狼王の嫁⑨
第八章 大好きな空の色
「まあ、お腹がこんなに大きく……」
「今夜あたり、産まれるかな」
訓練所がお休みのクラウスと二人で、オールのお嫁さんの様子を確認する。お腹が大きくなった事でだいぶ辛そうで、横になったままフゥフゥと息が上がりやすくなっている。
時折お腹を舐めているのは、お腹の中で赤ちゃんが動いているからかも知れない。
そっとクラウスがお腹を撫でてあげると、気持ち良さそうに目を閉じてウトウトと軽く居眠り。お腹が重くて眠るのも大変なようだ。眠りこんでしまったので、毛布をかけてそっと離れた。
「オール様は側にいらっしゃらないのですか?」
「産んでから巣穴を出るまでは母親が一人で育てるんだ。だいたい、三週間くらいかな」
「まあ、大変……」
「巣穴から出るようになったら、父親も一緒に面倒を見る。遊び相手になったりするんだ」
「オール様が? 子供と、遊ぶ……」
「アーニャとも遊んでたぞ」
ホリーは思わず笑ってしまった。いつもは毅然としているオールも、子供達の前では甘い顔をするのだろうか。
「狼は愛情深いんだ。仲間や家族を大事にするし……。人間に懐く事は全く無いが、子供や女の人には気を許す事もある。好奇心も強くて、色々知りたがるだろう?」
コクコクとホリーは力一杯頷く。何しろ心を許してくれてからというもの、アーニャはすっかり子供らしさ全開。
ホリーが育てているハーブの畑を荒らしてしまったり、食べてはいけないものまで食いついてしまったり……。
「でも、お話出来るのは、ロルフ様とクラウス様だけなのですね」
「そうだな」
「素敵ですね……私も、アーニャとお話してみたいです……」
ふと、夢中で箱を覗き込んでいた時には気付かなかったが、クラウスが物凄い側にいる事に気付いてしまった。
慌てて離れようとすると肩が軽くぶつかってしまい、更に慌てる。
(クラウス様、ビクともされないわ、何て逞しいのかしら……。いえ、そうじゃなくて!)
「あの、あの、そうでした、お買い物に行く時間なので、失礼致します」
「ああ、それなら一緒に行こう。今日は色々買い込むんだろう? 荷物持ちをする」
「ええ?」
当たり前のようにサラッと言われて、ホリーは慌てっぱなしで両手を顔の前で振った。
「だ、ダメです、クラウス様にそんな事……」
「そうするように、と父上から言われている。行かないと、俺が怒られるのだが」
「……わ、分かりました……」
断れる訳が無い。ロルフの言いつけならば、ホリーも守らなければ。
買い物カゴを持って、クラウスとアーニャと共にいつものお店を回る。今日は保存食作りに取りかかる為、普段より買う量が多い。確かに、クラウスが一緒で助かった。
「あら、ホリーちゃん! いらっしゃい!」
「こんにちは、ナナさん」
「あらまあ、クラウス様と一緒? 仲良しねぇ?」
淡い恋心などはとっくにナナにバレていて、容赦無くからかわれているのだ。ナナはこの上なく楽しそうに笑っている。
「あ、え、ええと、その、あの、ロルフさまが! 荷物が多いから、それで、クラウス様に、あの……」
「はいはい、頼まれてたの、箱に入れといたわよ。セロリとニンジンと、小さいキュウリ……ホリーちゃん、ピクルス作るの?」
「はい! ロルフ様が苦手で無いようでしたので……」
「またまたぁ! クラウス様の好物だからでしょ? 違うの?」
「ち……」
照れ臭くて違うと答えたらクラウスは悲しむだろう。確かに、クラウスは生の野菜をそのまま食べるより、軽く塩漬けにしたものや酢漬けにしたものを好んで食べる。
(クラウス様のお弁当に入れたら、きっと喜んでくれるなって思ったけど、思ったけど!)
ロルフの体の為にも、野菜は沢山食べさせた方が良いと、主治医のジル先生から言われているのだ。その為、ホリーは野菜を沢山食べて貰えるように工夫を凝らしている。
「そ、それよりナナさん! 結婚が決まったんですってね!」
「あ……そ、そそそそそそうなんだけど、誰から聞いたの、早耳ね、まだあんまり人に話して無いのに……」
ホリーはチラッと隣に立つクラウスを見上げた。クラウスは素知らぬ顔で「おめでとうございます」と祝いの言葉を述べて、更にナナを慌てさせている。
実はこの話はクラウスから聞いたのだ。
ナナの結婚相手である寡黙だが優しくて頼りになる料理人のグイドはクラウスと結構ウマが合うらしく、真っ先に結婚の報告をしてくれたのだとか。
クラウスがグイドと話すきっかけとなったのは、あのほうれん草のパンケーキだ。メイドとしてあるまじき朝寝坊から生まれた一品なので、ホリーにとっては恥ずかしいのだが……。
更にホリーが救助隊の本部に乗り込んで作った野菜のパンケーキは大人気で、
「アレはもう作らないのか、ほら、地震の時に作ってくれたアレだよ」
などと隊員達が食べたがったため、ホリーは改めてレシピをまとめ、クラウスを通じてグイドに渡して貰った。
今や一番人気メニューなのだとか。
食堂でゆっくり座って食べる暇も無い隊員達も、手軽に持ち運べて野菜がたっぷり食べられ、しかも美味しいと、それはもう喜んでいると聞き、照れくさくも嬉しかった。
あのクソ玉ねぎことルーク教授も、特に感想など言わないが、黙々と通いつめて毎回野菜のパンケーキを頼んでいるとクラウスがこっそり教えてくれた。
そんな経緯でクラウスはグイドと親しくなったのだった。
相変わらず好きな人の事となると恥ずかしそうに口数が少なくなってしまうナナはとても可愛らしい。
そんなナナがモジモジと説明してくれた。先日のホリーの騒動でお互いに両思いである事が分かり、間に入ってくれる世話好きな人もいて、トントンと話が進んだらしい。
「ホントはね、姉さんより先に結婚はどうかと思ったんだけど、姉さんが真っ先に賛成してくれてね……」
「あ、ナナさんのお姉さんって、ジル先生の助手のミーナさんですよね!」
「そうなの!」
グッと両拳を固めたナナは、目をキラキラ輝かせた。それはもう、大好きな食べ物を前にした子供のように綺麗に輝く瞳で、
「姉さんはそりゃあ賢くて気が利いて、何でも一番上手に出来て、お料理だってお裁縫だって、何でもすっごく早くて綺麗で上手でお洗濯だってテキパキこなして、子供からお年寄りまで誰にだって好かれて、その上すっごい美人なのに……」
