと、中指を立てた作品『嵐が丘』。
人間の中にある、絶対に飼いならせない泥臭い執着と、バカみたいに純粋な肉欲。
徹底的な「視覚の暴力」として現代に叩きつけた本作は、原点回帰であり、アートという名の美しい破壊行為なんだろうな、と思いつつ。
でもね、やっぱり上にのってるクリームが多すぎて、下の具が見えにくいとは思うのよ(;´∀`)。。。
『嵐が丘』の他の映画をみなきゃなぁ
欧米の根底にあるのは「人間 vs 自然(対立と征服)」というキリスト教的・一神教的な価値観。
自然は「人間の力でコントロールし、切り拓くべきもの(あるいは恐ろしい脅威)」。
一方で、日本の自然観は「自然との共存(調和)」。
八百万の神々がいる多神教の感覚では、台風や地震のような荒ぶる自然も「畏れ敬う(畏怖する)」対象であって、高い壁を作って完全に排除したり、敵対したりするものではない。
縁側のような「ウチとソトの曖昧な境界」を楽しむ文化でもあるわけで・・・。
「文明」VS「荒野(ヒースクリフ)=絶対的な脅威、かつ理性をぶっ飛ばす狂気」
理解はするけど、日本人と相性が悪い。
そんな今作『嵐が丘』体験でした。( ꒪ཫ꒪)
最初隣の家のダイヤモンドに目が眩んで!!と
金色夜叉みたいな話なのかと思ったのは内緒(笑)
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