水たまりの再会(短編版)|シロクマ文芸部
シロクマ文芸部のお題「水たまり」ではじまる作品、短編verです。
ショートショート版を元に2人のキャラを書いてみました。
(約3,800字)
水たまりを前にして、私は足を止めた。
珍しく定時に上がれる喜びも、怪獣がバケツをひっくり返したような雨に、まさに水をさされた気分だった。
私は雨にいい想い出がない。
小学3年生の時はトラックに思い切り水飛沫を浴びせられ、濡れ雑巾のようになって帰宅した。
大概、私が予想した天気は外れることになっている、雨には恨みはたくさんある。
「これじゃあ、歩き難いわね……」
一緒にアフター5などと盛り上がっていた同僚のサエコは迎えの電話を入れていた。
彼氏持ちとの友情ほどあてにならないものはない。
でも今日の梅雨の終わりを告げるような激しいゲリラ豪雨は、定時の午後五時を過ぎた頃に、ピタリと嘘のように上がった。
オフィスビルのエントランスを出ると、濡れたアスファルトが西日を反射して、眩しく光っている。
しかし思った通り、ザラついた舗装のデコボコには、たっぷりと雨水を溜め込み人々を拒んでいた。
生ぬるい風と都会の雨の匂いが、私の嫌いな夏の煩わしさを運んできたようで、雨の日のイヤな記憶が蘇る。
私は、新調したばかりのベージュのパンプスを見下ろした。
七センチのヒールは、私の背筋をいくらか伸ばし、大人の働く女性としての見栄えを完成させてくれるお気に入りだ。
慎重に水たまりを避けて歩く。
すれ違う人や車にも油断はしない。
私は地雷原を進む兵士の緊張感で敵雨を警戒していた。
けれど、歩道の一角、行く手を阻むように広がった大きな水たまりを前にして、私はピタリと歩みを止めた。
水面には、幾何学的なビル群と、雨を落としスッキリとした初夏の青空が逆さまに映り込んでいる。
ここまでか……。
舗装の悪い近道は諦め、大通りに迂回し最寄りの地下鉄を乗り継げば、時間はかかるが自宅駅にはたどり着く。
そこからアパートまでの道のりが良い保証は無いが、いや、絶対に悪いが、この眩しい西日と初夏の空気が幾分乾かしてくれていることだろう。
(よし……遠回りしよう)
そう思った瞬間、記憶の底から少し苦い思い出がよみがえった。
ーーーー
「なあ、また本読んでるのかよ?」
「ほっといてよ、ここで読むのが好きなの!」
何故か私はグラウンドで本を読むのが好きだった。
グラウンドには大抵陸上部のシンジがいた。
彼は幼馴染だ。
さっきまでハードルを馬のように飛び続けていたはずだが、今ケラケラと笑いながら私に絡んでいる。
小さい頃から一緒だった。
「凪、なぎー、遅れるぞ!」
「だから、もっと早く来いってば!」
必ず迎えに来るクセにいつも遅い。
ケンカばかりしていたが一人っ子の私には、兄妹のような存在だった。
「シンジ君、凪をお願いね」
シンジは「俺か!」と言わんばかりのドヤ顔を見せた。
「ママ、余計なこと言わないで」
そんな月日は流れ、高三の秋。
「なあ、進路どうするんだ?」
「私は東京の大学に行く、シンジは?」
「俺は陸上部の推薦で就職して社会人として走る!」
「えっ、社会人でも陸上やるの?」
シンジは陽キャで脳筋だが頭はいい、成績だって普通に大学に行ける。
小さい頃からの付き合いも終わりが見えようとしていた。
卒業間近の、やはりこんな雨上がりの帰り道。
目の前に現れた大きな水たまりを前に、私はおろしたての本革のローファーが汚れるのを嫌がって、すぐに踵を返そうとした。
「おい、何立ち止まってんだよ!」
後ろから声をかけてきたのは、シンジだった。
陸上部のエースは、水たまりなんて、まるで初めから存在しないかのように、その長い足で軽々と跳び越えてみせた。
バシャリ、と激しい音がして、彼の白ソックスとスニーカーが泥に汚れた。
「あーあ、汚れちゃったじゃん」
私が呆れると、彼は濡れた髪をくしゃくしゃと掻きながら笑った。
「平気平気、洗えば落ちるって。ほら、お前も来いよ。手を貸してやるからさ」
差し出された彼の手は、日焼けしていて少しだけ逞しく感じた。
私はその手を握れなかった……。
靴が汚れるのが嫌だったからじゃない。
その手を握って、彼と同じ世界に飛び込んでしまったら……。
胸の奥にある気持ちが、泥跳ねみたいに飛び散ってしまいそうだったからだ。
「いい。遠回りしていくから」
私はそう言って、彼に背を向けた。
それが、私と彼の最後。
卒業後、彼は社会人になり、私は東京の大学へ進学して、それっきりだった。
いや、本当は彼は何度も連絡をくれていた。
「今度いつ帰るんだ?」
お盆休みや年末になると聞いてくる。
「男出来たか?」
父親かお前は?