シュンとナナは萎れてしまった。
「全然結婚したがらないのよ……どうしよう、ホリーちゃん……」
ベラベラと喋りながらもナナの手は一切止まらず、手際よく野菜を詰めていく。クラウスは感心したように目を見張っている。
女の人というのは皆こんなのだ。口が忙しく回っていても、手は絶対にお留守にならない。男の人には、それが難しいらしい。
「うーん、本人がしたがらないものを無理に勧めるのもアレですよね……あ、ナナさん、このトマト十個買うからちょっと安くして!」
「ん? きたわね、ホリーちゃんのお買い物術! そうねえ、こっちの新作野菜を付けるから……」
ナナが見せてくれた新作野菜は、枝葉を広げた木を小さく縮めたような形の面白い野菜だった。木で言うところの枝葉の部分は細かい蕾のような物がびっしり。幹に当たる部分は表面は硬そうだが、皮を剥いて薄くスライスして煮込んだら美味しいかも知れない。
「こんなんでどう?」
ナナが三本指を立てる。相場より少し安くなっているが、新作野菜を試して感想を伝える事を踏まえてホリーは粘った。
「もう一声!」
「んー、じゃあこう!」
「買った!」
「まいどあり~。ねえ、ホリーちゃんがこないだくれたトマトの干したヤツ、美味しかったわ~。ウチでもああいう加工をして売ろうかって父さんが張り切っててね~。あたしでも出来るかしら」
「簡単ですから、また教えてあげます! その代わり……」
「あー、もうお買い物上手! はい、オマケつけちゃう! 約束よ~?」
「ありがとうございます!」
今日直ぐに使う野菜は買い物カゴに入れて、箱詰めにして貰った方はクラウスが担いでくれた。
「まー、さすがはクラウス様! 力持ちねぇ!」
「いや、このくらい……」
「良かったわね~、ホリーちゃん。お買い物楽しそうねぇ?」
「い、いつだって楽しいですもん!」
「ふふふ、かぁわいいんだから。またね~」
ナナに手を振って別れ、順調にお店を回ってお買い物を済ませたホリーは家に戻ると直ぐにお昼と夕飯の仕込みをしつつ、大きな鍋でグツグツ瓶を煮沸消毒する。
「ホリーの大鍋はよく働くな」
「はい! あ、いけませんよ……」
クラウスはホリーの隣に立ち、ヒョイとジャガイモを手にすると手際よく皮剥きをしてくれた。
「まあ、お上手ですね……」
生真面目なクラウスの性格を表すように、丁寧に剥き取られた皮は見事に均一な厚みだ。感心している間に、クラウスは次々に皮剥きをしてくれる。
「簡単な料理なら作れるようになるんだ。訓練の実習で……」
遭難者を探して二重遭難してしまった場合を想定した訓練時に、非常食を作る必要に迫られるそうだ。
男ばかりの訓練所で、実は一番難易度の高い訓練であったりするらしい。
「ホリーのように上手ではないが、皮剥きくらいなら手伝える」
「じ、じゃあ、これを半分こするのもお得意ですか?」
ホリーがカボチャをまな板に乗せると、クラウスは皮剥きに使っていたナイフを軽く洗って迷わず真っ二つにしてくれた。
「カボチャは固いからな、切るのは大変だろう。もう半分にしておこうか?」
カボチャ割りの妙技を教えてくれたロルフと全く同じ事を言うクラウスに、ホリーは誇らしげに胸を張って見せた。
「いいえ、それには及びません。見ていて下さい」
まだ、切れる所を探すのには時間がかかるが、カボチャ割りの技は完璧だ。
「えい!」
ぱかん、と綺麗に切り分けて見せると、クラウスは「おお」と感嘆の声を上げて笑った。
「どうですか、私もやるでしょう?」
「ああ、凄いな。凄腕の剣客のようだ。剣の修行をしたのか?」
「フフフ、ロルフ様に教えて頂きました!」
「なるほど。ホリーは飲み込みが早いんだな。凄いな」
素直に真っ直ぐ褒められて、何だかちょっと照れくさくなってきてしまった。
「そ、それほどでも……まだ時間がかかりますし……」
「いや、その見極めが出来てるのが凄い。そこが一番難しいんだ」
「ろ、ロルフ様の教え方が上手だったから……」
「無論、父上は素晴らしい師匠だが、実際に出来たのはホリーの才能だ」
「あ、ありがとうございます……」
あまりにも正直に自分の顔が真っ赤になってしまって恥ずかしい。誤魔化すようにカボチャを小さく刻んでいく。
「今日のカボチャは何になるんだ?」
「今日はグラタンを作ろうかと」
「ぐらたん……」
「はい、風の国のお料理で……」
簡単に作り方を説明していると、クラウスのお腹が鳴った。
「……すまん。実に美味そうだと思ったら、つい」
「フフフ、今日はロルフ様のお好きなカボチャで作りますが、次に作るときはジャガイモで作りますね。具材も色々変えられて……」
料理の話など、クラウスには退屈だと思うのだが、最近休みの日には欠かさずホリーの手伝いをしながら話を聞いてくれる。
始めはただ気を使って聞いてくれているのかと思ったが、具体的な質問をくれたり、料理の来歴やアレンジについて楽しそうに聞いてくれるので、ホリーも話が弾むようになった。
「これも母上から習ったのか?」
「はい! 母さんは凄いんです!」
それはもう沢山のレシピがあって、まとめたメモがこんなに分厚くなったのだとホリーが熱弁をふるうと、クラウスは又、楽しそうに笑った。
「俺は無知だから知らなかったのだが、敏腕メイドのリリーは有名らしいな。カティスの家でも一時期、世話になったとかで感謝していた」
家族が少ないのに屋敷は大きくて持て余していた所、管理を任されたリリーがピカピカに手入れしてくれて、空き部屋の活用法を提案してくれたのだとか。
ホリーは母の武勇伝を誇らしげに頷きながら聞きつつも、お昼にするジャガイモを炒める。
「空いている部屋を使って、母上が裁縫教室を始めて、今も盛況だそうだ。病弱だった母上が急に元気になって、カティスも喜んでいたな」
「……」
「どうした?」
本当は、母を褒められて嬉しくて仕方無い。声を大にして、「私の母さんは本当に凄いんだからー!」と国中にふれまわりたいくらいだ。
(でも、クラウス様のお母様は……)
クラウスが幼い頃に、死に別れているのだ。愉快な話題では無いだろう。謝ろうとする寸前で、クラウスが静かに呟いた。
「俺の母上は……」
「……」
愉快ではない話題の上に、母の記憶まで呼び寄せてしまったようだ。ますます申し訳無くて肩を落としてしまうと、クラウスは事もなげに言った。
「料理が苦手だったな」
「は?」
「肉を焼くと必ず焦がすし、パンは全て焦げた事による黒パンだったし、卵は常にカチカチだったな。そうだ、俺は半熟の目玉焼きが食べたくて卵の焼き方を覚えて作ったら、何で私の息子なのに上手なのかと母上から怒られた覚えがある」
「それは……」
ある意味、壮絶な過去だ。上手に出来たのに怒られてしまったとは。そして、納得した。どうりで普通の朝食を作っただけでロルフが感動する訳だ。
あれはまだ、家に馴染まないホリーを励ますためのものだと思っていた。それにしては大袈裟だなぁ、と感じていたのだが、どうやら本気で感動していたのだ。
「だが母上は凄いお人だった。オールを叱りつける事が出来る唯一の女性だった」
「オール様を? す、凄いです!」
狼に好かれる事この上なく、オールを筆頭にオールの兄弟達も全員クラウスの母……アイシャが大好きで、彼女の護衛はそれこそ骨肉の争いだったらしい。
「喧嘩にならないように何時も母上の方から指名するんだ」
元々は腕利きの猟師の家に生まれた末っ子で、父親の手伝いを良くする内に抜群の弓の使い手となってしまい、狩りに出ればそれこそ百発百中。食材を狩るのは上手だが……。
「でも、黒パンなんですね?」
「そうだ」
思わずホリーは声を上げて笑ってしまった。
「父上はよく、「俺の女神は竃の女神に嫉妬される程美しいから仕方無い」と、パンの焦げを削って食べていた」
さらりと女性を女神と呼んで嫌味では無いのがロルフのすごい所だ。楽しそうに母の事を語りながら、皮剥きの手がお留守になっているクラウスの横顔を見上げて、
(クラウス様も、そういう事……言ったりするのかしら)
俺の女神、とクラウスが言っている所を想像しただけでホリーは頭の中が沸騰してしまう。慌てて頭の横を叩いて追い出してから、ホリーは煮沸消毒を終えた瓶を取り出した。
「あつつ……」
「大丈夫か? 代わろう。全部取り出せば良いか?」
「は、は、はい! あ、いえ、ダメです、火傷してしまいますから……」
「大丈夫だ。俺の方が頑丈だ」
ホリーがオロオロしている間にも、クラウスは手際良く瓶を取り出してくれた。
「次は、どうする?」
「こ、ここからは、自分でやりますので!」
クラウスが取り出してくれた瓶についた水分を綺麗な布巾でしっかり拭き取る。塩を振って板ずりしておいたキュウリや、瓶の高さに合わせて切り揃えたセロリ、ニンジンなどをそれぞれの瓶にびっしり詰めて、朝から準備しておいたピクルス液をゆっくり注ぐ。
固く蓋をした瓶を再度煮立った鍋に入れて引き上げると、ホリーは野菜達がきちんと頭までピクルス液に浸かっているか確認した。キチンと浸かっていないとそこから腐ってしまうからだ。
クラウスはキュウリが詰まっている瓶をくるくる回しながら眺めて、
「綺麗だな」
と呟いた。板ずりしたキュウリは鮮やかな緑色が綺麗に出る。ホリーの説明を聞きながら、クラウスは仕込み終わった瓶をどんどん鍋から引き上げてくれた。
丁寧に瓶についた水滴を拭っていると、ヒョイとロルフが台所に顔を出した。
「ホリー、そろそろジル先生が見えるから、お茶の支度を頼むよ。あ、あと、この前話していた……」
「カボチャの種ですね! 表に干してあるので、取って来ます!」
先日、診察にいらしたジル先生は庭に干してあるカボチャの種を見て「分けて欲しい」と熱望していたのだ。
なんでも、カボチャの種は薬にもなるらしい。
(知らなかったわ、ただ香ばしくて美味しいおやつじゃなかったのね……)
ホリーが手早く種を集めて袋に詰めている頃、
「おい、クラウス」
「はい?」
「私は跡取り息子に荷物持ちを命じた覚えは無いぞ?」
「そうでしたか? ホリーが町に出る時にはアーニャと共に護衛せよと仰せでしたので、手段を問わず父上の名を利用しましたが、何か?」
「フフフ、いきなり成長してつまらんぞ。もっと父を楽しませろ」
「ご冗談を」
「フォルクの影響だな? 悪い友達だな、クラウス」
「彼は俺の親友です。貶す者は例え父上でも許しませんよ」
親子で軽く火花を散らした所で、ホリーがカボチャの種をぎっしり詰めた袋を手に戻って来た。
「お待たせしました! すぐにお茶の支度も致します!」
「ああ、頼んだよホリー」
「はい!」
ジル先生は猫舌なので、少し早めにお茶の支度をしてちょっと温めのお茶を出すと喜ばれる。
「やあ、ホリーさん。おやおや、クラウスさんも。こんにちは」
ジル先生は直接台所にやって来て、お茶を飲んだら直ぐに診察にかかる。
本当は客間にお通しして丁寧におもてなししたいのだが、先生がそれを遠慮してしまうのだ。
「薬くさい私が長居してしまったら、薬臭くて元気な人も具合が悪くなってしまいますよ」
などと言って。
実際に、ホリーはジル先生が忙しく駆け回っている姿しか見た事が無く、あまりの忙しさに立ったまま眠っているらしい、と嘘か本当か分からない噂まで耳にしている。
「こんにちは、先生。あの、この前話していたカボチャの種を用意してあります!」
「これは嬉しいですね、助かりますよ。ミーナさん、受け取っておいて下さい」
「はい、先生」
ジル先生は腕の良い薬師で、いつもニコニコしていて優しい先生だ。大きな眼鏡に、何時も薬がどっさり詰まった薬箱を担いで走り回っている。
どんな横暴な患者を前にしてもニコニコ笑って受け流す程、広くて大きな心の持ち主なのに、背はとても低い。
今まで診てきた悪戯っ子が背を追い越すと、「チビ先生」などとからかわれる。それも怒らずニコニコして、「大きくなりましたねぇ」などと逆に喜ぶ。
ジル先生の助手であるミーナの方が、スラリと長身だ。
ホリーは大きな病気一つせず元気な子であったが、一度だけ風邪をこじらせて高い熱を出した時、ジル先生に診て貰った事がある。
苦い薬が嫌で泣いているホリーに、薬と同じだけの飴玉を一緒に包んでくれた。それはもう可愛い包装紙に包まれたキラキラの飴玉で、幼いホリーは一瞬で泣き止んでしまったものだ。