私はそんなシンジを無視し続けた。
きっと子供の頃に読んだ王子様が現れると信じて。
いや違う、会いたくなかった訳じゃない、それは分かっていた。
会うのが怖かっただけだ。
本当の兄妹じゃないから……。
「なあ、帰って来たか?」
シンジからのメールがスマホに届く。
年末の駅のホーム、私は返信を書いては消していた。
「家族旅行に行く予定……」
何個も考えたウソの言い訳。
たぶん今シンジに会ったら、私はその大きな胸に泣きついてしまうかもしれない。
それほど病んでいた。
大人を気取って犯した過ちを、誰にも言えずに苦しんでいた。
「連絡だけはしろよ!」
彼は深くは聞かなかった。
繰り返す私のウソなどとうに気付いている。
「ありがとう」
そう返すのが精一杯だった。
それからもたまにメールをくれる。
私のことは聞かないくせに自分の愚痴を山程書いてくる。
「なぎ、陸上部に可愛い新人が入った、お尻が……♡///」
「知らんわ、アホ!」
「なぎ、あっさり振られた……TT」
「wwwコーヒーが美味い!」
シンジらしい優しさだった。
少しだけ、昔の自分に戻れた気がした。
ふと横を見るとサエコと迎えの彼氏が車から手を振っていた。
大人の対応をしたが内心はゲリラ豪雨の怪獣が吠えていた。
私は俯き、水たまりに背を向け引き返そうとしたーー。
「相変わらず、そこで立ち止まるんだな」
低く落ち着いた、けれど聞き覚えのある声がした。
私はハッと我に返った。
偶然だった。
雨の日の悪戯としか思えない……。
ゆっくりと顔を向けると、そこには、紺色のスーツをスマートに着こなした大人になったシンジが立っていた。
手には、水滴の滴るビニール傘。
少し癖のある黒髪を、あの日のように掻き上げた。
「久しぶり。やっぱりそうか。もしかしてと思ったんだ」
彼はそう言って、優しく目を細めた。
高校時代より肩幅が広くなり、日焼けした肌も、心なしか都会のビジネスパーソンらしく落ち着いて見える。
けれど、笑うと覗く白い歯は、あの頃のままだ。
私たちは、水たまりの前で数年ぶりの視線を交わした。
「東京にいたんだね」
「ああ、去年の春からこっちのオフィス。まさかこんなところで会うなんてな」
「まだ走ってるの?」
「いやー、まだやれると思ってるんだけどな。なんか仕事の方も忙しくなってきてさ、俺は走りたいんだけど……」
シンジらしい。
頭も良く面倒見もいい彼は、少し出世したようだ。
「なあ、あんな大きい会社の経理って大変じゃね?」
「まあ私一人じゃないから……、シンジみたいに雑なヤツもいるから眉間にシワが出来そうだよ」
「ははっ、ナギに怒られてるヤツの顔が浮かぶな!」
「笑いごとじゃない!」
お互いの近況を少しずつ確かめ合うような、ぎこちなくも懐かしい会話が流れる。
ふと、彼が私の足元に目を落とした。
「綺麗な靴だな。……やっぱり、今でも汚れるのは嫌か?」
「えっ?」
その言葉に、胸の奥がチクリと痛んだ。彼は、あの日のことを覚えているのだろうか。
私が差し出された手を拒んだ、あの日のことを。
私は小さくため息をつき、自嘲気味に笑った。
「大人になったんだよ。靴を汚したら、手入れが大変でしょう?」
(私はもう汚れている……)
「違いない」
彼は声を立てて笑うと、大きな水たまりに向かって一歩、歩みを進めた。
彼が履いているのは、磨き上げられた黒い革靴だった。
けれど彼は、躊躇うことなく、その高級そうな革靴のまま、水たまりの真ん中へと足を踏み入れた。
バシャリ、と静かな水の音がして、波紋が広がり、逆さまのビル群を歪ませる。
「あ、ちょっと、何やって……」
「大人になるってさ、汚れた靴の洗い方を知るってことでもあると思わない?」
彼の強い眼差しが私を射る。
「俺も大人になったんだよ」
彼の目は何かを諭すようだった。
彼は水たまりの中に立ったまま、私に向かって、右手を差し出した。
あの頃のような日焼けした肌ではない。
けれど、大きくて優しい、確かな大人の男の手だった。
「おいで。今度は、汚れても一緒に歩こう」
彼の瞳は、まっすぐに私を捉えていた。
その強い眼差しに、私は自分が、ずっとあの雨の帰り道に立ち止まったままだったのだと気づかされる。
(もう遠回りはしたくない……!)
「……私のヒール、結構高いからね」
私はそう言って笑うと、小さく息を吸い込み、彼の右手をきゅっと握り締めた。
差し出された手のひらは、思ったよりもずっと温かかった。
ベージュのパンプスが水たまりを叩き、激しい飛沫を上げた。お気に入りの靴が濡れていく。
不思議と嫌な気持ちはしなかった。
水たまりの中で、彼の手が、私の体をしっかりと支えてくれたから。
あの日飛び込めなかった二人の時間が、足元から広がる波紋のように、今ここから新しく色づき始めていた。
(了)