お薬を飲めたらご褒美に一つ、飴を舐めて良いと励まされて頑張ってお薬をのんで完治した訳だが……。
(あの飴、美味しかったけど……今考えると、あれって喉の薬なのよね……)
可愛い包装紙に包まれていたので、すっかり騙された。だから、ニコニコしていたってジル先生は優しいだけでは無い。
「ああ、美味しい紅茶です。これで十年は寿命が伸びそうですね。ホリーさんはお茶を淹れるのもお上手ですね」
「そ、そんな、大袈裟ですよ……」
ジル先生もロルフと同じく褒め上手。ホリーはついつい、先生が来る日を楽しみにしてしまっている。
「おや、ピクルスを作っているのですか!」
「はい。ロルフ様にたくさんお野菜を食べて頂きたいので……」
「感心、感心。塩加減には気を付けて下さいね」
「はい、心得ています!」
「うん、宜しい。では、診察に参ります」
「「宜しくお願いします」」
図らずもクラウスと言葉が被った。なんとも言えず恥ずかしくてホリーが顔を真っ赤にしていると、何時もにこやかなジル先生とミーナがより一層笑みを深くした。
ロルフの部屋へと向かうジル先生達を見送ってからホリーはピクルスをお裾分けしようと思い、仕込んだ物からトマトの断面を見せた華やかな彩りの物を選んだ。
小さな手提げ袋に入れて、ミーナにカボチャの種と共に手渡すと、それはもう喜んでくれた。
「ありがとう、ホリーさん」
ミーナの笑顔は、とても綺麗で迷いが無い。
(ナナさんは、心配してたけれど……)
ミーナにはもう、心に決めた人が居るのだ。それは、きっと……。
ホリーはほんのり心を温めて、ジル先生とミーナの背中を見送った。
ジル先生が帰り、昼食を食べてから暖炉の側でアーニャの毛並みを整えながら寛いでいると、ロルフが木刀を担いでクラウスを呼びに来た。
「ついにジル先生からお許しを頂いた。稽古をするぞ、クラウス」
「はい!」
「まあ、お体の具合は宜しいのですか? 無理をされては……」
「ジルの言う事を大人しく聞いて、こんなに我慢したのだ。少しは暴れさせなさい」
などと、ロルフは腕白坊主のような顔をした。
「で、でも……」
「父上はジッとし過ぎて腐りそうだと。元々、毎日山の中を庭のように駆け回っていた方だ。大丈夫だ、ホリー」
クラウスが後押ししてもなお心配なホリーは、
「む、無理は禁物ですからね! いけないと思ったら私が間に飛び出しますからね!」
懸命に二人の間に割って入ると、ロルフは愉快そうに笑った。そして、物語の騎士のように恭しくホリーの手を取った。
「ハハハ、大丈夫だとも。ホリー、私を応援してくれるかな?」
「もちろんです!」
思わず即答してしまってから、
「あ、えと、ど、どちらも応援致しますけど、む、無理はいけませんからね!」
モタモタ言い直し、チラリとクラウスを見上げると明らかにガッカリした顔をされた。
「やはりホリーは父上が一番か……そうか……」
「あ、ち、違います、あの、そ、そうではなくて……」
クラウスを力一杯応援したい。だが、クラウスがあまりにも強ければ、ロルフは無理をする事になる。
ロルフの応援もしたい。正に板挟みでオロオロしていると、ロルフは更に盛大に笑った。
「コラ、クラウス。ホリーで遊ぶな。それは私の特権だぞ」
「え?」
純真なホリーが真に受けてオタオタしている前で、クラウスは必死で笑いを堪えていた。
「ひ、ひどいです! からかっておられたのですね?」
「すまん。全部本気にして必死になっているのが可愛くて、つい」
「ふぇい?」
「コラ、口説くなら二人きりの時にしろ~」
「あ、あう、ええと、の、飲み物の支度をして参ります!」
バタバタ台所に逃げ帰ってしまう。毛繕いが途中だったので、アーニャが櫛を咥えて付いてきた。
「ごめんなさい、アーニャ。ハーブティーを支度したら、続きをやるわね」
「クゥン!」
嬉しそうに鼻を鳴らして、パチパチと両目を二回閉じる。それは言葉が通じないホリーの為にアーニャが考えてくれたサインだ。
「うん。私も大好きよ」
「キューン!」
ピッタリと体をくっつけてくれる。大好きな相手にだけする仕草なのだと、クラウスが教えてくれた。
同時に、クラウスが言葉の代わりのサインを伝える為に通訳をしてくれた事も思い出して、ちょっぴり笑ってしまう。
「キュン?」
「だって、アーニャ、フフ、あの時はとっても楽しくて……」
色々と考えた末、瞬きで伝えるのが一番分かりやすいだろうと、アーニャは沢山のサインを考えてまずはクラウスに、そしてクラウスを通じてホリーに伝えてくれたのだ。
「うん、分かった。ホリー、今のが大好きのサインだ。……それから、これが大大大好きのサイン……アーニャ、そんなに必要なのか? 分かった、噛むな。ええと、それから……」
冷静にクラウスが突っ込む度にアーニャがガブリとやって、その度にクラウスは「わかったわかった」と困った妹を諌める兄のように優しく辛抱強く付き合ってくれたのだ。
おかげで、言葉は通じなくてもアーニャの気持ちを知る事が出来るようになって、本当に嬉しい。
「……アーニャ、ちょっぴりモフモフしていい?」
仕方無いわね、とアーニャは一つ瞬きをしてくれた。アーニャの毛並みはフカフカで、最近はホリーが丹念にお手入れしているのでツヤツヤでもある。特に首元のふわふわが堪らなく気持ち良いのだ。
お許しを頂いたので、アーニャに抱きついてふわふわの首元に顔を埋める。
「あ~ふかふかぁ。気持ち良い……」
ずっとこのままでいたいが、そうもいかない。お湯が沸いてしまったので渋々とアーニャから離れて、元気が出てスッキリと美味しいミントティーを淹れた。
「さ、ロルフ様とクラウス様のお稽古を見学しましょ。行きましょ、アーニャ」
「クゥン!」
クラウスが一人で素振りしている所は何度も見た事があるが、本格的な稽古など初めて見る。
前にロルフから「剣士の素質がある」と褒められてから、実は興味津々だったのだ。
勿論、ナイフを剣に持ち替えてお転婆に振る舞うつもりなど毛頭無いが……。
(でも、お稽古を見学しながら、『剣士になった私』をちょっと想像するくらい良いわよね?)
ウキウキと足取りも軽くホリーは足元に戯れかかるように歩くアーニャと共に庭に向かった。
この家の庭はとても広い。片隅に小さな小屋を建てて暮らせそうなくらい、広い。
今は狼達も出産ラッシュで忙しいらしく、遊びには来てくれないが、出産が落ち着いて子狼達が一人前に歩けるようになると、ロルフに見せる為に狼達が訪れるという。
その広大な庭の片隅で小刻みにカンカンと打ち合う音を頼りにホリーはハーブティーを運んだ。
クラウスが戦う姿を、遠目で一度だけ見た事がある。それはもう素晴らしい身のこなしで、自分の何倍もある熊を相手に引けを取らなかった。
だが、死に物狂いで暴れる熊に弾き飛ばされた時には一瞬息と鼓動が止まったものだ。
クラウスは熊をも凌ぐのだから、どう考えても片腕のロルフは不利の筈だ。
それなのに、ロルフは片手で軽々と長い木の棒を振り回して、打ちかかるクラウスを軽くいなしているように見えた。
「うん、良いぞクラウス。良い突きだ。だが、隙が多い」
「くっ……」
鋭い突きを放つクラウスの動きをしなやかに捌いたロルフは、ガラ空きになった脇に一撃入れようとしたが、クラウスが咄嗟に横へ飛び退いて掠めただけになる。
その動きを見て、ロルフは嬉しそうに笑った。
「随分手応えがある。だが、まだまだ!」
脇を掠めた棒はそのまま足元に振り下ろされた。咄嗟に飛び退いたままで体勢の整っていなかったクラウスは膝を付いてしまい、ロルフの棒がクラウスの首に……。
ホリーは思わず両目を固く瞑ってしまった。僅かな沈黙を挟んで、そろりと目を開くと互いの剣先がそれぞれの首を狙っていた。
体勢を崩し、膝をついても諦めずに剣を振り上げたクラウスもロルフの動きを止める事に成功したのだ。
「よし。腕を上げたな、クラウス」
「ありがとうございます」
「だが、この程度で膝をつくな。私の剣を蹴り上げてでも優位な姿勢を保て」
「はい!」
もう一度だ、望むところです、と二人は夢中になって打ち合いを始める。動きを追うだけで必死で、応援どころではなかった。
(それに、邪魔をしたら申し訳無いわ)
喉が渇いた時に飲めるよう、ホリーはロルフが庭で本を読む時に使うテーブルにハーブティーをそっと置いて、アーニャと共に家の中に戻った。
「さ、アーニャ。続きをしましょ」
嬉しそうに尻尾を振ったアーニャは、小走りで置いておいた櫛を咥えてきて渡してくれた。
アーニャのクッションに座ると、その上に甘えるように身を投げ出すアーニャの背中から毛並みを整える。
櫛を通すとアーニャの毛並みがどんどんツヤツヤになるのが楽しくて、つい時間をかけてブラッシングしてしまうのだが、アーニャもこの時間を気に入ってくれているようだ。
大好きのサインを連発してくる。とても気持ち良いらしい。
「ねぇ、アーニャ。いつか、貴女とお話がしてみたいわ。そうなったら、とても素敵よね?」
パチ、とアーニャも賛成のサイン。ホリーはそっとフカフカの背中を優しく手で撫でた。撫でている内に何だか眠くなってきたホリーは小さく欠伸をする。
(今日はいつもより早起きしたから……)
ピクルス液の仕込みや、オールの奥様の様子が気になって、まだお日様も昇らない真っ暗な時間に起きだしてしまったのだ。
こく、こく、と眠気のままに落ちてしまいそうになる。おやつの仕込みも終わっていつでも直ぐ出せるし、夕飯の準備も万端。お掃除も滞りなく済んでいるし、何より主人二人は今、ホリーの世話を必要としていない。
(ちょっとだけ……)
アーニャのクッションに頭を預けると、驚く程自然に眠りに落ちていった。
「おや」
「……」
稽古を終え、大分冷めてしまったハーブティーを飲み干して部屋に戻ると、珍しくホリーが居眠りをしていた。アーニャがまるで母親のようにホリーを優しく包み込んでいる。
「今日は張り切って早起きをしていたようだからな……とは言え、腹が減ってしまったな」
『ちょっとくらい我慢しなさいよ、ロルフ』
ツンと澄ました顔でアーニャが言い返すと、父は見る間にしょんぼり肩を落とした。
「お前、だいぶ私に冷たくなったぞ……父さん、さみしいぞ……」
物心付いてからずっと、父に甘えっぱなしだったアーニャだが、ホリーを一番の友達と思うようになってから徐々に親離れしているようだ。
だが、甘やかし放題にアーニャを娘のようにメロメロに可愛がっていた父はまだ子離れ出来ていないようだ。
こんな事では、いつかアーニャが、『紹介するわね。私の男よ』などと好きな狼を連れて来ようものなら、その狼を手加減無しで殴ってしまいかねない。
その時は、自分がしっかりしなくては、とクラウスは心に誓った。
アーニャは悲しそうな父にも怯まずにツンとしたまま、
『悪い? ホリーは二人のためにいつも一生懸命なのよ。今日だって、私の母さんの為に早起きしてくれたんだから。少しくらい寝てても怒られないはずよ。だいたい、眠いのに頑張るなんてヒトっておかしいわね。眠たければ、いつでも寝たらいいのに』
そんなんじゃ、狩りの時に全力で走れないわ、とアーニャは狼らしく意見を言った。
「人だとそれは怠け者という事になってしまうからな。だが、アーニャの意見は正しいな」
父が肯定すると、アーニャは鼻高々と言った様子で更に鼻先を上げた。
そんな一人と一匹のやり取りも気にならない程にクラウスはホリーの寝顔に見惚れてしまっていた。
無防備に目を閉じていると、何時もより幼く感じられる。白い頬にかかった柔らかそうなサラサラの髪をそっとかきあげてみたい衝動と必死で戦わなければならなかった。
「ん……」
もぞもぞと寝惚けたまま温もりを求めているのか、アーニャのフカフカのお腹に顔を埋めたところでホリーはボンヤリと目を開いた。
産まれたての子狼のように無垢な目で父とクラウスを見上げた後、直ぐにパッと跳ね起きた。寝起きの良さは折り紙つき。救助隊員向きの特性だ。
「す、すすすすみません!」
「いやいや、構わないぞ、ホリー。クラウスなんぞ見惚れて何も言えなかったくらいだ」
なあ、と同意を求められたが、クラウスではまだ対処しきれない。思わず顔が赤くなるのを止められない。
『クラウス、ホリーのこと大好きだもの。仕方ないわ』
これはホリーに分からなくて良かった。もう自分の気持ちは筒抜けだが、狼からも言われて……しかも妹と思う幼い狼から言われてしまうと、恥ずかしい。
「おいおい、二人でリンゴになってないで、おやつを食べさせてくれ。ホリー、今日のおやつは何かな?」
「え、えと、えと、ええと……」
あわあわと何か妙な踊りを披露したホリーは、慌てて跳ね上がって「直ぐに支度を致します!」と走って行ってしまった。
寝起きでも即キリキリ働けるのは流石だ。
「ホリー、稽古でだいぶ汗をかいてしまったから、飲み物はレモン水にしてくれ」
「はい、直ちに!」
遠ざかりつつも元気な返事だ。
ホリーが作ってくれるレモン水は、レモンをほんのり、ミントの香りもする爽やかな冷たい飲み物だ。ミントでスッキリ飲めるので、汗をかいた後に丁度良い。
何時も、クラウスの朝の鍛錬が終わる頃を見計らって用意してくれるのだ。
それを父が羨ましそうに見ていたのを、クラウスは知っている。父は、「冷えると、お体に良くありませんから」と頑なに断わられて飲む事が出来なかったのだ。
その代わり、蜂蜜をたっぷり入れた熱々のレモネードでご機嫌だった。
いよいよ楽しみにしていたものが飲めるとあって父はご機嫌だ。思えば父がこんなに子供のように感情を顕にすることは無かった。
家庭にあっても抑制の取れた憧れの狼王そのもの。少年のように無邪気な顔は母にしか見せていなかったのだ。
クラウスは、どちらの父も息子として誇らしい。
「さて、クラウス」
「はい、父上」
先程の稽古から何か指摘を受けるのかと思ったが、違った。
「しっかりとホリーを早く捕まえなさい。あの子は無防備で心配だ。おまけにお人好しで優しい良い子だろう? お前がしっかりと守ってやりなさい」
「はい。この命に代えても」
「……それはホリーに直接、言ってあげなさい。とにかく早く、ホリーに申し込んでだな」
父は楽しそうに煌びやかな広告の紙を並べた。どれも女性のドレスの案内だ。
「お前も、この春には三年生だ。だが、卒業に間に合えば、合同の婚約式に出られるだろう? ホリーのドレスを予約する事を考えると時間が無くてだな、私の娘には一番綺麗で可愛いドレスを着せてあげたいではないか〜。それに……」
救助隊員は訓練所卒業と同時に婚約するものが多い。それは、一昔前の生存率の低さからもたらされた悲しい実情だった。
憧れの職業だが、結婚相手としては不人気。
早い内に想う相手と添っておかなければ、激務故にデートに裂く時間すら消えて、当然女性からは「私と仕事、どっちが大事なの?」と言う世界一の難問を突き付けられて、ふられてしまうのが定石。
猟犬使いも鳥使いも一部の例外を除いて血脈によって能力が発現するので、跡取りは死活問題でもあるのに、付いてきてくれる女性は少ないのだ。
それ故に、訓練所から既に早期結婚を推奨するイベントを作ってくれている。
実は、父は両手でも数えきれない女性達から言い寄られたのに結婚が遅かった為に婚約式に出ていない。
その為、今は亡き母と共にクラウスには是非とも婚約式に出て欲しいと切望していたらしいのだ。
(母上……)
クラウスが五才になった頃、遠い死者の国に旅立ってしまった母。
母もホリーと同じようにオールや彼の兄弟達と仲が良かった。買い物に出かける時にはクラウスと手を繋ぎ、オールが護衛してくれたものだ。
オールが忙しい時には、オールの弟達が代理として順番に護衛をしてくれた。その度にクラウスとも遊んでくれたり、狩りの仕方を教えてくれたりした。
クラウスにとっては遠い人間の親族より、狼達の方が大切な親族だ。
「……でな。聞いているのか、クラウス? ともかく早くだな……」
「聞いてますよ、父上。そろそろホリーが戻ります。おやつにしましょう」
「本当に聞いていたのか? 全く、最近生意気だぞ」
コツンと軽く小突かれるが、父はそのままクラウスの頭をぐしゃぐしゃと撫でてくれた。
自分でも感じる成長を喜んでくれているのだろう。
クラウスも、先を歩く父の背中に、狼達のように頭をグリグリ擦り付けて、驚いて振り返る父に笑って見せた。
夕ご飯を食べてから、いよいよオールの子供が産まれそうだとクラウスは母狼に付きっ切り。ホリーはクラウスが風邪を引かないように温かい飲み物を準備した。
クラウスのお母様が良く作ってくれたと言う蜂蜜たっぷりのジンジャーミルクティーは、ホリーもお気に入りの飲み物だ。
何時も、夜遅くまで勉学に励むクラウスに淹れるついでに自分も頂戴している。
「どうぞ、クラウス様」
「ああ、ありがとう。……うん、美味い。どうして同じように作るのに、ホリーの方が美味しいのか……」
「そ、そんな、慣れているだけですよ! クラウス様に作って頂いたの、と、ととととても美味しかったれしゅ!」
「……そうか」
またも盛大に噛んだにも関わらず、クラウスは笑いもせずに目を逸らした。
(わあ、どうしよう……呆れていらっしゃるのかも)
恋するホリーの目には、目を逸らして必死で笑いを堪えるクラウスの姿は映らない。
「……っくしゅん!」
「ホリーの方が風邪を引いてしまう。コレを使え」
夜を徹して見守るクラウスは分厚い毛布を被っていたのだが、それを丸ごとホリーに渡そうとするので慌てて辞退する。
「だ、ダメです! クラウス様が風邪を引いてしまいます」
「ホリーだって寒いだろう」
「わ、私は頑丈ですので! はくしゅん!」
「ほら見ろ。じゃあ、一緒に使うか」
「へ?」
クラウスは包まっていた毛布を広げて隣に座るように促してくる。
「寒い。早く入れ」
「は、ははははい!」
勢いに飲まれて、ホリーはクラウスの隣にちょこんと座り、気付けば一緒に毛布に包まれていた。
「寒くないか?」
「は、はい、あったかいです……」
ホリーの体が冷えないように毛布の半分以上をしっかりとかけてくれる。その度にクラウスの体温が近付いてドキドキしているのはホリーだけのようだ。
(そうだわ。ロルフ様もクラウス様も、基本的に狼っぽいのよ)
野生に生きる狼達も仲間同士くっついて暖を取るのは当たり前の事なのだ。悩むだけ損だし、クラウスは純粋にホリーの体が冷えないように気遣ってくれているのに。
(わ、私ばかりちょっとくっ付いただけでドキドキしているなんて、私、すごくいやらしいのかも知れないわ……)
何しろ男の人を好きになった事など無いのだから、全く分からない。
初々しい二人の葛藤を前に、母たる狼は色々と言ってやりたい事も諭してやりたい事もあっただろうが今はそれどころでは無い。
「もう、一匹目が産まれそうだ」
「頑張って下さい、奥様……」
二人が見守る中、母狼は苦しそうに息を弾ませて懸命に赤ちゃんを産もうと力む。母狼が力む度にホリーも下腹部に力が入ってしまう。
「わ、私も何か産んでしまいそうです……」
「フフ、そんなに心配しなくても大丈夫だ。もう何匹も子供を産んでいるからな」
「それでもお産は命がけです……あ!」
ポロッと一匹目の赤ちゃんが産まれる。直ぐに母狼は赤ちゃんが被っている薄い膜を舐めとり、赤ちゃんが自力で呼吸出来るように促す。
凛々しい狼も、産まれたばかりだとまだひ弱で小さく、人の赤ちゃんと変わらない。
「人だったら、こういうのお産婆さんがやってくれるのに、狼はみんな一人でやるんですね」
「ああ、本来なら母親が一人で産むものだからな。それにしても、珍しい毛色の子が産まれたな……」
まだ目も見えず、耳も聞こえない赤ちゃんは小さな足をバタバタ動かして、匂いを頼りに母狼のお乳を探し当てると元気に吸い付いている。
その子は、オールとも母狼とも毛色が異なる。
「なんて綺麗……お月様みたいですね」
「ああ。綺麗だな……」
その後は順調に合計三匹の赤ちゃんを産んだ母狼は、落ち着いた様子で赤ちゃんにお乳をあげている。
「兄弟なのに、みーんな毛色が違いますね!」
一番に産まれた月の光のような毛並みの女の子に、お母さんそっくりの灰色の毛並みの男の子、それにオールやアーニャそっくりの黒い毛並みの男の子。
「かわいい……みんな、元気一杯ですね……」
「ああ。みんな無事に育ってくれると良いな……」
クラウスが母狼の許しを得て赤ちゃんに手を伸ばすと、直ぐに一番に産まれた女の子が、よじよじ腹ばいで歩いてクラウスの手にぴったりくっついた。
「まあ。この子、クラウス様の事が好きみたいですね!」
「……」
「クラウス様?」
「……分かった」
「え?」
クラウスは擦り寄る小さな赤ちゃんを優しく指先で撫でながら話してくれた。
クラウスにはまだ、正規の相棒が定まっていなかった事。それでもオールやアーニャの手を借りて何とかやってこれた。
「オオカミ達と友達にはなれるし、話も出来る。それでも相棒となると特別だ。父上もオールと出会った時には何となく分かったと仰っていたが……それが、分かった」
つまり、産まれたばかりの小さな赤ちゃんだが、この子はクラウスにとって大切な相棒なのだ。
「この子は、俺の相棒だ。まさか、まだ産まれていなかったなんてな……」
「良かったですね、クラウス様!」
「ああ……名前を、付けてやらないと」
キュー、キュー、と小さな声で鳴きながらクラウスの指に擦り寄る赤ちゃんは本当に可愛い。何しろアーニャの妹なのだから、飛び切り可愛いに決まっている。
(きっとアーニャみたいに大きな目で可愛くて、どうしよう更にアーニャそっくりで素直じゃなかったら、可愛すぎて、私が死んじゃうかも知れないわ!)
勿論、弟くん達も可愛い。でもクラウスの相棒となると、ずっとこの家に居てくれるのだ。どんな子だろうかと、ついつい思いを馳せてしまう。
「女の子ですからね、かわいい名前が良いです!」
お花の名前とか、いっそ神話の女神様の名前とか。でも、由緒正しい狼使い直伝の名付け方があるのかも知れない。
「そうだな……」
クラウスは美しく夜を照らす月を見上げた。今夜は満月。天に瞬く星達は姿を隠し、天空は柔らかで優しい光に満たされている。
その月を統べるのは、全能の神の最初の妻であり、博愛と美の女神、そして未来を象徴するアルミス。
建国神話に登場する優しくて心まで美しい女神がホリーは大好きだった。
(アルミス様のご加護の中で産まれた子達だもの。きっと元気で健やかに育つわ)
逆に新月の夜は全能の神の二番目の妻、闇の女神ガーランディアが支配する世界。光り輝くように美しく優しいアルミスの姉でありながら、支配欲の強い妖艶な女神が、ホリーは苦手だった。
だから、お伽話の最後に母から言われたことを今も忠実に守っている。
「新月の夜には決して窓を開けてはダメ。闇を支配する女神が、自分が招かれたと勘違いして災いを呼ぶ。だから、絶対に窓を開けてはいけないし、夜更かしもダメ。わかった? ホリー」
ホリーは本当に怖くて怖くて、窓を閉めて鍵を閉めて、分厚いカーテンを閉めて布団を被っても、それでも怖い女神が魔法の力で忍び込んでくるんじゃないかと怯えていた。
母は、「大丈夫よ」と布団の上から優しく撫でてくれて、ホリーが眠りに落ちるまで側にいて柔らかな声で子守唄を歌ってくれたものだ。
(今は大丈夫。この子達の事も、アルミス様が守って下さるわ)
穏やかな月の光を見上げていると、心が落ち着いてくる。
「ルナ、と言うのはどうだろう。直接的過ぎるか?」
「いえ、とっても可愛いです! この子にぴったり! ルナ、ですね。ウフフ、とっても良い名前!」
やがて初めてのお乳をお腹がポンポンになるまで飲んだ赤ちゃん達はスヤスヤ眠り、一緒に母狼も眠そうにしていたので、箱の上にそっと毛布をかけてあげた。
母狼のお産が無事に終わっても、ホリーはクラウスの側から離れがたく、そろそろ休みましょう、明日も早いですから、と言い出すことが出来ない。
(どうしよう……急に静かになって、すごく……)
触れるか触れないかの距離から伝わる体温、どんどん大きくなる心臓の音。こんなに近くにいたら、クラウスにも聞こえてしまいそうだ。
「……ホリー」
「は……」
はい、と答えようとして、固まってしまう。クラウスの手が、優しくホリーの手を包み込んでいる。水仕事でひび割れてガサガサの手を。
こまめにお手入れすれば保てると聞いたが、そんな暇は無い。
(恥ずかしい、こんな手……ちっとも女の子らしくないもの……)
働き者にとっては自慢の手でも、好きな人に触れられるなら、柔らかで綺麗な手が良い。
大きくなっていた心臓の音は全身が脈打つ程に高鳴り、頭の中が真っ白になって……大切な母の言葉を思い出した。
『だからホリー。身分違いの相手と怯まず、一度は盛大に転ぶつもりで体当たりしてみても良いかも知れないわ』
ホリーが怖がって手を引いたら、クラウスは何も言わずに去るだろう。また、いつも通りの日々に戻る。
やがて、クラウスの想いからも自分の想いからも目を逸らして逃げ続けてしまうだろう。
(転んだって起き上がれば良いんだわ。大丈夫……)
ホリーは思い切ってクラウスの手を握り返した。
でも、もうそれで精一杯。クラウスの手がそっと頬に触れるのを見る事も出来ずにいると、じっと見つめられているのが分かった。
おそるおそる顔を上げると、クラウスは真っ直ぐにホリーを見ていた。月明かりだけが頼りの室内で、真っ直ぐに見つめてくるクラウスの目は見た事も無いほど美しい色をしていた。
真冬の、夜を控えた夕闇の中で見る大好きな空の色。暗闇に包まれる直前の深い藍色は、何よりもホリーの好きな色。
暗闇の中で見るクラウスの凜とした青い瞳は、その空の色に似ていた。
見惚れている内に、重なろうとする影に合わせてホリーが目を閉じると、鼻先に柔らかい唇の感触があった。
「……すまん」
「あ、い、いえ……」
どうやら上手くキスが出来なかったようだと自覚した途端、ホリーは全身が爆発しそうなほど恥ずかしかった。
「あ、あの、二人共目を閉じてしまったのが、いけなかったのでは……」
「そ、そうだな……」
チラリと気まずそうにホリーを見る目がイタズラをしてしまった時のアーニャにそっくりで少しだけ笑ってしまった。
「……慣れていなくて……その、すまない」
「いいえ、わ、私も、初めてなので……その、初めての相手が、クラウスさまで、嬉しい、です」
クラウスを元気付けようと思っての言葉だったが、うっかり凄い事を言ってしまって、ホリーも気まずくチラリとクラウスを見上げた。
「俺も、初めての相手がホリーで嬉しい」
「あ、あの、も、もう一度……」
慎重に重なる唇からは、ミルクティーの味がした。
「クラウスさま……」
名前を呼んだ途端にもう一度軽くキスをされた。
「ホリー。もう、様は無しだ」
「あ、は、はい……く、クラウス、さん」
「さん、もいらない」
「そ、そんなにいきなりは、無理です……許して下さい……」
「わかった。待っている」
「はい……」
ぴったりと余す事なく寄り添って、指を絡め合うように手を繋ぐと心から安心できた。あるべき場所に帰って来たような、足りないものを探し当てたような。
人が、人を好きになるのは、そういう事では無いかとホリーは思った。
人の心は必ずどこかが欠けていて、その心にぴったりの人といつか巡り会う。その時、満たされるのは欠けていた所に好きな人が何かを満たしてくれるから。
それは、お互いの心に。
クラウスにとって、自分もそうであると嬉しいな、と思いつつ、ホリーはクラウスの肩に頭を預け、大きな手が頭を撫でてくれるのを感じながら心地良く目を閉じた。
「父上に、朝一番に知らせないと」
「はい」
明日になったら友人達にも伝えて、色々と準備をして……。
「もうホリーは俺達の家族になるのだから、食事も一緒だぞ」
「はい」
大人しく頷いていると、ふいに顔を覗き込まれた。
「ホリーは俺に何かして欲しい事はあるか?」
「……あの……あの、ええと……」
頭にパッと浮かんだのは、「毎日、キスがしたい」だった。そう言いたくても、なかなか言い出せない。
じっとクラウスを見上げていると、彼はちょっと意地悪そうな顔で笑った。
「分かった」
「な、なにも言ってませんけど……」
でも、バレている気がした。クラウスは笑って、ホリーの頬にキスするとそのまま甘えるように肩に顔を埋めてきた。
「温かいな」
「ダメですよ、こんな所で寝たら風邪を引いてしまいます」
「もう少しだけ」
春とは言え、まだ夜は寒いのに。ホリーも注意を促しながらクラウスから離れたくなくて、「もう少し」と思う内に、互いの温もりで眠気を誘われ……。
気付かぬ内に二人揃って眠ってしまっていた。
「どうする、オール」
「ガウ」
「んー、それはやり過ぎだろう。ホリーが泣いてしまうぞ」
「グルルル……」
「まあ気持ちはわかる」
ロルフとオールの声で目が覚めたホリーは、飛び切りにこにこしているロルフと、不機嫌そうなオールが覗き込んでいると気付いて驚いて小さく悲鳴を上げてしまった。
身動きが取れないのは、クラウスに抱きしめられて腕が外れないからだ。
「あ、あ、あ、あの、その、わたし、ええと、あうう……」
「おはよう、ホリー。そこの馬鹿息子も叩き起こして、朝食を作って貰えないか? 水汲みは馬鹿息子に任せなさい」
「は、はう、でも……」
こんなに気持ち良さそうに眠っているのに、起こすのは忍びない。
「今からきちんと夫を顎で使わないとな。甘やかすと見る間に何もしなくなるぞ?」
「お、お、おっととと……」
朝から頭が真っ白な上、恥ずかしくて蒸気を吹きそうなホリーのお腹の辺りに回されていたクラウスの手に力がこもった。
「ホリーで遊ばないで下さい、父上」
「なんだ、起きてたのか? お、そうだ、赤ちゃんを見せて貰おう」
ロルフとオールは箱の中でお乳を飲んでいる赤ちゃんに直ぐに夢中になった。
「見ろ、オール。お前にそっくりだ。こっちは嫁にそっくりだな! おお、この子は月の化身か? 美狼になるぞぉ、きっと!」
「フン……」
「そんな事言って、お前いつも娘にメロメロになるくせに。可愛いなぁ、みんな元気だなぁ」
おお、よちよち、などと孫を愛でる祖父のように既にメロメロなロルフと、興味無さそうに鼻を鳴らしながら、出産で疲れきったお嫁さんを労わる様に顔を舐めてあげているオール。
二人が揃って子狼に夢中になっている隙に、ヒョイとクラウスにキスされていた。
「水を汲んでくる」
「は、はい、お願いします、クラウスさん」
寝起きとは思えない程身軽に立ち上がったクラウスはキビキビと水汲みをしてくれ、ホリーは慌てて石窯に火を起こそうとするとロルフが手早くやってしまっていた。
「そ、そんな、ロルフ様まで……」
「……ホリー……」
さっきまでにこにこ上機嫌だったロルフは見る間にしおしおな顔になった。
(はう! なんて失礼なことを考えているの、私ったら!)
その顔がまるで子供みたいに可愛らしく感じられて、ホリーは慌てて首を横に振った。
「ホリー、あれは誰だね?」
「え? クラウスさんです」
「私は?」
「はい? ロルフ様です」
スウ、とロルフは大きく息を吸って後ずさりするとめまいでも起こしたかのように両手で顔を覆い、天を仰いだまま、深刻な声色で告げた。
「……だめだ。今日、死ぬかも知れん」
「ええ? ろ、ロルフさま!」
ますますションボリ肩を落とすロルフに、ホリーは慌てて額に手を当てて熱を計った。
「あの、お熱は無いみたいです。どこか痛みますか? そ、そうだ、私、ジル先生を呼んで来ます!」
「無理だ。ジルでも治せない。胸が空っぽになったみたいに寂しいのだ、ホリー」
深刻に溜息をつきながら、
「お前が私をお父様と呼んでくれないから」
と、ロルフは子供のように拗ねた顔で唇を尖らせた。
「……お、お、おと、おとう……おと……」
どうしても、ホリーにはその呼び方が出来なかった。夢にまで見た、理想の父なのに。ロルフのような優しくて頼もしく、憧れの人が……本当に父になる日が来るかも知れないのに。
ふと頭をよぎる、実の父の顔が浮かぶ度に唇は閉ざされていく。
父は、母と仲は良くなかったけれど……本当に気紛れに、ホリーには優しくしてくれる事があった。
フラリと帰って来ては、母に内緒で華やかで綺麗なお菓子をくれたことも……。
『美味いか、ホリー』
『うん!』
『母さんには、内緒だぞ』
ホリーがロルフを父と呼んでしまったら、この優しい思い出も裏切ってしまう気がして。ホリーと母を平然と捨てて行った酷い父親なのに。
どうしても、どうしても、ロルフを父と呼べなかった。
「ホリー。そんなこの世の終わりのような顔をしなくても大丈夫だ。いつか、私を父と呼んでおくれ」
あんなに残念がっていたのに、ロルフはホリーのために笑って頭を撫でてくれた。
「はい……」
「それと、今日からは私達と一緒に食事をする事。家事を手伝う事を止めない事。何なら、部屋もクラウスと一緒が良いかな?」
「はい……は、はぁ? だ、だめですそんな、はしたないこと……」
「ハハハ、その調子だ。しっかり者の嫁として、クラウスを頼むぞ」
ホリーの小さな葛藤など、見当がつくのだろう。ロルフは何も聞かない優しさをもって、包み込むように大きな手で頭を撫でてくれた。
「さあ、パンを焼こうか」
「はい!」
火の番はロルフに任せて、ホリーは昨夜の内に仕込んでおいたパン生地を成形する。まん丸のパンを石窯に入れると、香ばしい香りが立ち込めた。
それは、ホリーにとって幸せな日々の始まり。胸を締め付ける小さな翳りは心に秘めておいた。
進級試験を経て、クラウスは最上級生になる。本格的に救助隊員として実地訓練を積み、やがて正規隊員として活躍する。
ホリーは、そんな彼の隣に相応しい人になろうと、決意を新たにしていた。
